能登比咩説
能登比咩神社の主祭神、能登比咩(のとひめ)を卑弥呼とする説。能登比咩は社伝によると大己貴命、少彦名命と同時期の神である。能坂利雄がその著『北陸古代王朝の謎』で唱えた説。
宇那比姫説
『海部氏勘注系図』、『先代旧事本紀』尾張氏系譜に記される、彦火明六世孫、宇那比姫命(うなびひめ)を卑弥呼とする説。この人物は別名を大倭姫(おおやまとひめ)、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大海孁姫命(おおあまひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)ともある。
この日女命を卑弥呼と音訳したとする。またこの説では、卑弥呼の後に王位に就いたとされる台与(とよ)を、系図の中で、宇那比姫命の二世代後に記される、天豊姫(あまとよひめ)とする。両系図の伝承を重んずる限り、宇那比姫はほぼ孝安天皇と同世代の人であり、孝安天皇は天足彦国押人命の実弟で、宇那比媛と孝安天皇は義理の姉弟という関係である。このことから魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼の男弟」を孝安天皇のことだと解釈することもできる。
問題点
この説は名前や系譜の類似から出た憶測に過ぎず、日女命という名前も「太陽の女子」、「霊力のある女子」といった古代人の女性を表すもので、この人物だけを指す固有名詞ではない。また『海部氏勘注系図』自体に対する疑問もある。
また和邇系図では、和邇氏の祖天足彦国押人命の子である押媛命と和爾日子押人命の母をこの宇那比媛命としており、宇那比媛命には配偶者がいたことになる。
倭迹迹日百襲媛命説
孝霊天皇の皇女倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)は、『日本書紀』の倭迹迹日百襲姫命または倭迹迹姫命、『古事記』の夜麻登登母母曾毘賣命。
『日本書紀』により、倭迹迹日百襲媛命の墓として築造したと伝えられる箸墓古墳は、邪馬台国の都の有力候補地である纏向遺跡の中にある。同時代の他の古墳に比較して規模が隔絶しており、また日本各地に類似した古墳が存在し、出土遺物として埴輪の祖形と考えられる吉備系の土器が見出せるなど、以後の古墳の標準になったと考えられる重要な古墳である。当古墳の築造により、古墳時代が開始されたとする向きが多い。
この箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160メートルであり、「魏志倭人伝」の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」と言う記述に一致している。
『日本書紀』には、倭迹迹日百襲媛命についての三輪山の神との神婚伝説や、前記の箸墓が「日也人作、夜也神作(日中は人がつくり、夜は神がつくった)」という説話が記述されており、神秘的な存在として意識されている。
また日本書紀では、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇に神意を伝える巫女の役割を果たしたとしており、これも「魏志倭人伝」中の「倭の女王に男弟有り、佐(助)けて国を治む」(有男弟佐治國)という、卑弥呼=倭迹迹日百襲媛命と男弟=崇神天皇との関係に類似する。もっとも、倭迹迹日百襲媛命は崇神天皇の親戚にあたるが、姉ではない。そこで、『魏志倭人伝』は崇神天皇と百襲媛命との関係を間違って記述したのだという説(西川寿勝などが提唱)が存在する。
さらに魏志倭人伝の「卑彌呼以て死す。(中略)徇葬する者、奴婢百余人。」と、日本書紀の「百襲」という表記の間になんらかの関連性を指摘する向きもある。
