南朝
宋
江南では劉裕が東晋より禅譲を受けて、420年に宋を建国した。北では北魏が華北統一に追われていたこともあり、建国直後の宋は概ね平和で、第3代の劉義隆(文帝)の30年近くにわたる治世は当時の元号を取って「元嘉の治」と称揚される善政の時代と名高い。しかし、その一方で東晋時代から進行していた貴族勢力の強大化がますます進み、皇帝ですら貴族を掣肘できないという状態を生み出した。この貴族制度から漏れた寒人と呼ばれる層は、皇帝や皇族の周りに侍ることで権力を得ようと画策するようになった。
文帝は453年、皇太子劉劭によって殺される。この反乱者たちを倒して即位したのが劉駿(孝武帝)である。孝武帝は、貴族勢力の抑制を狙って税制の改革や寒人層の登用などを行う。しかし孝武帝の死後は身内内での血みどろの殺し合いとなり、権力争いが激化した。特に第6代の劉彧(明帝)は血族28人を殺害し、家臣も少しでも疑いがあれば殺すなどの暴政を行い、宋の衰退が決定的となった。
斉
この中で宋の創始者・劉裕と同じように、軍事で功績を挙げて台頭してきたのが蕭道成である。蕭道成は明帝の後を継いだ劉昱(後廃帝)を殺して順帝を擁立し、この皇帝から禅譲を受けて斉を建国した。
蕭道成の後を継いだ第2代の蕭賾(武帝)は何度か北魏に対しての攻撃をかけるが、これは痛み分けに終わる。武帝死後に後継争いで混乱が起き、最終的に蕭道成の兄の子である蕭鸞(明帝)が即位するが、この間隙を狙った北魏により山東を含んだ淮河以北を奪われてしまう。
更には明帝の後を継いだ蕭宝巻(東昏侯)は、極端な側近政治を行って、明帝時代の重臣たちを殺してまわり、政治は乱れた。これに対する反乱が何度か起き、500年に起きた蕭衍(後の梁の武帝)が挙兵し、東昏侯の弟・蕭宝融(和帝)を擁立して建康に向かって進軍し、翌年に東昏侯は部下に殺された。
梁
建康に入った蕭衍は、翌502年に和帝より禅譲を受けて梁を建国する。武帝(蕭衍)は斉の創始者・蕭道成の曾祖父の兄弟の子孫という遠い親族関係にあり、斉の宗室とは同姓ではあったが、王朝の名を引き継がず革命の形を取った。
武帝は、范雲や沈約(『宋書』の編纂者)などの新興の貴族を登用して優秀な人材を集めた。また旧来の官制を改革し、官位の上下を9品から18班に改めている。他にも租税の軽減を行い、それまで使われていた西晋時代以来の泰始律令に代わって、新しい梁律・梁令を制定した。また文化にも理解を示し、この時代は南朝の中でも文化の最盛期と言われている。特に武帝の長子蕭統(昭明太子)によって編纂された『文選』は、この時代のみならず現代まで名著して読み継がれている。このように武帝の治世は革命の名にふさわしいものであった。
しかし、治世後半になると仏教に対する傾倒が極端なものとなり、たびたび仏寺に捨身し、その度に億万銭もの巨額によって皇帝の身を「買い戻す」という行為が繰り返された。これらに代表されるような仏教政策は、財政の悪化をもたらした。
548年、東魏の武将侯景が梁に帰順したいと申し出た。朝廷では反対意見が多かったが、武帝は帰順を認め、東魏との友好関係を破棄し、北伐の出兵をおこなった。しかしこれは失敗に終わり、武帝は考え直して東魏と和睦しようとした。武帝の変心を知った侯景は反乱を起こし、翌年に建康を陥落させ、武帝を餓死に追い込んだ(侯景の乱)。
武帝の後は三男の蕭綱(簡文帝)が継ぐが、侯景は551年に皇族の蕭棟を擁立し、すぐに廃位して自ら帝位に就き、国号を漢とした。
