2024/06/27

ウマイヤ朝(2)

絶頂期

第二次内乱後のアブドゥルマリクの12年の治世は、平和と繁栄に恵まれた。彼は租税を司る役所であるディーワーン・アル=ハラージュの公用語をアラビア語とし、クルアーンの章句を記したイスラーム初の貨幣を発行、地方と都市とを結ぶ駅伝制を整備するなど後世の歴史家によって「組織と調整」と呼ばれる中央集権化を進めた。

 

694年、アブドゥルマリクは、アッ=ズバイル討伐で功績を上げたハッジャージュをイラク総督に任命した。ハッジャージュは、特にシーア派に対して苛酷な統治を行い、多くの死者を出した一方で、イラクの治安を回復させた。

 

アブドゥルマリクは、カリフ位を息子のワリード1世に継がせた。征服戦争は、彼の治世に大きく進展した。ウマイヤ朝軍は北アフリカでの征服活動を続けたのち、ジブラルタルからヨーロッパに渡って西ゴート王国軍を破り、アンダルスの全域を征服した。その後、ヨーロッパ征服は、732年にトゥール・ポワティエ間の戦いで敗れるまで続いた。また、中央アジアにおいてもトルコ系騎馬民族を破って、ブハラやサマルカンドといったソグド人の都市国家、ホラズム王国などを征服した。これによって、中央アジアにイスラームが広がることとなった。中央アジアを征服する過程では、マワーリーだけでなく非ムスリムの兵も軍に加えられ、これによって軍の非アラブ化が進んだ。

 

ウマル2世の治世

この時代になると、イスラームに改宗してマワーリーとなる原住民が急増し、ミスルに移住して軍への入隊を希望する者が増えた。また、アラブのなかでも従軍を忌避して、原住民に同化するものが増えた。

 

これを受けてウマル2世は、アラブ国家からイスラーム国家への転換を図り、兵の採用や徴税などにおいて、全てのムスリムを平等とした。これによってアラブは原住民と同様に、のちにハラージュと呼ばれる土地税を払うことになった。彼は今までのカリフで、初めてズィンミーにイスラームへの改宗を奨励した。ズィンミーは喜んで改宗し、これによってウマイヤ朝はジズヤからの税収を大幅に減らした。

 

また、ウマル2世はコンスタンティノープルの攻略を目論んだが失敗し、人的資源と装備を大量に失った。彼はアラブの間に厭戦機運が蔓延していることから、征服戦争を中止した。

 

ウマル2世に続いたカリフの治世では不満が頻出し、反乱が頻発することとなった。ヤズィード2世の即位後、すぐにヤズィード・ブン・ムハッラブによる反乱が発生した。この反乱はすぐに鎮圧されたが、ウマイヤ朝の分極化は次第にテンポを速めた。

 

最後の輝き

10代カリフとなったヒシャーム・イブン・アブドゥルマリクの治世は、ウマイヤ朝が最後の輝きを見せた時代であった。彼は経済基盤を健全化し、それを実現するために専制的な支配を強めた。しかしながら、ヒシャームはマワーリー問題を解決することは出来ず、また、後述する南北アラブの対立が表面化した。

 

また、ヒシャームの治世では、中央アジアにおいてトルコ人の独立運動が活発になった。その中のひとつである蘇禄が率いた突騎施には、イラン東部のホラーサーン地方のアラブ軍も加わった。

 

第三次内乱

744年、ワリード2世の統治に不満を抱いたシリア軍が、ヤズィード3世のもとに集って反乱を起こし、ワリード2世を殺害した。ヤズィード3世は第12代カリフに擁立されたが半年で死去し、彼の兄弟であるイブラーヒームが第13代カリフとなった。その直後、ジャズィーラとアルメニアの総督だったマルワーン2世が、ワリード2世の復讐を掲げて軍を起こした。彼の軍はシリア軍を破り、イブラーヒームはダマスクスから逃亡した。これによってマルワーン2世が第14代カリフに就任した。

 

アッバース革命

680年のカルバラーの悲劇以降、シーア派は、ウマイヤ朝の支配に対しての復讐の念を抱き続けた。フサインの異母兄弟にあたるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤこそが、ムハンマド及びアリーの正当な後継者であるという考えを持つ信徒のことをカイサーン派と呼ぶ。ムフタールの反乱は692年に鎮圧され、マフディーとして奉られたイブン・アル=ハナフィーヤは、700年にダマスカスで死亡した。しかし彼らは、イブン・アル=ハナフィーヤは死亡したのではなく、しばらくの間、姿を隠したに過ぎないといういわゆる「隠れイマーム」の考えを説いた。

 

カイサーン派は、イブン・アル=ハナフィーヤの息子であるアブー・ハーシムがイマームの地位を継いだと考え、闘争の継続を訴えた。さらに、アブー・ハーシムが死亡すると、そのイマーム位は、預言者の叔父の血を引くアッバース家のムハンマドに伝えられたと主張するグループが登場した。

 

アッバース家のムハンマドは、ヒジュラ暦100年(7188月から7197月)、各地に秘密の運動員を派遣した。ホラーサーンに派遣された運動員は、ササン朝時代に異端として弾圧されたマズダク教の勢力と結び、現地の支持者を獲得することに成功した。747年、アッバース家の運動員であるアブー・ムスリムが、ホラーサーン地方の都市メルヴ近郊で挙兵した。イエメン族を中心としたアブー・ムスリムの軍隊は、翌年2月、メルヴの占領に成功した。アブー・ムスリム配下の将軍カフタバ・イブン・シャビーブ・アッ=ターイーは、ニハーヴァンドを制圧後、イラクに進出し、7499月、クーファに到達した。

