2022/08/08

中観派 ~ ナーガールジュナ(龍樹)(3)

究極的真理としての「真諦」(第一義諦・勝義諦)

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しかし一方で、こうした徹底した相互依存性・相対性に則ると、当然の帰結として、(『中論』24章の冒頭でも論敵による批判として触れられているように)釈迦自身がとなえた教え(四諦・涅槃・四向四果(四沙門果)等)すらもまた、相対化してしまうことになる。

 

こうした問題は、『中論』24章冒頭にそれが取り上げられていることからも分かるように、ナーガールジュナ自身にも強く意識されていた。そこで、『中論』24章にも書かれているように、ナーガールジュナはここで、「二諦」(satya-dvaya, サティヤ・ドヴァヤ)という発想を持ち込み、「諦」(真理、satya, サティヤ)には、

 

世俗の立場での真理 --- 「俗諦」(世俗諦、savti-satya, サンヴリティ・サティヤ): 分別智(vikalpa-jñāna

究極の立場から見た真理 --- 「真諦」(第一義諦・勝義諦、paramārtha-satya, パラマールタ・サティヤ): 無分別智(nirvikalpa-jñāna

2つがあり、釈迦が悟った本当の真理の内容は、後者、すなわち自分達が述べているような、徹底した相互依存性・相対性の感得の果てにある(概念・言語表現を超えた)「中観」(「無分別」)の境地に他ならないが、世俗の言葉・表現では容易にはそれを言い表し得ず、不完全に理解されて凡夫を害してしまうことを恐れた釈迦は、あえてそれを説かずに、前者、すなわち従来の仏教で説かれてきたような、凡夫でも理解出来る、レベルを落とした平易な内容・修行法を、(方便として)説いてきた(が、釈迦の説を、矛盾の無いように、よくよく精査・吟味していけば、我々の考えこそが正しいことが分かる)のだという論を展開した。

 

中観派は、説一切有部からは都無論者(一切が無であると主張する論者)と評された。また、経部の『倶舎論』およびそれに対するサンスクリット文註釈は、「中の心を有する人」を仏教内における異端説であるときめつけている。中観派は、中観派と同じ大乗仏教に属するヨーガ行派のスティラマティからも「一つの極端説に固執する極端論」と評され、ダルマパーラからは「唯識の理に迷謬せる者」、「非有を執している」と評され、ジナプトラらの瑜伽師地論釈では「空見に著している」と評された。中観派は何となく気味の悪い破壊的な議論をなす虚無論者である、という説は既に古代インド一般にいわれていたことである。

 

天台宗の三諦偈と中道

なお、天台宗の三諦偈による中道の解釈は、ナーガールジュナの原意を得ていないとする議論もある。

 

中観派においては、中または中道という概念が重要な位置を占めているが、『中論』において中道という語は第24章の第18詩に1回出てくるのみである。

 

どんな縁起でも、それをわれわれは空と説く。それは仮に設けられたものであって、それはすなわち中道である。

ナーガールジュナ『中論』第24章第18

これをクマーラジーヴァは、「衆因縁生の法、我即ち是れ無なりと説く。亦た是れ仮名(けみょう)と為す。亦た是れ中道の義なり」と訳したが、中国ではこれが後に多少変更されて、

 

因縁所生の法、我即ち是れ空なりと説く。亦た是れ仮名と為す。亦た是れ中道の義なり

 

という文句にして一般に伝えられている。この詩句(変更後のもの)は中国の天台宗の祖とされる慧文禅師によって注意された。天台宗では、この詩句は空・仮・中の三諦を示すものとされ、三諦偈と呼ばれるようになった。中村元によれば、三諦偈の趣旨とは、

 

因縁によって生ぜられたもの(因縁所生法)は空である。これは確かに真理であるが、しかしわれわれは空という特殊な原理を考えてはならない。空というのも仮名であり、空を実体視してはならない。故に空をさらに空じたところの境地に中道が現れる。因縁によって生ぜられた事物を空ずるから非有であり、その空をも空ずるから非空であり、このようにして「非有非空の中道」が成立する。すなわち中道は二重の否定を意味する。

ということであり、中国以来、ほぼこのように伝統的に解釈されてきたという。

 

その解釈がナーガールジュナの原意を得ているかどうかについて、中村元は『中論』の原文とチャンドラキールティの註釈などを用いて検討し、結論としては、インドの緒註釈によってこの『中論』第24章第18詩の原意を探るならば、この詩句は縁起・空・仮名・中道という4つの概念が同趣意のものであるということを説いたにほかならず、天台宗や三論宗が後世の中国で説いたように「空をさらに空じた境地に中道が現れる」と考えたのではなかったことが明らかであるとしている。

 

歴史

龍樹の後、提婆(だいば、アーリヤデーヴァ、170 - 270年頃)が『百論』などを著し、ラーフラバドラは『中論』の八不の意義を釈した。青目(しょうもく、ピンガラ)は『中論』本頌を釈した。

 

学派としての中観派が明確な形で形成されたのは、6世紀の初め頃である。仏護(ぶつご、Buddhapālita470 - 540年頃)、清弁(しょうべん、Bhāviveka[26]490 - 570年頃)が中論頌に対する注釈書を著した。仏護・清弁・月称(げっしょう、650年頃)は、空性を記述し体得する方法についての議論を展開した。

 

ことに清弁は、唯識派の陳那(じんな、dignāga480 - 540年頃)の認識論・論理学を自己の学説に導入して方法論を構築したが、この態度を月称を代表とするグループによって批判された。[要出典]

 

仏護と清弁は、空の論証方法について意見が異なっていた。仏護の系統をプラーサンギカ(帰謬論証派)と呼び、月称などによって継承された。後世のシャーンティデーヴァ(寂天、650-700年頃)やアティーシャ(982-1054年)も、この派に含められることがある。プラーサンギカ派は、特にチベットにおいて重要視されている。一方、清弁の系統をスヴァータントリカ(自立論証派)といい、アヴァローキタヴラタ(観誓)やシャーンタラクシタ(寂護)が、この系統に属する。カマラシーラ(蓮華戒、740-795/797年頃)やハリバドラ(獅子賢、9世紀)を、この派に含めることもある。

 

8世紀には、7世紀の唯識学派の法称(ほっしょう、dharmakīrti)系統の論理学や認識論を用いて無自性の積極的論証を行った、ジュニャーナガルバ(700 - 760)、寂護(じゃくご、シャーンタラクシタ、725 - 784年頃)と蓮華戒(れんげかい、カマラシーラ、740 - 794年頃)、ハリバドラ(獅子賢、800年頃、生没年不詳)などに連なる法統が登場し、後期中観派と呼称されている。彼らは5世紀以来の対立関係にあった瑜伽行学派の唯識説を、空を理解するためのステップとして肯定的に評価した。そのため、彼らは瑜伽行中観派と呼ばれた。

 

11世紀頃には、唯識、中観両派に師を持ったアティーシャ(982-1054)が、唯識説と中観説を統合する「大中観」(dbu ma chen po)を称した。

 

中観派の思想は、主としてチベットに伝わって大いに広まった。当初は瑜伽唯識派と論争を繰り返したが、後に瑜伽派と合流する傾向を示し、シャーンタラクシタやその弟子のカマラシーラらは中観瑜伽派と呼ばれた。

 出典 Wikipedia

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