2020/02/23

アリストテレス(12) ~ 友愛(フィリア)

出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html

友愛
 そしてアリストテレスの倫理学で、もう一つ有名なのが「友愛(フィリア)」論です。これはさまざま徳について論じてきた最後に、それらを完結するように語られてくるものでした。すなわち、諸々の徳が論じられた後、社会の中で要求される「徳の究極のものとして正しさ、正義」といったものが長々と論じられるのですが、それで終わりになるのではなく、さらに付け加えられて、そうした「徳が完全に全うされるには、友愛が必要」だとして語られてくるのです。

したがって、この「友愛」というのは一種の徳というより、「徳が徳として完成される場面」といったニュアンスであり、それゆえ「徳に伴ってくる」というような言い方がされてくるのです。「友愛が伴なっていない徳など、徳とは言えない」ということです。あるいは「すべての徳は、結局“友愛”という形になる」と言った方が正しいかもしれません。
 
さて、アリストテレスが言うには、通常私たちが「友愛の対象としての友人関係」になる動機として、先ず相手が「」である(つまり愉快であるとか、楽しいとかの内容です)や「有用性」(これは役に立つ、といったようなことです)を求めた結果だと考えられると言います。しかし、これはその「快」や「有用性」が目的であると言える限りにおいて真実の友とは言えず、真実の友とは相手が善き人であるから、というその点を愛することによって結ばれた関係なのだ、と結論づけます。

 一方、この「」というのは、一つの行為においてたまたま善であった、というようなものであっては、何時また善でなくなってしまうかもしれませんから、これは具合が悪い。つまり、「人格そのもののところで成立している善」でなければならないわけで、それは要するに「」ということが分かっていて意図的に善を為し、それゆえに「善き人」となっているということですから、当然これは「理性」の場面に成立しているものとなります。

 こういう「理性において善き人」というのは「人間性そのもののところで善き人」ですから、お互いに似ています。そして相手の善も自分のものと同様ですから、互いに相手を自分のように見なせ、ここに相手が他なる自己のごとくに見る関係が出来上がってきます。こうして、相手のための善を相手自身のために願う、ということが必然的に伴ってくることになります。無論、こんな関係は稀有にしか成立しないでしょう。しかし、これが目指すべき関係だと言われれば、それは確かにそうなのかも知れません。

 一見、こんなの面白くも楽しくもないと思うかも知れませんが、アリストテレスはここにこそ「本当の楽しみ・快」があると指摘しています。なぜなら、善き人というのは善き行為を喜び、そこに快を感じる筈で、だとしたらその善を実現している相手と共にいることほど楽しいものはない筈だからです。そしてまた、こうした人はその善の実現を願っているわけですから、丁度、正しさの実現に他者が必要なように(たとえば荒野で孤独となっている自分一人のところでは、正しさもへったくれもありません。正しさとは、他者に対して正しい行為をなすことにおいて、始めて実現してくるのです。アリストテレスは「ポリス(公共社会)の倫理学」を考えているのですから、当然そうなります)、同様に、その善をなす相手が必要なわけで、その相手を求めるのが必然です。その相手として、先ず親しき友が選ばれるのは当然で、したがってこうした人も友を求めることになるわけです。

 一方、こうした関係にある友は、互いに善を相手に尽くしていくわけで(もちろん社会全体に善の実践をしていることは、いうまでもありません。それがあって、始めて善き人だったのですから)、自分自身の確立のためにも有用この上なく、先に挙げた快もあって、友と言われるものに特有なすべてが備わっていて最高の友愛が実現し、ここにこそ人は幸福を感じるだろうというわけです。こういったところには、意識していなくても正しさ・正義は実現しており、他の徳も全て実現している筈だということになってくるのでした。

 ひるがえって、私達のレベルでも愛する者を得ている時ほど幸せを感じることはないわけで、その二人の関係にはアリストテレスが指摘した全てが実現しているとも言えます。アリストテレスの場合には、この二人の関係が二人だけにとどまって居らず社会において実現していたら、ということとして理解しておけばいいでしょう。

2020/02/15

アリストテレス(11) ~ 中庸

出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html


人間の生活の三つの型
 アリストテレスは、人間の生活の姿勢をおおまかにわけて三つに分けていますが、それは「享楽的生活」と「ポリス的生活(ギリシャ語でポリティコスと言い、ここでは「ポリス・社会のために働こうとする人々」を意味します)」、そして「観照的生活(理性が理性そのものを見て楽しんでいる状態ですけれど、こんなの現実的にはあり得ません。しかし理論上は、要求されなくてはなりません)」とになります。無論、理論上は三番目が、一番優れた生活の在り方となります。何故なら「人間は理性を持つことによって、人間と言える」からです。