 

74911月、クーファで、アブー・アル=アッバースは忠誠の誓いを受け、反ウマイヤ家の運動の主導権を握ることに成功した。7501月、ウマイヤ朝最後のカリフ、マルワーン2世は、イラク北部・モースル近郊の大ザーブ川に軍隊を進め、アッバース軍と交戦した(ザーブ河畔の戦い)。士気が衰えていたウマイヤ軍はアッバース軍に敗れ、マルワーン2世は手勢を率いて逃亡した。7508月、彼は上エジプトのファイユームで殺害された。これによってウマイヤ朝は滅亡した。

2024/06/25

イスラム教(14)

https://dic.pixiv.net/

 

アダムとイブの扱い、原罪論

人類の始祖アーダム(アダム)とその妻ハウワー(エヴァ)は、悪魔の虚言にだまされて禁断の果実を食した罰として楽園から地上へ追放されたが、長い放浪の末それを深く悔悟したことから罪を赦され、両者は最終的には天国への居住を許可されている。そのため、キリスト教(とくに西方教会)的な原罪の概念は存在しない。

 

イスラム教系新宗教

ムハンマドを最後の預言者とする以上、同系列の後発宗教が他宗教と比べて発生しにくい、という特徴を持つ。

キリスト教や仏教と比べてかなり数は少ないが、バーブ教バハーイー教などのイスラム系新宗教は存在する。

 

過激派について

俗説として「神権ありきのイスラム教は近代民主主義と食い合わせが悪く、(西欧的な人権思想の観点から)女性を抑圧し、異教徒を下に置き、全世界のイスラム化こそが究極の目標。時代にあっていないと批判しても、彼らからは時代こそが神の教えに合っていないと考えるので妥協することはない」というような主張がなされているが、これは「ガチで100%運用してしまった場合」。

これはイスラム教だけではなく他にもいえることで、だいたいの宗教には暴力肯定の思想がどこかに潜んでいる。

 

ほとんどのイスラム教徒は敬虔であれ不熱心であれ、異教徒との宗教戦争や争いなど望んでいないし、イスラム教が支配的ではない地域に住むと戒律の実践が難しい事に関しては、妥協して生きている信者も大勢いる。

戦争を望まず、平和に暮らしたい人々は、クルアーンやハディースにある暴力的な部分と穏便な部分がぶつかる際は、大抵の場合、後者を選んで平和への道を模索している。

 

例えばISILによる日本人の人質事件が起きた際、日本国内や諸外国の多くの法学者らは、彼らをイスラムに敵対した異教徒とみなして処刑は当然とせず、クルアーンにある「一人の人間を殺すことは全人類を殺すことと同然である」という言葉を用いて激しく非難した。

 

ISILを始めとした、イスラム過激派と呼ばれるテロリストグループの主張する所の「正しいイスラム教のありかた」は、多くの穏健なムスリムとは齟齬が大きく、またイスラム教の教義に地域や特定の部族の因習などを勝手にごちゃ混ぜにしているようなところもあったりする。

こうした過激派の行動から、風評被害を被っている穏健な一般のムスリム達やイスラム教の聖職者からは「本来のイスラムの教えではない」「彼らはイスラム教徒ではない」と非難されることも多い。

 

過激派はどの宗教にも存在し、宗教史には必ず殺し合いが含まれる。特にイスラム世界では、西欧各国が適当に国境線を引いたために紛争が多発しており、また豊かなところもレンティア国家(資源輸出がほとんどの国々)で体制が脆弱など不安定な地域が多く、過激派が台頭しやすいのである。

また、日本に入ってくる情報はほとんどキリスト教世界のマスメディアを経由してくるため、イスラム過激派の情報が入りやすい。

 

しかし、一方では過激派が「信仰の尊重」を盾にして他国で事件を起こすケースもあり、更には「信仰は憲法や法律を超越できる」という非常識な暴論で開き直って法の裁きを受けても、犯罪行為を正当化しようとする者も少なからず存在する。
どの宗教や事柄においても、その「行動理念」と「運用する人間」の違いは、ちゃんと理解しておく必要がある。

 

pixivにおいてイスラム教を題材にしたイラストを描く際の注意点

上述の内容やメディアなど様々な媒体から得られる情報でもわかる通り、同宗教は非常に繊細で且つ様々な問題を抱えていることを留意しなければいけない。これは極東の島国である日本においても例外ではなく、過去に様々な問題や事件が起きているからである。

 

例えば、イスラム教を批判的に捉えて執筆された「悪魔の詩」の本を翻訳した日本人が日本国内で殺害されたケースが挙げられる(2015年現在でも、犯人は不明のまま)。また、荒木飛呂彦氏が発行した『ジョジョの奇妙な冒険』でも問題が起きた過去があり、同漫画の中で登場人物のDIOが経典であるコーランを読みながら殺害を予告するコマが描かれている。このコマを巡ってイスラム教団体から猛烈なクレームが入り、一部の信者からは「放映したアニメ会社を爆破しろ」などと叫ばれるなどデモが発生するなど、新聞に掲載されるほどの大問題に発展した(後に謝罪と絵面の修正が行われる)

 

