https://dic.pixiv.net/
中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。
西晋の滅亡間際から東晋の滅亡後しばらくの間、中国の北方には漢民族とは異なる北方の異民族、具体的には
・匈奴(中央ユーラシアに存在した遊牧民族)
・鮮卑(中国北部に存在した遊牧騎馬民族、北魏なども立てた)
・羯(中国北東部に存在した少数民族)
・氐(中国の青海湖周辺に存在したチベット系と推測される遊牧民族)
・羌(中国北西部に存在する少数民族。馬超などは、この地を引くとされる)
により数多くの国が成立した。
五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであるため、実際の国の数とは一致しない。
また、「胡」という言葉は中国語において差別的な意味合いがあるため、別の名称(東晋十六国など)で呼ばれることもある。
大まかな流れ
後漢末期から、北方遊牧民族の華北への移住が進んでいた。
しかし西晋の八王の乱(諸侯王による内乱、10の事件をまとめて、このように呼ぶ)において、諸侯がその軍事力を利用したために力をつけ、一部の異民族や臣下が王や皇帝を名乗りだした(国名:成漢 前趙 前涼)。
そして永嘉の乱(前趙が西晋に攻め込み首都を落とし、滅亡させる事件)において蓄えた力を放出、西晋を滅亡に追い込む(この時、王族が逃げ出し華南に国を建てたのが東晋である)。
しかし、これらの諸国も内乱や他国との戦争などにより勢力を落としたのち滅亡を繰り返し、鮮卑による北魏が華北を統一するまで、複数の国が成立することになった。
諸国
これらの国は建国に主となった民族であり、単一とは限らないことに注意。
太字は五胡十六国。
・匈奴…前趙・夏・北涼
・鮮卑…前燕・後燕・南燕・西燕・南涼・西秦・北魏(代)
・羯…後趙
・氐…前秦・後涼・成漢・仇池
・羌…後秦
・漢民族…前涼・西涼・冉魏・北燕
周辺国
・東晋・・・華南に逃れた西晋時代の残存勢力。当然だが漢民族の国家。後に劉裕にクーデターされ南朝宋となる。
・吐谷渾・・・涼州の南方に位置する。鮮卑慕容部から分かれた一族。
・高句麗・・・満州から朝鮮半島北方辺りを支配下に置いた国。後燕と争うが後燕が北燕に代わってからは良好。
・柔然・・・モンゴル平原に位置する。北魏の目の上のたんこぶ。
十六国年代別の略説
※太字は五胡十六国の一国
1.西晋の滅亡~前趙後趙期
前趙(漢)≪漢304~318 前趙318~329≫
西晋配下だった匈奴攣鞮部の劉淵が漢を建国。劉淵の子、劉聡の代で永嘉の乱を引き起こし、西晋を滅亡させた。
その後堕落した劉聡の悪政ののち、外戚の反乱を劉曜と石勒が平定。
劉淵の族子だった劉曜は皇帝に即位し、国号の漢を趙と改める。一方、石勒も趙を建て独立。
漢は劉曜の前趙と、石勒の後趙の二つに分裂する。
後趙≪319~351≫
匈奴の派流・羯族の石勒が建国。前趙との激戦の末、従子の石虎の活躍で劉曜とその子劉煕を殺害し前趙に勝利し、華北一帯を支配下に置いた。
第3代皇帝となった石虎は、前燕や東晋と争ったが暴君であり漢民族を圧制、さらに石虎死後に後継者争いが起こり、後趙は特に漢民族から信望を失った。
漢族の冉閔が叛乱を起こし、後趙は滅亡し冉魏が建つ。
更にこの混乱の中、後趙配下だった氐族が自立し前秦を建てる。
冉魏≪350~352≫