 簡単に説明しますと、一番目は私たちの社会でも一番多いタイプで、利益・快楽を一番大事に生活している人々です。この人々は、究極的には「自分だけの利得、快楽」を第一に考えることになるので、ポリスの目的たる「正しさの実現にはマイナス」の人々とされ、したがって当然評価は低いことになります。

アリストテレスは、この人々は要するに正しさの何たるかなどということには興味も示さず、食うことばかり考えている「家畜のような人々だ」と酷評しています。これは今日でも現実にたくさん観察され、しかもこうした人々によって、ギリシャ・ポリスは滅んでいったという事実も挙げられますので、その時代に生きていたアリストテレスの怒りも分かります。

 二番目は「社会的名誉」を目的とする人々ということになり、その限りではその人々は有徳な生活も心掛けるのではあるけれど、これはそうであったとしても、その名誉は結局、他者から与えられるもので、その人そのものに付帯してくるものに過ぎないから、十分な善とはいえないとされます。ちなみに、社会的活動に誠実に邁進していると見えながら、実態は権力欲、金儲けという人々もたくさんいたでしょうが、そうした下劣な人間は第一のタイプに属するとされ、ここでは実態としても社会的名誉を重んずる人々が考えられています。

 第三の「観照的生活」というのは、真実を求め、理性に則して、そうしてえられた真実の知を眺めることに喜びを持つということです。こうした生活態度があって、始めて真実というものが人間に得られてくるわけですから、一番善い生活の在り方ということになるのは当然です。ただし、これは理論上のことです。

 つまりアリストテレスの論の運びは、こうした三つの生活法を念頭におきながら「」や「幸福」について一般の人々、つまり第一のタイプの人々の見解から始め、それを却下して第二のタイプに進んでここに大部分の論を費やして、最後に第三のタイプに触れるというような構成になっているのです。ただ、第三については殆ど付け足しといった感じで、アリストテレスが現実的人間の在り方として論を立てるべきと考えていたのは第二のタイプの人々のようで、いかにしたら真実に有徳なる人間となれるのかといったところに、彼の倫理学の関心は集中しています。

 それがゆえに、彼の倫理学は結局「国制論」に移行せざるを得なくなるのです。繰り返しますが、彼の倫理学は「ポリス(国家・社会)の倫理学」という性格を持っているわけですから、どうしたって、では「ポリス(国家・社会)の良い在り方は」というところに議論が移らざるを得ないのでした。

人柄のよさ、徳とは「ほど良さ・中庸」
 そうしたアリストテレスの倫理学で、一番有名なのが「ほど良さ・中庸」という概念でしょう。ただし、これはアリストテレス倫理学の一部と言ってよく、しかも究極の徳性を表しているというわけでもないのですが、分かりやすいというか現実的であるという理由からでしょうか、有名になっています。

 これは「人柄にかかわる優れ(アレテー)」に関して言われてくるものであり、簡単に言ってしまえば、徳というのは「中間」を得るところにある、ということで、例えば「勇気という徳は、猪突猛進と臆病の中間にある」というわけです。ただし、この中間は算術的に10の中間は5といった具合に決められてくるのではなく、徳の類によって過剰な方(勇気なら猪突猛進の方)により近くに、その中間としての徳(つまり勇気)が見出だされる場合もあるし、不足の方に、例えば「節制」というのは欲の過剰なものとしてのふしだら、締まりのなさからより遠く、欲の不足としての禁欲の方により近いところに見出だされてくる、というわけです。

 さらに、これは人に応じ、状況に応じて変動するものです。これは丁度、食事量が人に応じ、状況に応じるのと同様だとされます。つまり、相撲の関取たちに適当な食事量と、小さな可愛い少女たちの適度な食事量が全然違っているのと同様だとされるのです。

つまり、勇気でいえば戦士に要求されるあり方・程度と、可憐な少女に要求されるありかた・程度は全然違うというわけです。ですから、同じ勇気といったって、確かに臆病からは遠くにあるとはいっても、どこにあるかは良く分かりません。おおよそこんな辺りといった、ぼんやりしたものでしかないのです。ですから、同じ行為をしても人によって評価も違ってしまうわけで、ある行為が、猪突猛進型の人からは臆病と言われ、臆病傾向の人からは無茶な行為と言われてしまうかも知れないのです。ですから、この中間としての徳を見出だしてくる思考の優れ、つまり知性というものが大切になってくるわけです。