近年では、ISIS(又はISIL、通称「イスラム国)による日本人拉致殺害事件が発生した際に、一連の騒動でTwitterユーザーが「ISISクソコラグランプリ」なる一種の炎上現象が発生ししたのは記憶に新しい。その騒動の中で、コラ画像を投稿した1人の身元がISISの関係と見られる者に身元を特定され、Twitter上で殺害予告が行われた。このため、警察が投稿した人物の身辺警護のため出動する事態にまで発展するケースがある。

 

以上のように、同宗教の扱いは1つ間違えれば大問題に発展しかねないリスクを常に抱えており、それはたとえ数多あるSNS1つであるpixivにおいても例外ではない。

正しい知識と良識ある行動、そして細心の注意をはらった上での行動が求められているのは必定である事も留意する必要がある。

 

タブーとされる事項

イスラム教を題材にしたイラストを描く際に、信者でなくてもタブーとされている事項を挙げる。

 

・イスラム教を批判的に描く

単純にイスラム教徒の反発を招く恐れがある。過激なものであればあるほど、批判を受けやすい。

 

・アラーを描く

イスラム教徒において偶像崇拝を禁止しており、神「アラー」を描くのは絶対のタブー。

 

・預言者ムハンマドを侮辱する

偶像崇拝を禁止している教義においても、ムハンマドの肖像画も禁忌に触れる恐れがあるために回避する傾向がある。顔を見えないように描いたり、顔自体を黒く塗ったり、歴史上の絵画ではのっぺらぼうにするなどで対処する場合もあるが、イスラームでもグレーゾーンな面もあるため注釈などが必要。

ただしイスラームで問題視されているのは、主に「ムハンマドの絵を描く」という事よりも、「ムハンマドを侮辱する」という側面が強い。

 

特にスンナ派は、偶像崇拝に厳しい傾向がある。

(2015年のアメリカで、修正がされていないムハンマドの絵画を展示する美術館前にて、イスラム教徒と警察官の間で銃撃戦が発生するほどの事件が発生している例がある。他にも201517日に起きたフランスのシャルリエブド事件では、ムハンマドを風刺した上、侮辱ととれた為、風刺画家が銃撃された)

 

例えばpixivにおいてもこの様なイラストが投稿されているが、こういった物でも「預言者ムハンマドを侮辱している!」と判断して何かしらの攻撃を加えてくる可能性が十分あるのである。

2024/06/23

カレワラ(フィンランド神話)(7)

47章〜第49章:月と太陽の幽閉

ワイナミョイネンがカンテレを演奏すると、月や太陽まで近寄って聞き惚れた。ロウヒはそこで月と太陽を捕まえ、ポホヨラにつれ去り、鋼の山の中に幽閉し、さらに火を奪った。世界中が闇に包まれ、至高の神ウッコまでが憂鬱になった。ウッコは月と太陽を探したが見つからず、新たに火を作り、それを大気の娘が落としてしまう。ワイナミョイネンとイルマリネンはその火を探しに向かい、大気の娘に会い、火はあちこちを焼いた後、魚に飲まれたことを告げる。2人は網を作り、魚を探すが捕まらない(第47章)。

 

ワイナミョイネンは亜麻で網を作る。それでも魚は捕まらず、彼らはとても大きな網を作り、ついに目的の魚を捕まえた。取り出した火は、ワイナミョイネンにやけどを負わせた。火はその後周辺を焼いたが、やがて収まり、皆の家を暖めることになった。イルマリネンは、やけどの軟膏を作った(第48章)。

 

人々はイルマリネンに求め、彼は新しい月と太陽を作った。しかし作ったものは輝かなかった。ワイナミョイネンは占いによって月と太陽の行方を知り、ポホヨラに向かった。彼はその家に入り、月と太陽の行方を尋ね、その解放を迫った。しかし聞き入れられなかったので、戦って彼らを倒した。彼は隠し扉を見つけ、しかし開くことができなかった。彼はイルマリネンに扉を開く道具の作成を依頼した。ロウヒは鳥の姿で鍛冶屋を訪ね、何を作っているかと尋ねた。彼は「ポホヨラの老婆の首輪だ」と答えたのを聞いて、彼女はついにあきらめ、太陽と月を解放した。ワイナミョイネンは月と太陽にあいさつし、これからも変わらぬことを求める(第49章)。

 

50章:ワイナミョイネンの出立と結びの言葉

マリヤッタなる少女が、処女懐胎して子供を産んだ。その子をどうするかの判断を求められたワイナミョイネンは彼を殺す判断をするが、その子になじられる。皆はその子を祝福し、ワイナミョイネンは旅立つ決意をする。海の彼方に旅立つところで物語は終結し、最後に物語の語りはじめに呼応する形で締めの言葉が語られる。

 

この子供はキリストを意味し、キリスト教の拡大によってフィンランドの土着信仰が押しやられた経緯を示すものとされる。『原カレワラ』においては、渦巻にのまれてワイナミョイネンが姿を消す物語となっていたが、水平線の彼方に姿を消すという、生存の可能性を残す形にあらためられたものである。

 

受容と影響

リョンロートが「古カレワラ」を1835年に発行した際、その発行部数はわずか500部であった。しかも、その500部を売り切るのに、12年もの時間を要した。また、フィンランドの知識人たちからの反応も、否定的なものが相次いだ。

 