この乱の中で、各地に散らばっていた諸王は、それぞれ自立の動きを強めていった。その中でも荊州にいた武帝の八男・蕭繹(元帝)は、部下の王僧弁を派遣して552年に侯景を滅ぼし、江陵で皇帝に即位した。さらに蜀(四川)で皇帝を称した弟の蕭紀を撃破する。しかし554年に雍州刺史の蕭詧(後梁の宣帝)によって引き込まれた西魏の大軍の前に敗死し、蕭詧は江陵に入って皇帝を称した。この蕭詧の政権は後梁と呼ばれるが、実質は西魏の傀儡政権であった。また蜀一帯は、既に西魏によって占領されていた。
元帝が死んだ後、王僧弁とこれも元帝の武将であった陳霸先(後の陳の武帝)は建康において元帝の九男である蕭方智を擁立しようとしたが、東魏に取って代わった北斉がこれに介入して北斉の捕虜となっていた蕭淵明を送り込んできた。王僧弁は、これを受け入れて蕭淵明を擁立しようとするが、陳霸先はこれに反対して蕭方智をそのまま擁立しようとした。この王僧弁と陳霸先の争いは陳霸先の勝利に終わり、蕭方智が擁立されて敬帝となった。
557年10月に梁が滅亡した後も、その残存勢力はたびたび王朝の再興をはかった。梁の有力な将軍であった王琳が蕭荘(永嘉王)を皇帝に擁立した。また江陵付近を統治した後梁は、西魏とそれに代わった北周・隋の傀儡政権ではありながら、後主蕭琮まで3代続いた。隋が建国された後も、蕭巌や蕭瓛が自立して梁主を称している。さらに隋末から唐初にかけての戦乱の時期には、蕭銑が梁の皇帝を称し、江陵を都と定めた。その勢力は長くは続かず、621年に唐によって滅ぼされた。
陳
557年に陳霸先は禅譲を受けて陳を建てる。しかし建国時点で、すでに四川の広い地域と江陵を中心とした荊州北部(湖北省)を奪われており、更に国内には反対勢力が残っていた。陳霸先は、その反対勢力を制圧することで寿命を使い果たして559年に死去。陳霸先の甥の陳蒨(文帝)が後を継ぐ。
文帝は武帝の方針を引き継いで国内の反対勢力を制圧し、陳に小康状態をもたらした。566年、文帝が死去すると、文帝の子が後を継ぐが、すぐに文帝の弟の陳頊(宣帝)がこれを殺して自ら即位する。宣帝は北周による北斉へとの共同攻撃の誘いに乗って出兵し、淮南を獲得した。
しかし北斉が北周に滅ぼされた後、北周軍に大敗して淮南を再び失う。陳はこのことで大打撃を受け、更に582年に即位した陳叔宝(後主)は政治を顧みず、北朝の隋に征服されるのは時間の問題となった。
隋
北周に代わった隋の文帝は、統一に向けて慎重な足場固めを行った。北方の突厥に対して万里の長城の修復を行い、また長江へと繋がる運河の整備を行って補給路を固めた。更に傀儡国家である後梁を潰して直轄領とした。
準備を終えた文帝は、一衣帯水の言葉の下、588年に次男の楊広(後の煬帝)を主将とする総数51万8千の軍を送り込み、翌589年に建康を陥落させ、宮中の井戸に隠れていた後主を捕らえて陳を滅ぼした。これによって、西晋が滅びてから273年、西晋の短い統一期間を除くと350年以上にも及ぶ長い分裂の時代は終わり、鮮卑系の隋によって統一された。
隋の統一も第2代煬帝の時代に一時潰えるが、長い分裂時代に育まれた有形無形の統一への気運は、中国が再び分裂することを望まず、その後に興った唐は約300年の長きにわたって存続した。
なお、北魏から唐までは北魏がまだ前身の代国であった時代を含めて約600年を数えるが、この年月の間に各王朝の成員による婚姻によって、これらの王朝間に縁戚・血縁関係が生じている。
出典 Wikipedia
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