従来、上記の箸墓古墳の築造年代は古墳分類からは3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼の時代とは合わないとされてきた。しかし最近、年輪年代学や放射性炭素年代測定による科学的年代推定を反映して、古墳時代の開始年代が従来より早められた。箸墓古墳の築造年代についても、研究者により多少の前後はあるものの、卑弥呼の没年(248年頃)に近い3世紀の中頃から後半と見る説が最近では一般的になっている。
日本書紀によれば、倭迹迹日百襲媛命が亡くなった後、崇神天皇は群臣に
「今は反いていた者たちは、ことごとく服した。畿内には何もない。ただ畿外の暴れ者たちだけが、騒ぎを止めない。四道の将軍たちは、今すぐ出発せよ」
という詔を発し、四道将軍に各地方の敵を平定させており、国中に争いが起きたことは卑弥呼の死後に起こったという戦乱を思わせる。記紀は律令国家時代の編纂なので、初期の天皇も中華式の王朝として描き、天皇より上の権威を認めなかったが、上述のように箸墓古墳を倭迹迹日百襲媛命の墓だと仮定したら、崇神天皇陵より巨大であって、当時は天皇よりも権威をもっていた可能性が高い。
現在では畿内説論者でも、卑弥呼を具体的に記紀の登場人物にあてはめようとする説は多くないが、記紀の登場人物にあてはめる場合には、倭迹迹日百襲媛命とされることがもっとも多い。
文献的に、この説の有利な点は、『古事記』の崩年干支から崇神天皇崩御の戊寅年については258年とみる説が少なくなく、この場合、卑弥呼は記紀でいう崇神天皇と同時代となるということが挙げられる。
問題点
卑弥呼の塚の径百余歩とは魏時代の尺度(短里)では30メートル程度であるとされ、もしこれが正しければ箸墓古墳のサイズにあわない。また長里で計算しても記述と一致せず、これだけ巨大な前方部を無視し、後円部だけの大きさを無視したことは不審である。
箸墓古墳の年代論には疑問も多く、推定年代を100~150年以上繰り上げしている可能性も指摘されている。また宝賀寿男は、史書と規模や形状が一致しないこと、当時魏の属国であった倭国が、果たして魏皇帝の陵墓よりも巨大な陵墓を造営できたかという疑問、殉葬の跡が見られないこと、周辺から出土した遺物が推定年代よりも後世のものであること、卑弥呼死亡後の内乱時において巨大な墳丘を伴う陵墓を造営する余裕は考えられないことなどから、箸墓を卑弥呼の墓とするには疑問があるとし、規模や形状のほか、墳丘裾部にある集団墓群を殉葬墓ではないかとして、福岡県久留米市の祇園山古墳に比定する説を唱えている。
倭迹迹日百襲媛命が皇族の一人ではあっても「女王」と呼べるほどの地位と権威を有していたとは考えにくい。安本美典の批判するところによれば、「「魏志倭人伝」には、卑弥呼が亡くなって国中に争いが起きたと記述があるが、「日本書紀」等我が国の文献では、百襲媛命は天皇の親戚の巫女に過ぎず、亡くなって国中に争いが起きるほどの重要人物だとはとうてい考えられず、両者を同一人物とするには矛盾がある」となる。
崇神天皇の陵墓が、行燈山古墳または西殿塚古墳の可能性が高く、両古墳とも考古学的に4世紀前後であることから、崇神天皇は古事記の崩年干支戊寅から318年没で4世紀初頭の人物である可能性が高くなり、その場合には崇神治世まで生きた倭迹迹日百襲媛命が卑弥呼である可能性はなくなる。
熊襲梟帥の先代説
後述の熊襲の女酋説のバリエーション。古田史学の会員の日野智貴は熊襲梟帥(くまそたける)を卑弥呼と壱与の間の「男王」であると主張している。熊襲梟帥が景行天皇の時代だとすると「男王」は在位期間が短かったので、卑弥呼は早くても垂仁天皇、遅くても景行天皇の頃となる。
倭姫命説
戦前の代表的な東洋史学者である内藤湖南は、垂仁天皇の皇女倭姫命(やまとひめのみこと)を卑弥呼に比定した。この説の支持者には橘良平、坂田隆などがいるが、倭迹迹日百襲媛命説と比べると支持者は極めて少ない。垂仁天皇の皇女なので、世代的には景行天皇の時代の人物ということになる。
出典 Wikipedia
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