中観派(梵: माध्यमिक, Mādhyamika, マーディヤミカ)は、インド大乗仏教において、瑜伽行派(唯識派)と並ぶ2大学派のひとつ。龍樹(りゅうじゅ、Nāgārjuna, ナーガールジュナ、150年 - 250年頃)を祖師とし、その著作『中論』などを基本典籍とする学派。『中論』を根底として般若空観を宣揚した。縁起と空の思想を説き、中(madhyama)もしくは中道(madhyamā pratipat)の立場を重んじる。
中観の原義と用例
漢語の「中観」に対応するとされるマディヤマカ (Madhyamaka) は「中の」を意味するマディヤ (madhya) に接尾辞が加わったものである。バーヴィヴェーカの『中観心論』に対する自註とされる『論理の炎 (Tarkajvālā)』は、マディヤと接尾辞の -ma が付いたマディヤマは、同じく「二つの極端を離れた中」すなわち中道 (madhyamā pratipat) を意味し、それに -ka が付加されたマディヤマカには名詞としての中道、あるいは中道を説示する論書や人に対する形容詞としての用法があると解説している。これを踏まえて斎藤明は、マディヤマカの適切な訳語は「中道」であると結論づけている。
「中観」のサンスクリット Madhyamaka は madhya の派生語である。梵英訳では madhya は形容詞として「central(中央の), middle(真ん中の)」、男性名詞として「center(中央)」の意味がある。
漢語としての中観
岩波仏教辞典では中観とは、有無、断常(断見と常見)といった極端な考え方(二辺)を離れて、物事を自由に見る視点を意味するとしている。広説仏教語大辞典では、中観と同じ意味の語に中道観があるとし、総合仏教大辞典では中道観は中道を観じることを指すとしている。
赤羽律によれば、「中観」という漢語の呼称は、三論宗の吉蔵が、羅什訳『中論』を「中観論」と呼び同書に対する注釈書『中観論疏』を著したのが始まりである。また義浄は『南海寄帰内法伝』においてMādhyamika学派を「中観」と呼んでいる。
中観派の原義と用例
「中観派」と現代語訳される mādhyamika (男性名詞)には「中央インドの一民族」という意味・用法もある。なお、madhyamikā (女性名詞)は、梵英訳では“absolute middle of
st.”、「婚期に達した女性」などとなっている。
現代の仏教学者が Mādhyamika を「中観派」と訳しているのであって、「中観派」は漢訳仏典には出ない名称である。「中観派」という語は、中国撰述の経論も含めて大正新脩大蔵経には全く見られない。「中観派」という現代の呼称は、中観という語を用いる中国仏教の伝統に由来するもので、サンスクリットの Mādhyamika (「中を理解する者」、「中道論者」、中派)の意訳であり、本来のインドでの呼称には「観」に相当する部分はない。
中国では、龍樹の『中論』を『中観論』と称することもあった。その『中論頌』では「中道」という語がただ一度だけ出現する(第24章第18偈)が、天台教学はこの偈頌を解釈して空・仮・中の三諦を説き、この立場から智顗は空観と仮観、そして中観という三つの視点を立てた(三観説)。
中観派の教理
新しい「縁起」と「中観」
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中観派の教理は、般若経の影響を受けたものであり、その根幹は、「縁起」「無自性(空)」である。
この世のすべての事象・概念は、「陰と陽」「冷と温」「遅と速」「短と長」「軽と重」「止と動」「無と有」「従と主」「因と果」「客体と主体」「機能・性質と実体・本体」のごとく、互いに対・差異となる事象・概念に依存し、相互に限定し合う格好で相対的・差異的に成り立っており、どちらか一方が欠けると、もう一方も成り立たなくなる。このように、あらゆる事象・概念は、それ自体として自立的・実体的・固定的に存在・成立しているわけではなく、全ては「無自性」(無我・空)であり、「仮名(けみょう)」「仮説・仮設(けせつ)」に過ぎない。こうした事象的・概念的な「相互依存性(相依性)・相互限定性・相対性」に焦点を当てた発想が、ナーガールジュナに始まる中観派が専ら主張するところの「縁起」である。
こうした理解によって初めて、『中論』の冒頭で掲げられる「八不」(不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去)の意味も、難解とされる『中論』の内容も
(そしてまた、それを継承しつつ成立した『善勇猛般若経』のような後期般若経典や、大乗仏教全体に広まった「無分別」の概念なども)、適切に理解できるようになる。
上記したように、二項対立する現象・概念は、相互に依存・限定し合うことで、支え合うことで、相対的に成立しているだけの、「幻影」のごときものに過ぎず、自立的なものではないので、そのどちらか一方を信じ込み、それに執着・傾斜してしまうと、必ず誤謬に陥ってしまうことになる。
そのことを示しつつ、上記の「八不」のごとき、(常見・断見のような)両極の偏った見解(二辺)のいずれか一方に陥らず、「中」(中道)の立場を獲得・護持することを賞揚するのが、『中論』及び中観派の本義である。
この「無自性(空)」の教えは、これ以後大乗仏教の中心的課題となり、禅宗やチベット仏教などにも大きな影響を与えた。
成立経緯
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こうしたナーガールジュナの『中論』に提示される、新しい「縁起」観は、説一切有部を中心とした部派に対する論駁を発端とする[要出典]。
中村元は、中論は論争の書であるとし、その主要論敵は説一切有部であるとしている。中観派は、自己の反対派を自性論者や有自性論者と総称しているが、これらは事物や概念の自性すなわち自体や本質が実在すると主張する人々であり、中論はこれに対して無自性を主張した。中村によれば、説一切有部は有自性論者の代表であるという。
部派仏教の時代、釈迦の説いた縁起説が発展・変質し、その解説のための論書(アビダルマ)が様々に著されていくことになるが、当時の最大勢力であった説一切有部などでは、生成変化する事象の背後に、それを成立せしめるための諸要素として、変化・変質しない独自・固有の相を持った、イデアのごとき形而上的・独立的・自立的な基体・実体・性質・機能としての「法」(ダルマ, dharma)が様々に想定され、説明されていくようになった(五位七十五法、三世実有・法体恒有)。こうした動きに対して、それが「常見」的執着・堕落に陥る危険性を危惧し、(『成実論』等にその思想が表されている経量部などと共に)
批判を加えたのが、ナーガールジュナである。
『中論』は論駁の書であり、説一切有部らが説く、様々な形而上的基体・実体・性質・機能である「法」(ダルマ, dharma)の自立性・独立性、すなわち「有自性」「法有」に対して、そうしたものを想定すると、矛盾に陥ることを帰謬的論法(プラサンガ)で以て1つ1つ示していき、「法」(ダルマ,
dharma)なるものも自立的・独立的には成立しえず、相互依存的にしか成立し得ないこと、すなわち「無自性」「法空」を説く。
こうして、形而上的基体・実体・性質・機能としての「法」(ダルマ, dharma)すらも含む、ありとあらゆるものの徹底した相互依存性・相対性をとなえる、新たな独特の「縁起」観、そして、それに則る「中観」という発想が、成立することになる。[要出典]
出典 Wikipedia
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