漢民族であり、石虎の養子であった冉閔が建国。後趙の皇太子を殺害し、石氏皇族を初め、異民族を虐殺し漢人至上主義国冉魏を建てる。
だが、華北は当然異民族だらけなので、冉魏は圧倒的に不利となる。
さらに東晋の北伐で刺史(地方の長官)たちが東晋に帰順、さらに羌族(後秦の前身)の姚襄に大敗する。
東晋に援軍を要請するために伝国璽を東晋に渡したが、結局前燕によって滅ぼされる。
前燕≪337~370≫
西晋配下だった鮮卑慕容部の慕容皝が、西晋の滅亡の中で建国した。
子の慕容儁は混乱状態の後趙と争い、後趙が冉魏に滅ぼされると冉魏を滅ぼした。
後趙崩壊後、華北の東を前燕、西を前秦が領有し二国が対立した。
前涼≪301~376≫
西晋に仕えていた漢民族の張軌が、八王の乱や永嘉の乱の流民を取り込んで建てた国。
西晋に臣従していたため永嘉の乱では前趙に対抗していたが、のちに前趙にも臣従。前趙が滅んだあとは、後趙と成漢にも臣従した。
成漢≪304~347≫
氐族の派流・巴賨族の李雄が流民集団を率いて、西晋から成都を奪って建てた国。
第4代皇帝の李寿は暴君で国を衰退させ、のちに東晋の桓温によって成漢は滅ぼされる。
五胡十六国の中で唯一華北や涼州ではなく、巴蜀に建てられた国。
成漢滅亡以降、巴蜀は東晋の領土となる。
前仇池≪296~371≫
弱体化した西晋を尻目に、氐族の楊茂搜が建国。内乱と権力争いで度々、後趙や東晋に臣従した。
代(北魏の前身)≪315~376≫
鮮卑拓跋部の拓跋猗盧が建国。拓跋猗盧は永嘉の乱の中、西晋の武将劉琨と協力して漢(前趙)の劉聡、劉曜、石勒たちに対抗した。
西晋最後の皇帝・愍帝司馬鄴は、猗盧を代王に立てる。
猗盧の甥にあたる第4代代王の拓跋鬱律は、前趙の劉曜や後趙の石勒から和睦を申請されたが、愍帝を殺した事を挙げて受け入れなかった。
鬱律の子拓跋什翼犍が代王の頃、代に反抗した匈奴鉄弗部(夏の前身)劉衛辰の要請で前秦が侵攻。代は滅び、領土は匈奴鉄弗部と匈奴独孤部に分割統治された。
2.前秦の華北統一~前秦の崩壊期
前秦≪351~394 統一期376~384≫
前趙・後趙配下だった氐族の苻健が建国。苻健の父苻洪は、後趙における冉閔たち漢民族の反乱に際して独立した。
北伐してきた東晋の桓温を破り、後趙滅亡後の華北を前燕と二分する勢力となる。
華北統一
第3代皇帝の苻堅は名君であり、漢民族の王猛を使い内政を安定させた。その後に前燕、前仇池、前涼、代を倒し、華北を統一する。
符堅は漢民族も異民族も自軍に取り込む寛容な人物だったが、王猛は信任し過ぎる事を諌めていた。
王猛の心配通り、のちに異民族達は反旗を翻す事となる。
淝水の戦い
華北を統一した苻堅は、華南の東晋を攻めて中華統一を目指した。
亡き王猛は東晋侵攻に反対していたが結局、苻堅は東晋侵攻を断行する。
数的には圧倒的に前秦は有利だったものの、異民族の寄せ集めだった前秦は東晋に大敗する。
前秦の最期
東晋の敗北により、かつての前燕の皇族が苻堅に反抗。
鮮卑慕容部は西燕後燕を、羌族は後秦を建て次々に独立した。
苻堅は敗北を続け、西燕から逃れたところを元部下の姚萇に捕縛される。
385年、姚萇に禅譲を迫られたが苻堅は拒否したため、姚萇は苻堅を殺害する。
苻堅の死により、統一国としての前秦は終焉。以降、残存勢力として他の国家群に対抗する。
苻堅の後継苻丕は、西燕に敗死。苻丕の後継苻登は、後秦に敗死。苻登の後継苻崇は、西秦に敗死。
苻崇の死去により、前秦は完全に滅んだ。