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友愛
そしてアリストテレスの倫理学で、もう一つ有名なのが「友愛(フィリア)」論です。これはさまざま徳について論じてきた最後に、それらを完結するように語られてくるものでした。すなわち、諸々の徳が論じられた後、社会の中で要求される「徳の究極のものとして正しさ、正義」といったものが長々と論じられるのですが、それで終わりになるのではなく、さらに付け加えられて、そうした「徳が完全に全うされるには、友愛が必要」だとして語られてくるのです。
したがって、この「友愛」というのは一種の徳というより、「徳が徳として完成される場面」といったニュアンスであり、それゆえ「徳に伴ってくる」というような言い方がされてくるのです。「友愛が伴なっていない徳など、徳とは言えない」ということです。あるいは「すべての徳は、結局“友愛”という形になる」と言った方が正しいかもしれません。
さて、アリストテレスが言うには、通常私たちが「友愛の対象としての友人関係」になる動機として、先ず相手が「快」である(つまり愉快であるとか、楽しいとかの内容です)や「有用性」(これは役に立つ、といったようなことです)を求めた結果だと考えられると言います。しかし、これはその「快」や「有用性」が目的であると言える限りにおいて真実の友とは言えず、真実の友とは相手が善き人であるから、というその点を愛することによって結ばれた関係なのだ、と結論づけます。
一方、この「善」というのは、一つの行為においてたまたま善であった、というようなものであっては、何時また善でなくなってしまうかもしれませんから、これは具合が悪い。つまり、「人格そのもののところで成立している善」でなければならないわけで、それは要するに「善」ということが分かっていて意図的に善を為し、それゆえに「善き人」となっているということですから、当然これは「理性」の場面に成立しているものとなります。
こういう「理性において善き人」というのは「人間性そのもののところで善き人」ですから、お互いに似ています。そして相手の善も自分のものと同様ですから、互いに相手を自分のように見なせ、ここに相手が他なる自己のごとくに見る関係が出来上がってきます。こうして、相手のための善を相手自身のために願う、ということが必然的に伴ってくることになります。無論、こんな関係は稀有にしか成立しないでしょう。しかし、これが目指すべき関係だと言われれば、それは確かにそうなのかも知れません。
一見、こんなの面白くも楽しくもないと思うかも知れませんが、アリストテレスはここにこそ「本当の楽しみ・快」があると指摘しています。なぜなら、善き人というのは善き行為を喜び、そこに快を感じる筈で、だとしたらその善を実現している相手と共にいることほど楽しいものはない筈だからです。そしてまた、こうした人はその善の実現を願っているわけですから、丁度、正しさの実現に他者が必要なように(たとえば荒野で孤独となっている自分一人のところでは、正しさもへったくれもありません。正しさとは、他者に対して正しい行為をなすことにおいて、始めて実現してくるのです。アリストテレスは「ポリス(公共社会)の倫理学」を考えているのですから、当然そうなります)、同様に、その善をなす相手が必要なわけで、その相手を求めるのが必然です。その相手として、先ず親しき友が選ばれるのは当然で、したがってこうした人も友を求めることになるわけです。
一方、こうした関係にある友は、互いに善を相手に尽くしていくわけで(もちろん社会全体に善の実践をしていることは、いうまでもありません。それがあって、始めて善き人だったのですから)、自分自身の確立のためにも有用この上なく、先に挙げた快もあって、友と言われるものに特有なすべてが備わっていて最高の友愛が実現し、ここにこそ人は幸福を感じるだろうというわけです。こういったところには、意識していなくても正しさ・正義は実現しており、他の徳も全て実現している筈だということになってくるのでした。
ひるがえって、私達のレベルでも愛する者を得ている時ほど幸せを感じることはないわけで、その二人の関係にはアリストテレスが指摘した全てが実現しているとも言えます。アリストテレスの場合には、この二人の関係が二人だけにとどまって居らず社会において実現していたら、ということとして理解しておけばいいでしょう。