一方で、フィンランド文学協会はリョンロートの研究や『カレワラ』の翻訳を助成、1841年のフィンランド語版を皮切りに、フランス語版、ドイツ語版が出版された。ドイツの思想家ヘルデルは、叙事詩を持つということはフィンランドには文化があり、国民としての資格を持つとして、『カレワラ』を評価した。

 

これら国外からの評価とあわせて、1843年には学校教育でフィンランド語が採用され、教科書として『カレワラ』が用いられるようになったことが、その受容を促した。学校では教育用に簡略化された『カレワラ』が用いられ、リョンロートものちに短篇の『カレワラ』を著している。

 

その後『カレワラ』を契機として、カレリアニズムと呼ばれる芸術運動が起こる。それらの『カレワラ』に材をとった作品とともに、『カレワラ』は国外に広く知られるようになった。

 

第二次世界大戦期には、戦争のプロパガンダに利用されるなどの曲折をへて、現在でもフィンランドでは企業や店舗に『カレワラ』に由来する名前が広く見られるなど、民衆の生活に深く根付いている。また、『カレワラ』は50ヵ国語以上に翻訳され、最もよく知られたフィンランド文学の一つとなっている。

 

音楽作品

フィンランドの作曲家ジャン・シベリウスは、下記に挙げる通り『カレワラ』を題材とした音楽作品を多数作曲している。

 

ü  クレルヴォ交響曲(バリトン独唱と合唱入りの交響曲)

ü  レンミンカイネン組曲(4曲からなる組曲または連作交響詩)

ü  トゥオネラの白鳥(上記の第3曲)

ü  ポホヨラの娘(交響詩)

ü  ルオンノタル(ソプラノ独唱入りの交響詩)

ü  レンミンカイネンの歌(男声合唱と管弦楽)

ü  火の起源(バリトン独唱、男声合唱と管弦楽)

ü  組曲『キュッリッキ』(ピアノ独奏)

ü  ワイナミョイネンの歌(混声合唱と管弦楽)

 

シベリウスによる作品の他には、同じくフィンランドの作曲家であるロベルト・カヤヌスの交響詩『アイノ』が挙げられる。また、フィンランドのヘヴィメタルバンド、アモルフィスは、2ndアルバム『テイルズ・フロム・ザ・サウザンド・レイクス』に収録されている楽曲群をはじめ、『カレワラ』を題材とした楽曲を多数発表している。

 

文学作品

『カレワラ』は叙事詩であるが、フィンランドでは物語としての『カレワラ』も広く親しまれている。フィンランド文学の父アレクシス・キヴィは『カレワラ』の英雄クッレルヴォの悲劇を描いた戯曲『クッレルヴォ』を著した。ユハニ・アホの小説や戯曲にも、『カレワラ』に材をとったものが見られる。また、詩人エイノ・レイノの作風にも『カレワラ』の影響が見られる。

 

『カレワラ』は、他の国々の文学にも影響を与えた。1855年にアメリカ合衆国の詩人ヘンリー・ワズワース・ロングフェローが叙事詩『ハイアワサの歌』を発表したが、『カレワラ』の影響を受けているという。

 

フィンランドの隣国エストニアでは、『カレワラ』に触発され、フリードリヒ・レインホルト・クロイツヴァルトが民族叙事詩『カレヴィポエク』(1857-1861年発行)を著した。『カレヴィポエク』はエストニアの伝承を基にしているが、一方で『カレワラ』を参考にしたとみられる部分があるという。

 

また『カレワラ』や『カレヴィポエク』の影響を受け、エストニアの隣国ラトビアでも民族叙事詩『ラーツィプレイシス』(邦題: 『勇士ラチプレシス』、1888年発行)が書かれた。

 

『指輪物語』で知られるJRR・トールキンもまた、1911年にウィリアム・フォーセル・カービー英訳版の『カレワラ』を読んでいたことが知られており、クッレルヴォを題材に『クレルヴォ物語』(邦題: 『トールキンのクレルヴォ物語』、刊行は没後)を著したほか、『シルマリルの物語』の登場人物トゥーリン・トゥランバールにもクッレルヴォの影響がみられるという。

 

美術

『カレワラ』を描いた絵画で最も有名なものとして、アクセリ・ガッレン=カッレラの一連の作品(上掲『アイノ』参照)があげられる。また、1890年のパリ万博では、フィンランド館の天井に『カレワラ』を題材としたフレスコ画が描かれ、耳目を集めた。

2024/06/17

ウマイヤ朝(1)

ウマイヤ朝(アラビア語: الدولة الأمويةal-Dawla al-Umawiyya)は、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝である。大食(唐での呼称)、またはカリフ帝国やアラブ帝国と呼ばれる体制の王朝のひとつであり、イスラム帝国のひとつでもある。

 

イスラームの預言者ムハンマドと父祖を同じくするクライシュ族の名門で、メッカの指導層であったウマイヤ家による世襲王朝である。第4代正統カリフであるアリーとの抗争において、660年自らカリフを名乗ったシリア総督ムアーウィヤが、661年のハワーリジュ派によるアリー暗殺の結果、カリフ位を認めさせて成立した王朝。首都はシリアのダマスカス。ムアーウィヤの死後、次代以降のカリフをウマイヤ家の一族によって世襲したため、ムアーウィヤ(1世)からマルワーン2世までの14人のカリフによる王朝を「ウマイヤ朝」と呼ぶ。750年にアッバース朝によって滅ぼされるが、ムアーウィヤの後裔のひとりアブド・アッラフマーン1世がイベリア半島に逃れ、後ウマイヤ朝を建てる。

