田油津媛の先々代説
『日本国号考』の中で、新井白石が邪馬台女王国を筑後国山門郡に比定したのを承けて、星野悟は、邪馬台連合国の女王卑弥呼は山門(ヤマト)を本拠とする土蜘蛛(土着の豪族)女王田油津媛の先々代女王にあたるとした。
『日本書紀』によると、田油津媛は仲哀天皇・神功皇后による西暦366年頃の九州遠征の際に成敗された。卑弥呼没後、約120年後のことである。福岡県みやま市の老松神社には、田油津媛(たぶらつひめ)を葬ったとされる蜘蛛塚とよばれる古墳が残されている。
『日本書紀』では、田油津媛を土蜘蛛だというのみで熊襲とはしておらず、後述の熊襲の女酋説とは区別される。中国史料では、卑弥呼の死去年は西暦247年頃である。これはヤマト王権では、崇神天皇の先代の時期に相当する。
甕依姫説(筑紫国造説)
九州王朝説を唱えた古田武彦は、『筑後風土記逸文』に記されている筑紫君(筑紫国造)の祖「甕依姫」(みかよりひめ)が「卑弥呼(ひみか)」のことである可能性が高いと主張している。また「壹與(ゐよ)」(「臺與」)は、中国風の名「(倭)與」を名乗った最初の倭王であると主張している。
久米邦武も、また甕依姫に触れてはいないが『住吉社は委奴の祖神』の中で卑弥呼を筑紫国造とした。『先代旧事本紀』国造本紀によれば筑紫国造は成務天皇の時、孝元天皇皇子大彦命の5世孫、田道命が任命されたという。甕依姫は筑紫君の祖とあるものの、逸文の文面上ではすでに筑紫君氏は存在していることになっているので田道命からあまり遡った祖先とは考えられず、甕依姫はどんなに古くても田道命の妻か娘(もしくはせいぜい母親ぐらい)と思われる。
仮に甕依姫を田道命の娘と同世代だとすると、仲哀天皇や神功皇后の時代に相当する。(田道命の妻と同世代だとすると、成務天皇と同時代)
神功皇后説
『日本書紀』の「神功皇后紀」においては、「魏志倭人伝」の中の卑弥呼に関する記事を引用しており、卑弥呼と神功皇后が同時代の人物と記述している。これを否定する説が井上光貞ほか、一部から指摘されている。日本書紀の神功皇后の百済関係の枕流王の記述の部分が、卑弥呼よりも120年(干支2回り)後の時代のものであるため、そのような主張がなされている。しかし百済の王は古尓王(234 - 286)、その子の責稽王(生年未詳 - 298年)などの部分はほぼ日本書紀の記述どおりであり、子孫の枕流王の部分は切り離して考えるべきだとする説もある。
また古事記の神功皇后には、干支を伴った朝鮮関係の記事はなく、子孫の枕流王の部分をもって神功皇后説を否定することはできない。現在でも、倭迹迹日百襲媛命説ほどではないが、それに次いで支持者が多い。
また九州説論者でも、神功皇后説を採る論者が何名もいる。またこの説の場合、九州各地に伝説の残る与止姫が神功皇后の妹虚空津比売と同一という伝承もあることから、まれにこの人物を台与に同定する者もいる。その亜流として、古田史学の会の代表の古賀達也は、与止姫を壱与であると主張している。
問題点
これまでの諸説では多くの場合、神功皇后の説話を古代日本の女性指導者の姿を描いたものと捉え、「鬼道」の語を手掛かりに卑弥呼を巫女として捉えて卑弥呼が政治的・軍事的指導者であった可能性を否定したり、彼女の言葉を取り次いだという男弟が実際の政務を取ったと解釈したりしてきたが、義江明子はそれを批判して、卑弥呼もまた政治的・軍事的な実権を伴った指導者であったとする。
