2020/02/08

アリストテレス(10) ~ 「人間は社会的動物である」

出典http://www.ozawa-katsuhiko.com/index.html
 
 プラトンの弟子であるアリストテレスの「人間の生き方」についての論は「エティカ・倫理学」と呼ばれます。アリストテレスは、プラトン以上に「学究肌」の人であり、「人生の形成」という意味では、ソクラテスの弟子の系譜の人々の中では最も弱いとも言えますが、逆のその思想は「最も理論立っており体系的」で、近代哲学の模範的な位置にあります。

 「エティカ」という言葉は日本語で「倫理学」と訳されていますが、「倫」というのは「仲間内、集団」といったような意味で「理」というのは「筋道」ということです。つまり「人間の仲間内・集団での筋道」といった内容です。他方、「エティカ」の方はもともと「動物の巣、生活圏」というような言葉に由来し、いずれにせよ「人間の集団での人のありかた」というのが「倫理学」のテーマなのだ、と理解しておいてください。

人間は社会的動物である
 まず、彼の倫理学の基本的な立場を見ておきます。アリストテレスの言葉として有名なものに「人間はポリス的動物である」というものがあるのですが、これが彼の立場を表す最も端的な表現です。ここでの「ポリス」というのは、取りあえず「社会」と理解しておいてください。つまり「人間とは社会的存在である」となります。また、この「ポリス」というのは、しばしば「都市国家」などとも訳されることがありますが、「人口が数千から数万単位で、互いに顔見知り」という規模のものだということも大事な知識となります。つまり今日の「国家」とは、全然違います。要するに「一つの町」くらいの単位の社会ということです。

 他方、アリストテレスは「人間の特質を理性」に見て、その「理性が要求する人間の行為、よき行為の在り方」を考察していくわけですが、その時その行為は「社会の中での具体的行為」として現れるとされるのであって、社会から離れた、言って見れば「純粋・普遍的な人間行動の原理」といったようなものを問題にはしません。あくまでも「現に観察される社会的行為、社会の中での人と人の関わりの在り方」を問題にしているということです。

 そして、ここでは「社会」とやっておいた「ポリス」というものの内容の理解が重要で、アリストテレスにおいては、現代の多くの社会が目的としている「経済的繁栄」を目指している社会を意味しません。むしろ、ポリスの構成員が皆対等に等しい権利と義務を持ち、手を繋いで一つの集団を構成し「正しさを実現していくようなことが要請されている社会」となります。

 したがって、ここでの「エティカ・倫理学」では「社会的に生きていない人」など考慮の外となります。「社会の中で具体的に大きく活動していく」のがギリシャ人の在り方だったのであり、アリストテレスはそれを端的に表現しているといえます。

 そんな具合ですから、「社会の中で要求される人と人の関わり、行為というものが思考できる」ということが「エティカ・倫理学の聴講者の条件」になってくるとアリストテレスは断っています。そうした発想のできない人、あるいは社会生活にまだ経験の薄い子供は、この倫理学の講座の学生として認められない、ということになってきます。

何がどの程度問われるか
 ここで考えられている行為というのは「意識的なもの」「意図的な行為」とされていて「善・悪の判断」が伴ってくるものとなります。ですから、ここでは「無意識的な行為」や「本能的行為」などは考慮のうちに入ってきません。問題は一にかかって「人が意図して他者とかかわっていく、その行為の在り方」なのです。だからこそ「全ての行為は善を目指している」とか「行為には目的がある」という言い方がされてくるのであり、こうしたアリストテレスの前提的立場の理解は非常に大切です。

 さて、こうした前提を持っているのだとすると、その論は「数学的緻密さをもつことはあり得ない」ことになってきます。なぜなら「現実的行為」を離れることがないわけですから、現実の行為というものが絶対的ではありえず、おおまかなところで行われている以上、それを扱う論も「大まかなところでは、こんなところが言える」というレベルでしかないからです。

 つまり、数学なら「三角形の内角の和は二直角になる」ということが全ての三角形にあてはまるわけですが、こんな具合に全ての人間にあてはまる行為の在り方など、現実的にはあり得ないわけで、「大体、こんなところが善き行為と言えるだろうか」といった程度のことしか言えないわけです。これは彼の倫理学の目的が、ただの「純粋な善」の理論的考察ではなく、実際に「善き人になるため」だといわれている事と関係しているでしょう。

 また、こんな事情ですから、「大まかな」という基準にはずれる「例外的な人間の在り方・状況は考慮の外」になってきます。たとえば、ひどい災害や災難に襲われている人、重病人、障害を負った人など「平常の状況にない人」は全く考察の外になってきます。要するに、「健康で平穏に生活を送っている一般の社会人」のレベルで事が考えられている、ということです。

 それゆえ、行為の目的として「幸福」ということがいわれてくる際も、たとえどんな人であってもひどい災難にあっているのでは幸福とは言えない、といわれてくるのです。つまり、一般人のレベルで普通の状況をひどく下回っていると見なされる人は、その限りで一般の人の行為の目的である幸福を得ることはない、と考えられているのです。

 つまり、アリストテレスは「幸福」ということで「自己完結的なもの(自己満足と言い換えてもよい)」など全然考えていないのです。結論的に言ってみれば、「社会の中で人と人とが良く関わり、共に人格が磨かれていって知性・感性・体力において優れ、社会を暮らすに良く、誉れあるものとしていく働きができる」というところに「人としての幸福」というものをみている、といって良いでしょう。ですから、この時「幸福」という言葉だけに囚われて、どんな貧乏人にも苦難の修行者にも「幸福」はあるのだ、同様、病人だって障害者だって、などというのはアリストテレスとは全然かみ合わないことになります。

 ということは、アリストテレスにおいても(ソクラテスも同様でしたが)、財産・名誉・地位・快楽など市民生活における基本の追及価値が「悪だ」などという評価にもなりません。ただ、ソクラテスやアリストテレスにとって、「それらは、それだけのこととしては幸福を保証するものではない」ということを言うだけのことです。財産・地位など追及されても一向に差し支えはないのですが、ただそれが(結論的に言われてくる)「真実の幸福を保証してくる人間性、知性」などに抵触しない限りにおいてなのです。

 つまり、財産などそれ自体としての価値があるわけではなく、それを善なるものとするか、悪なるものとするかは人間の人柄や知性によっているというソクラテス的な見解が、ここにもあるのです。繰り返しますが、求めらるべきは「よき人柄」「知性」なのです。それがあってこそ善き人と人の関わりが可能となるのであり、よき社会の実現が可能となるのであって、ここにこそ「人としての幸福が実現してくる」と考えられているのです。

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