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当時、死刑と同等に重い刑で宮刑という刑があった。これは性器を切り取られる刑。宦官にされてしまうわけだ。司馬遷は、どちらかを選択することができた。
死なずにすむのなら宮刑でいいじゃないか、と今の時代なら簡単に思うかもしれないけれど、時代が違うからね。なぜ宮刑が死刑と同じくらい重いかというと、男性性器を切り取られるということは男でも女でもなくなる、要するに人間ではなくなって、人間界からおさらばすることを意味したからです。
当時の感覚では、人間以下のものになってまで生き続けることは、死ぬよりも辛いことだったのですよ。しかし、司馬遷は「史記」を完成させるために宮刑を選びました。
宮刑を選んでも、実は生きていられるとは限りません。当時は医学も進歩していないしね。スポンと性器を切り取るでしょ。その後、ばい菌が入って死ぬかもしれないし、出血多量で死ぬかもしれない。手術後の生存率は、かなり低かったようです。手術後は、室温を高くしたサウナ室のような部屋に、一週間閉じこめられる。一週間後、生きながらえてこの部屋から出てきたら、助かったということになる。中には、傷が治る過程で尿道が塞がってしまって、おしっこが出なくなって死ぬこともあったらしい。
司馬遷は、死なずに済みました。しかし、惨めな身体で生き続ける屈辱に耐えなければならなかった。すべては「史記」を完成させるためでした。自分がこんな目にあったことを考えると、司馬遷は人間の生き方というものを考えざるを得ないんです。李陵将軍を弁護したことは正しかった、と司馬遷は考えた。しかし、武帝から屈辱的な刑を受けた。運命とはいったいなんだろうか、というわけです。
そういうことを考えながら、彼は歴史上の人物について伝記を書いた。自分の主義に忠実だったために野垂れ死にしたものや、散々人殺しをしながら、天寿を全うした大泥棒が列伝には出てきます。
武帝に刑を受けながらも、その臣下として生きている自分。その自分が書く漢の歴史、武帝の時代。色々な想いがぎゅっと凝縮されて「史記」の行間に迸っている。というわけで名著なのです。
また、司馬遷は「史記」を書くにあたって宮廷の記録を利用するだけでなく、各地を旅行して取材しているようです。単なる書斎の人ではないのです。
余談になりますが、先年亡くなった歴史作家の司馬遼太郎さん、彼の名前は「司馬遷に遼(はるか)に及ばない」という意味でつけたそうですよ。
後漢の時代には、班固が「漢書」を書いています。形式は紀伝体で、司馬遷の方法を踏襲しています。「史記」が前漢の武帝の時代で終わっているので、班固は前漢の時代をその滅亡まで書きました。これ以後、後の王朝がその前の王朝の歴史を書くことが一般的になっていきます。班固は、西域都護だった班超のお兄さんです。
漢の初め頃には人気のなかった儒学ですが、やがて経典が整備されます。『詩経』、『書経』、『易経』、『春秋』、『礼記』(らいき)の五つです。全部まとめて五経という。
これらは、春秋時代から戦国時代にできた書物ですから、漢の時代の人びとにも意味がわかりづらかった。そこで、これらの経典の解釈学が発達しました。これを訓詁学(くんこがく)という。その代表的な学者が、後漢の鄭玄(じょうげん)(127~200)です。儒学をそれなりにマスターしていることが名士としての条件になってきますから、豪族の子弟たちも、これで一所懸命勉強したわけだ。
文化で忘れてはいけないのは、紙の発明です。後漢の蔡倫(さいりん)という宦官が発明したといわれています。実際は、蔡倫以前にも紙はあったようで、蔡倫はこれを実用的に改良した人。
紙の発明が、文化の発展普及にどれだけ役に立ったか想像できますか。
中国で紙が発明される前は、竹や木を細長く短冊状に削ったものに字を書いていました。これを竹簡、木簡といいます。けっこう長くて、一本50センチくらいです。これ一本には長い文章を書けないので、何本かの短冊を「すのこ」のように糸で綴って、これに文を書く。「冊」という字は、この形はここからきている。仕舞う時には、ぐるぐる巻いておくのです。これを「巻」という。今でも、何冊か続きの本を一巻、二巻、というでしょ。ここからきているわけ。
こんなんだから、ちょっとした本でもすごく大きく重たく場所をとる。豪族や官僚でなければ、なかなか個人で書物を持つことは難しい。勉強したい人は、読みたい書物を持っている人のところに重たい木簡抱えていって、座敷にダーッと広げて写すわけです。コピーなんてないしね。筆記用具は墨と筆でしょ。書き間違えたら、短刀で木簡を削って書き直す。
これが軽くて薄い紙に替わって、書物を読んだり所有することが随分手軽になったのです。
蔡倫さんに感謝。
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