義江の論旨は「卑弥呼は単に祭祀を司掌した巫女だっただけでなく、王としての軍事的な実権、政治的な実権をもっていた。弟が政治を担当していたわけではない」ということであって、必ずしも「卑弥呼=神功皇后説」を主張しているわけではない。
ただし「鬼道に事(つか)え」たという卑弥呼が、巫女王としての色合いが強いのに対して、神功皇后は単に神憑りしたシャーマンに留まらず、勇壮な軍事指揮者という別の側面も同等に強く持っているのは義江の主張するとおりであるが、魏志による限り卑弥呼は宮殿に籠って祭祀に専心している様子は窺えるものの、格別に神功皇后のような軍事指揮者としての強い属性があるような記述は、一切みられない。
卑弥呼は生涯独身で夫も子もないはずなのに、神功皇后には夫もいたし皇子もいた。死後には、なんの問題もなく応神天皇に引き継がれており、倭人伝がいうような新王への不満や内乱があった様子は無い。また応神天皇、続く仁徳天皇も治世が長めであり、すぐに二人目の女王が擁立されたという倭人伝の記述にも合わない。
熊襲の女酋説
本居宣長、鶴峰戊申らが唱えた説。本居宣長、鶴峰戊申の説は、卑弥呼は熊襲が朝廷を僭称したものとする「偽僣説」である。
本居宣長は、邪馬台国を畿内大和、卑弥呼を神功皇后に比定した上で、神功皇后を偽称する、もう一人の卑弥呼がいたとした。ニセの卑弥呼は九州南部にいた熊襲の女酋長であって、勝手に本物の卑弥呼(=神功皇后)の使いと偽って魏と通交したとした。
また、宣長は『日本書紀』の「神代巻」に見える火之戸幡姫児千々姫命(ヒノトバタヒメコチヂヒメノミコト)、あるいは萬幡姫児玉依姫命(ヨロツハタヒメコタマヨリヒメノミコト)等の例から、貴人の女性を姫児(ヒメコ)と呼称することがあり、神功皇后も同じように葛城高額姫児気長足姫(カヅラキタカヌカヒメコオキナガタラシヒメ)すなわち姫児(ヒメコ)と呼ばれたのではないかと憶測している。
那珂通世も、卑弥呼は鹿児島県姫木にいた熊襲の女酋であり、朝廷や神功皇后とは無関係とする。神功皇后の実在を前提とした上で、その名を騙ったのだから、卑弥呼に該当する熊襲の女酋は当然、神功皇后の同時代人として想定されている。
女酋・豪族説
橋本増吉や津田左右吉は一女酋だとし、森浩一、岩下徳蔵は豪族だとし、山村正夫は女酋巫女、村山健治は教祖族長だとする。これらの諸説は、とくに熊襲だとは限定していない。
問題点
宣長は、日本は古来から独立を保った国という考えに立っており、「魏志倭人伝」の卑弥呼が魏へ朝貢し倭王に封じられたという記述は、到底受け入れられるものではなかった。
当時の中国は高度文明を持ち大国同士で真剣に戦っており、卑弥呼の朝貢も呉に対する高度な外交戦の一環であり、また治めがたい韓族への抑止力も期待されていた。そのような情況にある魏は、朝貢国に対し当然に綿密な情報収集と調査を怠らなかったはずであり、弱小な辺陬の酋長が騙しきる等は不可能と思われる。
応神天皇と物部氏の一族説
安藤輝国は、その著『邪馬台国と豊王国』の中で卑弥呼は応神天皇の一族であると唱えた。また、鳥越憲三郎は、その著『古事記は偽書か』の中で物部氏の一族であると唱えた。この両説の、両方の条件に該当する者を系譜から探すと
八田若郎女(やたのわかいらつめ)
女鳥王(めとりのみこ)
宇遲之若郎女(うぢのわかいらつめ)
の3人の候補が見つかる。
この3人は、応神天皇の皇女である。また3人の生母は記紀では和邇氏の娘ということになっているが『先代旧事本紀』によると物部氏の娘となっている。
出典 Wikipedia
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