 

非ムスリムだけでなく、非アラブ人のムスリムにもズィンミー(庇護民)として人頭税(ジズヤ)と地租(ハラージュ)の納税義務を負わせる一方、ムスリムのアラブ人には免税となるアラブ至上主義を敷いた。また、ディーワーン制や駅伝制の整備、行政用語の統一やアラブ貨幣鋳造など、イスラム国家の基盤を築いた。

 

カリフ位の世襲制をした最初のイスラム王朝であり、アラブ人でムスリムである集団による階級的な異教異民族支配を国家の統治原理とするアラブ帝国である(アラブ・アリストクラシー)。また、ウマイヤ家がある時期まで預言者ムハンマドの宣教に抵抗してきたという事実、また後述のカルバラーの悲劇ゆえに、シーア派からは複雑な感情を持たれているといった事情から、今日、非アラブを含めたムスリム全般の間での評判は必ずしも芳しくない王朝である。 

 

歴史

イスラム世界の領土拡大

ü  ムハンマド下における領土拡大, 622–632

ü  正統カリフ時代における領土拡大, 632–661

ü  ウマイヤ朝時代における領土拡大, 661–750

 

預言者ムハンマドの時代は、アラビア半島のみがイスラーム勢力の範囲内であったが、正統カリフ時代にはシリア・エジプト・ペルシャが、ウマイヤ朝時代には東はトランスオクシアナ、西はモロッコ・イベリア半島が勢力下に入った。

 

ムアーウィヤによる創始

656年、ムアーウィヤと同じウマイヤ家の長老であった第3代カリフ・ウスマーンが、イスラームの理念を政治に反映させることなどを求めた若者の一団によって、マディーナの私邸で殺害された。ウスマーンの死去を受け、マディーナの古参ムスリムらに推されたアリーが第4代カリフとなったが、これにムハンマドの妻であったアーイシャなどがイラクのバスラを拠点としてアリーに反旗を翻し、第一次内乱が起こった。

 

両者の抗争は65612月のラクダの戦いにおいて頂点に達し、アリーが勝利を収めた。その後クーファに居を定めたアリーは、ムアーウィヤに対して忠誠の誓いを求める書簡を送ったが、ムアーウィヤはこれを無視したうえに、ウスマーン殺害の責任者を引き渡すよう要求し、これに怒ったアリーはシリアに攻め入った。ムアーウィヤはシリア駐屯軍を率い、657年にスィッフィーンの戦いでアリー率いるイラク軍と戦った。しかし戦闘の決着はつかず、和平調停が行われることとなった。

 

このなかで、和平調停を批判するアリー陣営の一部は戦線を離脱し、イスラーム史上初の分派であるハワーリジュ派となった。和平調停もまた決着がつかないまま長引いていたが、660年、ムアーウィヤは自らがカリフであることを宣言した。ムアーウィヤとアリーは、ともにハワーリジュ派に命を狙われたが、アリーのみが命を落とした。アリーの後継として推されたアリーの長男であるハサンは、ムアーウィヤとの交渉のすえ多額の年金と引き換えにカリフの継承を辞退し、マディーナに隠棲した。ムアーウィヤは、ダマスクスでほとんどのムスリムから忠誠の誓いであるバイアを受け、正式にカリフとして認められた。こうして第一次内乱が終結するとともに、ダマスクスを都とするウマイヤ朝が成立した。

 

第一次内乱が終結したことにともなって、ムアーウィヤは、正統カリフ時代より続いていた大征服活動を展開していった。ムアーウィヤは、ビザンツ帝国との戦いに全力を尽くし、674年から6年間コンスタンティノープルを海上封鎖した。また、東方ではカスピ海南岸を征服した。しかし、彼は軍事や外交よりも内政に意を用い、正統カリフ時代にはなかった様々な行政官庁や秘密警察や親衛隊などを設立した。ウマイヤ朝の重要な制度は、ほとんど彼によってその基礎が築かれた。

 

ムアーウィヤの後継者としては、アリーの次男であるフサインやウマルの子などが推されていたが、体制の存続を望んでいたシリアのアラブは、ムアーウィヤの息子であるヤズィードを後継者として推した。ムアーウィヤは、他の地方のアラブたちを説得、買収、脅迫してヤズィードを次期カリフとして認めさせた。

第二次内乱

ムアーウィヤの死後、ヤズィード1世がカリフ位を継承した。これは多くの批判を生み、アリーの次男であるフサインはヤズィード1世に対して蜂起をしようとした。6801010日、クーファに向かっていた70人余りのフサイン軍は、ユーフラテス川西岸のカルバラーで4,000人のウマイヤ朝軍と戦い、フサインは殺害された。この事件はカルバラーの悲劇と呼ばれ、シーア派誕生の契機となった。

 

ヤズィード1世は、カリフ位を継いだ3年後、683年に死去した。シリア駐屯軍は、彼の息子であるムアーウィヤ2世をカリフとしたものの、彼は10代後半という若さだったうえに、即位後わずか20日ほどで死去した。これを好機として捉えたイブン・アッズバイルはカリフを宣言し、ヒジャーズ地方やイラク、エジプトなどウマイヤ家の支配に不満を抱く各地のムスリムからの忠誠の誓いを受け、カリフと認められた。これによって10年に渡る第二次内乱が始まった。

 

