敵対者との戦争
ムハンマド率いるイスラーム共同体は、周辺のベドウィン(アラブ遊牧民)の諸部族と同盟を結んだり、ムハンマドに敵対するマッカの隊商交易を妨害したりしながら、急速に勢力を拡大した。こうして両者の間で睨み合いが続いたが、ある時、マディーナ側はマッカの大規模な隊商を発見し、これを襲撃しようとした。しかし、それは事前にマッカ側に察知され、それを阻止するために倍以上の部隊を繰り出すが、バドルの泉の近くで両者は激突、マディーナ側が勝利した。これをバドルの戦いと呼び、以後イスラム教徒はこれを記念し、この月(9月、ラマダーン月)に断食をするようになった。
翌年、バドルの戦いで多くの戦死者を出したマッカは、報復戦として大軍で再びマディーナに侵攻した。マディーナ軍は、戦闘前に離反者を出して不利な戦いを強いられ、マッカ軍の別働隊に後方に回り込まれて大敗し、ムハンマド自身も負傷した(ウフドの戦い)。これ以後、ムハンマドは組織固めを強化し、マッカと通じていたユダヤ人らを追放した。
627年、マッカ軍と諸部族からなる1万人の大軍が、ムスリム勢力の殲滅を狙って侵攻してきた。このときムハンマドは、ウフドの戦いを教訓にサハーバの一人でありペルシア人技術者のサルマーン・アル=ファーリスィーに命じて、マディーナの周囲に塹壕を掘らせた。それにより敵軍の侵攻を妨害させ、また敵軍を分断し撤退させることに成功した。アラビア語で塹壕や防御陣地の掘のことをハンダクと呼ぶため、この戦いはハンダクの戦い(塹壕の戦い)と呼ばれる。マッカ軍を撃退したイスラム軍は武装を解かず、そのままマッカと通じてマディーナのイスラーム共同体と敵対していたマディーナ東南部のユダヤ教徒、クライザ族の集落を1軍を派遣して包囲した。
628年、ムハンマドは、フダイビーヤの和議によってマッカと停戦した。この和議は、当時の勢力差を反映してマディーナ側に不利なものであったが、ムスリムの地位は安定し以後の勢力拡大にとって有利なものとなった。この和議の後、先年マディーナから追放した同じくユダヤ教徒系のナディール部族の移住先ハイバルの二つの城塞に遠征を行い、再度の討伐によってこれを降伏させた。これにより、ナディール部族などの住民はそのまま居住が許されたものの、ハイバルのナツメヤシなどの耕地に対し、収穫量の半分を税として課した(ハイバル遠征)。
これに伴い、ムスリムもこれらの土地の所有権が付与されたと伝えられ、このハイバル遠征がその後のイスラーム共同体における土地政策の嚆矢、征服地における戦後処理の一基準となったと言われている。しかし、ユダヤ教徒側と結んだ降伏条件の内容や、ウマルの時代に彼らが追放された後、ムスリムによる土地の分配過程については、様々に伝承されているものの詳細は不明な点が多い。この遠征の後、ファダク、ワーディー・アル=クラー、タイマーといった周辺のユダヤ教徒系の諸部族は、相次いでムハンマドに服従する事になった。自信を深めたムハンマドは、ビザンツ帝国やサーサーン朝など周辺諸国に親書を送り、イスラム教への改宗を勧め、積極的に外部へ出兵するなど対外的に強気の姿勢を示した。
630年にマッカとマディーナで小競り合いがあり停戦は破れたため、ムハンマドは1万の大軍を率いてマッカに侵攻した。予想以上の勢力となっていたムスリム軍に、マッカは戦わずして降伏した。ムハンマドは、敵対してきた者達に当時としては極めて寛大な姿勢で臨み、ほぼ全員が許された。しかし、数名の多神教徒は処刑された。カアバ神殿に祭られる360体の神像・聖像はムハンマド自らの手で破壊された。
晩年
ムハンマドは、マッカをイスラム教の聖地と定め、異教徒を追放した。ムハンマド自身は、その後もマディーナに住みイスラーム共同体の確立に努めた。さらに、1万2000もの大軍を派遣して、敵対的な態度を取るハワーズィン、サキーフ両部族を平定した。以後、アラビアの大半の部族からイスラム教への改宗の使者が訪れ、アラビア半島はイスラム教によって統一された。
また、東ローマ帝国への大規模な遠征もおこなわれたが失敗した。
