北斉
東魏では高歓が全権を掌握した後に、西魏に対して何度か攻撃を仕掛けるが、芳しい結果は得られなかった。高歓は547年に死去し、その後を息子の高澄が継ぐ。この時期に河南の長官であった侯景は、自らの軍事力が高澄に警戒されていることを知り、東魏から離脱して南の梁に帰順した。これを接収するために梁の武帝は大軍を送るが、東魏軍に大敗して河南は東魏に戻る。この後、侯景による挙兵が起きて梁は大混乱に陥ることになる(侯景の乱)。
高澄の死後、550年に高澄の弟である高洋(文宣帝)が継ぎ、東魏の孝静帝より禅譲を受けて斉を建てた。南朝の斉と区別して北斉と呼ばれる。
高洋の治世初期は諸改革を進め、北の突厥や契丹を撃破するなど治績を挙げたが、後半期は旧魏の皇族である元氏を大量に殺害するなど暴虐を尽くすようになる。
その後、高洋の皇太子の高殷を殺して弟の高演(孝昭帝)が後を継ぎ、高演の皇太子を殺して高湛(武成帝)が後を継ぐ。北斉の君主には多く酒乱の傾向が見られ、政治は乱れていた。ただ、歴代君主は酒乱と同時に軍事的才能を持っており、北周に対して軍事的には互角以上に渡り合った。
武成帝は即位早々に息子の高緯(後主)に譲位し、その後は上皇として政務を執るが、この時代には個人的な繋がりを持った寵臣たちが幅を利かすようになった。この中で後主は、周りの讒言を信じて国防に不可欠であった斛律光と蘭陵王の2人を殺してしまい、北周はこれを好機と見て北斉へと侵攻してきた。高緯は捕らえられて、後に自殺を強いられた。北斉の滅亡は577年のことである。
北周
西魏の政権を掌握した宇文泰は武川鎮の出身で、北魏末には陝西一帯を支配する大軍閥となっていた。北周・後の隋・唐の中枢部は、ほぼ全てがこの武川鎮出身者(武川鎮軍閥)で占められており、以後の中国を長い間この集団が支配することになる。
宇文泰は、新たに二十四軍制を創始した。この制度は軍の組織を上から柱国(ちゅうこく) -
大将軍 - 開府という系列にまとめ、その頂点に宇文泰が立つというものである。この制度は、後の府兵制の元となったといわれる。
また北魏の元で漢風に改められた鮮卑の氏を元のものに戻すなど、鮮卑的な復古政策を取る一方で、『周礼』を基にしたとする中国的な復古策をも推進した。後に国号を周と名乗るのも、それ故である。この兵力を元に、553年には南朝梁から四川を奪い、更に侯景の乱に介入し、荊州北部(湖北省)に傀儡国家・後梁を誕生させて、南朝に楔を打ち込むことに成功した。
556年の宇文泰の死後は甥の宇文護が実権を握り、宇文泰の第3子・宇文覚を擁立して西魏の恭帝より禅譲を受けさせ、北周を建てた。宇文護は初代の宇文覚(孝閔帝)・第2代の宇文毓(明帝)・第3代の宇文邕(武帝)を擁立して専権を極め、突厥と結んで北斉征服を試みるが失敗に終わり、最後は武帝の策にはまり誅殺される。
572年に親政を開始した武帝は、巨大な権力と財産と土地を所有していた道教・仏教を弾圧してその財産を没収し、私度僧や偽濫僧などを含め、一般の僧侶や道士を兵士として徴兵した。その一方で、官立の儒教・仏教・道教をあわせた三教の研究機関としての通道観を設置し、優秀な僧侶や道士は、その学士として収容した(三武一宗の廃仏の第2)。
これを元にして、575年から北斉に対する攻撃を開始する。北斉は暗君・高緯の元で弛緩しており、577年にこれを滅ぼして高緯を捕らえた。更に武帝は南朝陳に対しても攻撃を仕掛けるが、578年の親征途上で病死する。
後を継いだのは長男の宇文贇(宣帝)であったが、宣帝は武帝の厳しい教育を恨んで、父の棺に向かい「死ぬのが遅い」と罵ったと言う。宣帝は即位の翌年に長男の宇文闡(静帝)に譲位して上皇となるが、その施策は無軌道で無用な土木工事を好み、酒色に耽ったために人望を失い、それに代わって期待を受けたのが十二大将軍の一人である楊堅(後の隋の文帝)である。
楊堅の娘楊麗華は宣帝の皇后となっており、楊堅は外戚として政治に加わっていた。更に静帝が即位し、580年に宣帝が死去すると摂政となって全権を掌握、翌581年に禅譲を受けて隋を建て、北周は滅んだ。
出典 Wikipedia
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