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ところで『隋書』という隋の歴史書には、608年に倭国におもむいた使節の記録がある。この時に使節は倭国王と、その妃、王子に会ったと記録されている。変でしょ。聖徳太子は王ではありませんね。推古天皇は女性ですよ。一体誰に会ったんだ。正式な隋の外交使節を倭国政府はあざむいて聖徳太子を王と紹介したのでしょうか。また、この時に帰国した小野妹子は隋の国書を途中で紛失した、ということになっている。
このあたりの倭国の記録には、腑に落ちないことが多いです。
7世紀初頭の東アジア
東アジアの諸国を整理しておきましょう。
高句麗は、紀元前1世紀後半に鴨緑江という川の流域で成立した国です。ツングース系扶余族の国家。この国が飛躍的に領土を拡大したのが広開土王(位391~412)の時代。この王の業績を記念して立てられた石碑が「広開土王碑」。
この碑文には倭の記事も出てくるのですが、読み方に関していろいろな説があるのと、碑文そのものの改竄(かいざん)説があって問題の多い石碑です。が、有名なものなので名前だけは知っておいてください。5世紀初頭の東アジア諸民族の貴重な資料です。中華人民共和国吉林省集安に建っています。
高句麗は隋の攻撃には耐え抜いたのですが、結局、次の唐によって滅ぼされました(668年)。
このとき、唐とともに高句麗を攻撃したのが新羅(しらぎ、しんら)です。
4世紀後半に朝鮮半島の東南に成立した国です。高句麗と百済に圧迫されていた新羅は、7世紀半ばに積極的に唐の文物を取り入れて国政改革をおこない、唐との結びつきを強めます。最終的には唐と軍事同盟を結び、660年には百済、668年には高句麗を滅ぼして朝鮮半島を統一した。
ただし、唐は朝鮮半島の直接支配を目指したので、新羅は唐軍を朝鮮半島から追い払うために、676年まで戦いつづけることになります。
百済は朝鮮半島西南。4世紀前半の成立。この国は高句麗、新羅と比べて大和朝廷との関係が非常に深い。唐、新羅連合軍によって滅ぼされたあと、倭国の援助を受けて復活を目指します。663年の白村江の戦いがそれ。しかし、倭軍は負けて百済再興はできませんでした。
倭です。3世紀、魏に邪馬台国が使者を派遣したことは以前に話しましたね。そのあとは倭国が5世紀南朝宋に使節を送っています。中国の王朝に官職を授けてもらうことによって、朝鮮半島や日本列島の対立勢力の中で有利な立場を確保しようとしたようです。宋の歴史書には、五人の倭王の名が記録されているので、これを「倭の五王」といっています。
それ以後は、隋の時代まで倭の記録は出てきません。
なぜ南朝の宋にだけ記録されているかというと、宋だけは山東半島まで領土を拡大しているんです。日本列島から百済を経由して、比較的簡単にたどりつくことができたのでしょう。
隋のときに倭国は遣隋使を送ります。これはさっき言ったとおり。やがて、隋・唐の高句麗遠征、高句麗・百済・新羅の三国をめぐる国際関係の中で、新羅と同じように内政改革をおこなわざるをえなくなる。これが、645年の大化改新といわれる改革。
日本という国号を使うようになるのは7世紀後半からです。それまでは倭国と呼ぶのが正しいのです。
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