第二次内乱中の685年には、シーア派のムフタール・アッ=サカフィーが、アリーの息子でありフサインの異母兄弟であるムハンマド・イブン・アル=ハナフィーヤをイマームであり、マフディーであるとして担ぎ上げたうえで自らをその第一の僕とし、クーファにシーア派政権を樹立した。これによって第二次内乱は三つ巴の戦いとなった。ムフタール軍は、一時は南イラク一帯にまで勢力を広げたものの、2年後の687年にはイブン・アッ=ズバイルの弟であるムスアブがムフタールを殺害し、クーファを制圧したことで鎮圧された。

 

ウマイヤ朝陣営では、ムアーウィヤ2世がカリフ即位後わずか20日ほどで死去し、マルワーン1世がカリフ位を継いだ。これによって、ムアーウィヤから続くスフヤーン家のカリフは途絶え、今後はマルワーン家がカリフを継ぐようになった。そのマルワーン1世もカリフ就任後およそ2年で死去したため、ウマイヤ朝陣営は反撃の態勢が整わなかった。

 

すでにイブン・アッ=ズバイルは、ウマイヤ朝のおよそ半分を支配下に置いていた。しかし、第5代カリフに就任したアブドゥルマリクは、ビザンツ帝国に金を払って矛先を避けさせることで政権を安定させ、戦闘能力の高い軍隊を組織してイブン・アッ=ズバイルへの反撃を開始した。自ら軍勢を率いてイラクへ向かったアブドゥルマリクは、691年にムスアブを破ってクーファに入った。また、692年にはハッジャージュ・ブン・ユースフを討伐軍の司令官に任命した。ハッジャージュは7か月にわたるメッカ包囲戦を行い、イブン・アッ=ズバイルは戦死した。これによって10年に渡る第二次内乱はウマイヤ朝の勝利で終息した。

2024/06/14

イスラム教(13)

https://dic.pixiv.net/

イスラームの政治性・社会性

イスラームは、ムハンマドによる創建当初から宗教共同体=政治的共同体であったことから、宗教指導者や政治指導者は宗教的理念に基づいた公正な政治を行うべき責任を有している、という理念を持っている。また創建当時、預言者ムハンマド自身や聖地メッカの人々は、多くがアラビア半島内外への商交易によって生活を立てていたことから経済活動を重視しており、富者はアッラーの恩恵によって経済的に豊かになれているため、貧者に喜捨や施しをすることで社会還元すべきとする、経済活動についても固有の理念を持つ。

 

加えて貧者や孤児、寡婦などの社会的弱者は、近親者や縁故者なども含めて社会全体から保護・支援すべきであるとしているため、社会運営についても聖典クルアーンや、預言者ムハンマドの言行に基づいた理念や規定が設けられている。

これらイスラームは、単に信仰生活のみならず政治理念から経済活動、社会生活全般に渡る理念など、幅広い分野についても宗教的な理念や規定、許容範囲などが考察されて来た歴史がある。

 

ハラール(許可)とハラーム(禁止)

イスラームでは、宗教的に許可推奨されるもの・行為(ハラール)と、禁止されるもの・行為(ハラーム)の区別がある。クルアーンとハーディスで言及されていないものについては、イスラム法学者や知識人の見解やイスラム教徒側の許容や合意によって左右される。

なお、イスラム法学者によっては文面上ハラームなもの、例えば売春ギャンブルなどについても、見かけ上ハラールな行為を組み合わせて適法と解釈する行為を広く認めており、これを「ヒヤル」という。

 

事細かな戒律があるため、外部からは大変と思われがちだが、アラーはできるだけ多くの人間を天国に導こうとするため、その戒律には様々な救済措置などが設けられており、悪行よりも善行をうんと評価するシステムからさほど熱心ではなくとも、一生を普通に暮らせば(特に豚肉や酒が流通していないイスラム教が支配的な地域)、よほどの悪人ではない限り天国にいける可能性がある、というのが多くのイスラム教徒と法学者の見解である。

 

LGBTQについて

イスラム教では、基本的に異性愛のみを認め(ハラール)、同性愛は否定(ハラーム)されているが、過去には多くのイスラム王朝で権力者が男色を好み、少年愛の文化が花開いていた。だが現代では、インドネシアやトルコなど宗教分離が進んだ国家、ヨルダンやパレスチナなど比較的リベラルなイスラム国家では同性愛も許容されるものの、厳格なイスラム社会においては同性愛への風当たりは非常に厳しく、むち打ち刑や死刑となる場合もある。

 

イスラム教徒にも同性婚を認め、イスラム教式の宗教的な同性結婚式を行うモスクや宗教者が存在している(ゲイのイスラム教指導者の物語「イスラム教は対話にオープンになった - 10年前とは違って」死の脅し受けてもなお――ゲイのイスラム教指導者)。

 

トランスジェンダーについては自身の体に性的違和をおぼえ、性別移行手術を望む人々については、保守的な宗教権威においても認める立場がある。

スンニ派では「アッラーが地上に病をくだされた場合、必ずその癒しをくだされた」(ブハーリーのハディース集より)といった伝承が参照され、スンニ派最高学府アズハル大学がこれを認め、シーア派を国教とするイランでもイスラム諸国で最初に性別変更を認めている(イスラーム圏の性同一性障害、そして性別越境者 japanese only)。パキスタンでは国民IDカードにおいて「第三の性」として対応する方針をとるようになった(性は私事か、公事か―「トランスジェンダーであるだけで殺される国」からの脱皮を目指すパキスタン)。

