2020/11/04

司馬遷 ~ 後漢(3)

出典http://timeway.vivian.jp/index.html 

後漢

 新滅亡後の混乱を収拾して、新しい王朝を建てたのが劉秀。皇帝としてのおくりなは光武帝。国号は。都は洛陽。一般には後漢という。

 

劉秀は前漢皇帝家である劉氏の血筋を引いているから、漢を復興したということになるわけです。彼自身、当時は地方の豪族で、豪族反乱軍のリーダーから皇帝にまでのぼりつめた。豪族勢力の協力や支持がなければ、後漢は生まれなかった。だから、後漢の政府は豪族の連合政権といってもいい。

 

 後漢の政治は前漢と同じで、特にいうべきことはない。ただ、対外政策、西域経営に関しては有名です。後漢の初期には、班超という人がシルクロード沿いのオアシス諸都市国家を後漢に服属させて、西域都護として大活躍しました。

 

 この班超の部下に甘英(かんえい)という人がいる。甘英は班超の命令で、西の方向に使者として派遣された。行けるところまで行ってこい、というのが班超の命令。で、甘英はどんどん西に向かって旅を続け、最後に海に突き当たった。これ以上、西に進めない、というので引き返してきたんです。

 

 甘英が、どこまで旅をしたのかというのが興味深いところで、甘英によると海があった国は大秦国(だいしんこく)。これは、どの国を指すのか。

 

 甘英がたどりついた海は何か、ということが焦点になる。これには二説あって、一つはカスピ海という説。湖だけれど、知らないものがみれば海と思うでしょ。もう一つが地中海という説。シリアの海岸までたどりついて、引き返したというわけだ。で、どちらかというと、地中海説が有力のようです。

 

 だとしたら大秦国というのは何かというと、ローマ帝国ということになる。後漢の軍人がローマ帝国まで旅行したとすれば、スケールの大きな話ではないですか。

 

 これを補強する記録があって、班超、甘英の時代から少し後の166年、中国南部の日南郡というところに一隻の船が着いた。この船の乗員は、大秦国王安敦(あんとん)の使者と名のっているのです。

 

 大秦国がローマ帝国とすれば、安敦とは誰か。当時のローマ皇帝を探すと、ぴったりの人物がいましたね。マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝です。五賢帝の最期ね。アントニヌスを音写して、安敦にほぼ間違いないでしょう。

 

 ただ、ローマ側の記録には、マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝が中国方面に使者を派遣したという記録はないので、中国にやってきた者たちが一体何者だったのか、ローマ皇帝の名をかたった西方の商人ではないかとかいわれていますが、とにかく、この時期に東西の二大帝国が、ちょっとではありますが接触していたことには変わりはない。世界史っぽくなってきたですね。

 

漢代の文化

 前漢、後漢ひっくるめて、文化について触れておきます。

 

 前漢では、司馬遷(前145?~前86?)。必ず覚えなければならない歴史家です。彼の書いた名著が「史記」です。神話、伝説の時代から、彼が生きていた前漢武帝の時代までの歴史が書かれている。この歴史書の書き方も重要。紀伝体という形式で書いています。というより、司馬遷が紀伝体という書き方を開発して、これが中国では歴史書の書き方の模範になります。大きく分けて、本紀(ほんぎ)と列伝(れつでん)という二つの部分からできているので紀伝体という。

 

 本紀は年表です。何年何月にこんな出来事があった、と宮廷を中心に出来事が羅列してある。極端にいえば、みなさんの世界史の教科書みたいなもんです。読んでもあまりおもしろくない。

 

 列伝は、それぞれの時代に生きた個性的な人物の伝記を集めたものです。歴史の中で翻弄される人間たちの運命を物語的に書いてある。この列伝が面白いんです。授業で話した色々なエピソードの種本は、みんなここです。あんまり面白いんで、たくさんのバージョンでマンガ化されているね。

 

 司馬遷は、前漢武帝に仕えた人です。史官といって、宮廷の出来事を記録するのが彼の家の仕事でした。司馬遷の親父さんも、史官として漢の宮廷に仕えていた。で、親父さんは史官としての仕事以外に自分のプライベートな仕事として、歴史書を書こうとしていたんです。それが「史記」です。ところが、これを完成させる前に親父さんが死んで、息子司馬遷がその仕事も引き継いだ。だから、司馬遷は宮廷勤めのかたわら情熱を傾けて「史記」を書いていました。いわば、ライフワークです。

 

 そんな時、ある事件がおこる。武帝は積極的に西域経営をして、匈奴と戦争していたね。李陵(りりょう)という将軍がいた。この将軍も、五千の兵を率いて匈奴との戦争に出かけるんですが、敵に包囲されて降伏した。

 

 このニュースが長安の宮廷に届くと、武帝は烈火のごとく怒った。李陵将軍の一族はみんな都に住んでいるんですが、武帝はその家族を皆殺しにしろと命じたんです。その時、史官司馬遷は、その場に居合わせた。司馬遷は李陵将軍の人となりを知っていたので、彼を弁護したんです。李陵将軍は立派な人物だから、降伏したのにはよほどのわけがあったに違いありません、事情がはっきりするまで、彼の家族を処刑するのはお待ちください、というのだ。

 

 武帝は、これを聞いてさらに怒ってしまった。

 

「お前は史官の分際で、皇帝の判断に口出しするか!

司馬遷よ、お前も死刑だー!

 

 ということで、司馬遷も死刑になることになった。ところが、彼には親父さんから引き継いだ「史記」を書き上げるという重要な仕事があるわけです。死ぬわけにはいかない。

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