632年、マッカへの大巡礼(ハッジ)をおこなった。このとき、ムハンマド自らの指導により五行(信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)が定められた。大巡礼を終えてまもなく、ムハンマドの体調は急速に悪化した。ムハンマドは、アラビア半島から異教徒を追放するように、また自分の死後もクルアーンに従うようにと遺言し、マディーナの自宅で没し、この地に葬られた。彼の自宅跡と墓の場所は、マディーナの預言者のモスクになっている。
家族と子孫
伝承によるとムハンマドが25歳のとき、15歳年長とされる福家の寡婦ハディージャと最初の結婚をしたと伝えられる。スンナ派などの伝承によれば、ムハンマドが最初の啓示を受けた時、その言葉を聞いて彼女が最初のムスリムになったと伝えられている。彼女の死後、イスラーム共同体が拡大するにつれ、共同体内外のムスリムや他のアラブ諸部族の有力者から妻を娶っており、そのうち、アブー・バクルの娘アーイシャが最年少(結婚当時9歳)かつ(スンナ派では)最愛の妻として知られる。
最初の妻ハディージャの死後、ムハンマドはイスラーム共同体の有力者の間の結束を強めるため多くの夫人を持ったが、アーイシャ以外はみな寡婦や離婚経験者である。これは、マディーナ時代は戦死者が続出し寡婦が多く出たため、この救済措置として寡婦との再婚が推奨されていた事が伝えられており、ムハンマドもこれを自ら率先したものとの説もある。
なお、ムハンマドと結婚し妻になった順番としては、ハディージャ、寡婦サウダ・ビント・ザムア、アーイシャ、ウマルの長女ハフサの順であったと伝えられ、他にマッカの指導者でムハンマドと敵対していたアブー・スフヤーンの娘ウンム・ハビーバ(したがってウマイヤ朝の始祖ムアーウィヤらの姉妹にあたる)がハンダクの戦いの後、629年にムスリムとなってムハンマドのもとへ嫁いでいる。
ムハンマドは生涯で7人の子供を得たと伝えられ、うち6人は賢妻として知られるハディージャとの間に生まれている。男子のカースィムとアブドゥッラーフは早逝したが、ザイナブ、ルカイヤ、ウンム・クルスーム、ファーティマの4人の娘がいた。このうち、ルカイヤ、ウンム・クルスームの両人は、ウスマーンに嫁いでいる(ムハンマドの娘二人を妻としていたため、ウスマーンはズンヌーライン
ذو النورين
Dhū al-Nūrain 『ふたつの光の持ち主』と呼ばれた)。
末娘ファーティマは、ムハンマドの従兄弟であるアリーと結婚し、ハサン、フサインの2人の孫が生まれた。最後の子供は晩年にエジプトのコプト人奴隷マーリヤとの間に儲けた3男イブラーヒームであるが、これも二歳にならずに亡くなっており、他の子女たちもファーティマ以外は全員、ムハンマド在世中に亡くなっている。
ムハンマドは上記のとおり男児に恵まれなかったため、娘婿で従兄弟のアリーがムハンマド家の後継者となった。ムハンマドは在世中、自身の家族について問われたとき、最愛の妻であるハディージャとの間の娘ファーティマとその夫アリー、二人の間の息子ハサンとフサインを挙げ、彼らこそ自分の家族であると述べている。また、ほかの妻の前で何回もハディージャを最高の女性であったと述べていた。そのためほかの妻、とりわけアーイシャはこのようなムハンマドの姿勢を苦々しく思っており、後にアーイシャがアリー家と対立する一因となる。
ムハンマドの血筋は、外孫のハサンとフサインを通じて現在まで数多くの家系に分かれて存続しており、サイイドやシャリーフの称号などで呼ばれている。サイイドはイスラム世界において非常に敬意を払われており、スーフィー(イスラーム神秘主義者)やイスラーム法学者のような、民衆の尊敬を受ける社会的地位にあるサイイドも多い。現代の例で言うと、イラン革命の指導者のホメイニ師と、前イラン大統領モハンマド・ハータミー、イラク・カーズィマインの名門ムハンマド・バキール・サドルやその遠縁にあたるムクタダー・サドル、ヨルダンのハーシム家やモロッコのアラウィー朝といった王家もサイイドの家系である。