 

しかしながら、イスラム教の国々でも迫害を受けるトランスジェンダー当事者がいるのも事実である(インドネシア:トランスジェンダーを警察が「再教育」)。

トルコや他の地域のトランスジェンダーたちは、預言者ムハンマドを背に乗せ天界に運んだと伝わる人面の天馬アル=ブラークを、自分達のアイデンティティを指し示す存在とみなしている(Why Turkey's activists and LGBTQ, Kurdish communities are rallying around the mythical figure of Şahmeran)。


ユダヤ教・キリスト教とのつながりと相違

聖書の扱い

イスラームは、先行するユダヤ教キリスト教と同じ唯一なる神を信仰していると自認しているが、3者間の差異は預言者に下された「啓典」の歪曲によって成ったとしている。ユダヤ教徒・キリスト教徒に伝わる現行の聖書は捏造・改竄がなされたもの、とみなされる。クルアーンによって誤りが訂正された、という信仰である。

 

六信にある「啓典」(モーセ五書、詩篇、福音書)とは、厳密には預言者に降された「改竄前のオリジナル」であり、クルアーンと食い違う箇所、また無神論者やニューエイジャーからも指摘される(「改竄後」である)聖書の内部矛盾も、容赦なく批判され、聖書が真理、神の言葉そのものであることは否定される。

 

イスラム教においては、聖書が改竄されて欠陥や矛盾を含んでしまった以上、地上において純粋まじりっけなしの神の言葉は、預言者ムハンマドに降された最後の啓示であるクルアーンの他に存在しないのである。


キリスト教徒に、ユダヤ教徒は自分達と同じ神を信じているとみなすが、イスラム教徒はそうでない、という人がいるのはこのためである。

 

アブラハムの扱い

古代のアブラハム(イブラーヒーム)をこれら3宗教の遠祖と仰いでおり、基づいてアラブの始祖をアブラハムの息子イシュマエル(イスマーイール)とし、メッカのカアバ神殿はアブラハムとイシュマエルが建設したというイスラーム以前の古いアラブの伝承に基づいて、イスラームの信仰の根本はアブラハムの宗教に立ち返ったものであるとみなしている。

 

イスラム教においては、(イエスやモーセもだが)アブラハムはユダヤ教徒でもキリスト教徒でもなくムスリムである。

 

イエスの扱い

アッラーは、クルアーンによれば「生みも生まれもしない」唯一固有の存在としているため、イエス・キリスト(マスィーフ・イーサー)をマリア(マルヤム)の子にして救世主とは認めるものの、「神の子」であることは否定していることも特徴である(実はキリスト教においても、イエス・キリストはマリアから生まれる前、永遠の昔から存在したとされ、ある時点において発生・出現した(生まれた)、という見解はとらない)。


クルアーンでは、神を「父」と呼ぶ旧約聖書からの慣習も否定されているが、これに則るならイエスは神をアッバ(父)とは呼んでいないことになる。

 

またイエスは十字架にかかっていない。かかっているように見えたのは誤認であり、実際は神により天に引き上げられた、とされる。

ハディース(ムハンマドの言行録)によると終末の時代が来るとき、イエスは十字架を破壊する、という。

2024/06/09

イスラムの発展

https://timeway.vivian.jp/index.html

イスラムの発展

--------------

正統カリフ時代

--------------

 ムハンマドが死んでからの時代を、正統カリフ時代(632~661)といいます。

 

 ムハンマドが死んだ時点で、イスラムはアラビア半島を統一して大勢力になっていましたね。この大きな集団を誰が統率するかということが当然問題になる。まず、ムハンマドには、跡取りとなる男の子がいなかった。またムハンマドは「最後にして最大の預言者」ですから、かれ以上の宗教指導者は理論上現れることはない。結局、残された信者たちは、選挙で自分たちの中から指導者を選ぶことにしました。このようにして選ばれた信者の指導者を「カリフ」といいます。カリフは「預言者の代理人」という意味です。

           

 ムハンマド死後、選挙で選ばれたカリフのことを「正統カリフ」といいます。正しい手続きで選ばれたカリフということです。正統カリフは四人つづき、イスラム共同体を指導したこの時代を「正統カリフ時代」というわけです。

 

 最初の正統カリフがアブー=バクル、二代目がウマル、三代目がウスマーン、四代目最後の正統カリフがアリーです。最後のアリーだけは、しっかり覚えておいてください。

 

 さて、この正統カリフ時代は、アラブ人の大発展が始まります。それまで、部族対立でバラバラだったアラブ人が、イスラムによって一つにまとまる。これは非常に大きな政治的勢力になって、アラブ人のエネルギーがアラビア半島の外に向かって爆発する。

 

 アラビア半島の北、メソポタミア地方からシリア方面はどういう情勢だったかというと、長く東ローマ帝国とササン朝ペルシアが対立抗争して、両者とも疲弊していた。そこにイスラム=アラブ人がなだれ込んでくる。

 642年、ニハーヴァンドの戦いで、イスラムはササン朝ペルシアを破る。この後、ササン朝は急速に衰えて651年には滅亡して、その領土はイスラムの支配下に入ります。

 また、イスラム勢力は東ローマ帝国とも争い、シリア、エジプトを奪いました。

 

 この段階で、イスラム教徒はほとんどアラブ人ですから、イスラムの発展は、イコール、アラブ人の発展です。

 このようにして、イスラム教の支配地が急速に広がる。イスラム教徒たちは、征服地にミスルと呼ばれる軍事都市を建設します。新領土の拠点となるところにミスルを建設して、ここにアラブ人が移住します。

 

 アラビア半島から出てきたアラブ人の戦士たちは、各地のミスルに住んで周辺の住民を支配するわけですね。

 支配された被征服諸民族はジズヤと呼ばれる人頭税、ハラージュと呼ばれる土地税の支払いを義務づけられました。イスラム教徒は、非イスラム教徒に改宗を強制はしなかったようです。ジズヤとハラージュさえ払ってくれれば、それで満足です。

 

 集められた税金は、ミスルに移住したイスラム=アラブ人戦士たちに年金として支払われました。この年金をアターといいます。また、イスラム教徒は免税特権を持っていた。

 

 正統カリフ時代には、イスラム教徒=アラブ人は支配者階級であり、特権階級としてエジプトからシリア、イラク方面を支配したのだということですね。

 

 こうなってくると、カリフは単なる信者の指導者としてだけでなく、この広大な支配地の支配者として、強大な権力と富を手にすることができるようになってきます。正統カリフに選ばれた人たちは、みなムハンマドが布教を開始した頃からの古い信者で、質素で素朴な信仰生活をおくっていた人たちなのですが、それでも三代目のウスマーンは王侯のような贅沢な生活をした。指導者層の間にも、俗な欲望を持つ者もあらわれてくる。イスラム共同体=ウンマがだんだん変質して、共同体が理念だけになってくるのです。

 

 ウスマーンは、その贅沢ぶりに反感を持つ信者グループに暗殺され、次の第四代の正統カリフになったのがアリーです。

 アリーは、現在でもイスラム教徒の中では人気の高い人です。武人として剛胆、信仰も堅固、性格は実直。しかも、ムハンマドのいとこ、かつ、娘婿でもあった。ムハンマドの娘ファーティマと結婚していて、二人の間には息子もいます。この子供は、ムハンマドの孫にもあたるわけですね。血縁の点で、アリーは特別な人だったのです。

 

 が、実際の政治的能力はそれほどでもなかったようで、イスラムの中で生まれかけていた派閥対立をうまく調整することができなかった。

 シリア総督だったムアーウィヤが、アリーのカリフ位に反対したのです。

2024/06/06

イスラム教(12)

https://dic.pixiv.net/

ハディース

ムハンマドの言葉や行動についての伝承(ハディース)は、やがて集成書としてまとめられた。これらをハディース集といい、複数存在する。ハディースは伝承の経路と典拠(イスナード)についての情報も含んでおり、「誰から聞いたか」「その人はさらに誰から聞いたか」が、ムハンマドの言葉や行動そのものを書いた本文に付随する。

 

伝承ごとの信頼度も重要視されており、信頼性ごとにサヒーフ(真正)、ハサン(良好)、ダイーフ(脆弱)という分類が存在する。


宗派によって用いるハディース集は異なっており、宗教解釈の違いを生んでいる。


スンナ派における代表的な六つのハディース集として、アル=ブハーリー、ムスリム・イブン・ハッジャージュが、それぞれまとめた『真正集』、アブー・ダーウード、アル=ティルミズィー、イブン・マージャ、アル=ナサーイーが、それぞれまとめた『スナン集』がある。

 

シーア派における代表的な四つのハディース集は、アル=クライニーによる『カーフィーの書』イブン・バーバワイヒによる『法学者不在のとき』、アル=トゥースィーによる『律法規定の修正』と『異論伝承に関する考察』がある。

 

この他にも、複数のハディース集が編まれている。

 

スンナ派の六つのハディース集のうち、ムスリムとブハーリーによる『真正集』には日本語訳が存在する。ブハーリーのものは中央公論新社から、ムスリムによるものは日本ムスリム協会から出ている。後者はネットで全文公開されている(リンク)。

 

信仰内容

スンナ派イスラム教徒の場合、信仰の根幹は六信五行としてまとめられる。

六信:

ü 

ü  天使

ü  啓典(クルアーンや聖書のこと)

ü  使徒(ムハンマドが神の使徒であるということ)

ü  来世天国地獄

ü  定命(人間の運命は神によって定められているということ)

を信じること


五行:

ü  信仰告白

ü  礼拝(毎日決まった時間に祈る)

ü  喜捨(財産を他人に配る)

ü  断食(決まった月に日中だけ断食する)

ü  巡礼(メッカへの巡礼)

を行うこと

 

これらを信者の義務とする。シーア派では、五信十行としてまとめられる。

 

主な戒律としては、イスラム教徒による正しい屠殺方法(ハラール)に則って処理されていない肉や豚肉は汚物として食べない、成人女性はを露出しない、禁酒偶像崇拝の禁止などがある。イスラム原理主義国家であるサウジアラビアなどでは、この教義がかなり厳格に守られているが、政教分離が進んだトルコインドネシアではよく言えば柔軟、悪く言えばいい加減で戒律は必ずしも守られていない。

他にもイランは厳格な筈だが、見えないところでは戒律が守られておらず、特に若年層でそれが顕著である。詳細はハラールの記事に記述する。

 

信者数は世界で約16億人、主に北アフリカ西アジア中央アジア南アジア東南アジアなどの広い地域で信仰されている。

アジアでは、中世に中央アジアや東南アジアの一部で仏教等の多神教勢力を滅亡させた。しかし東アジアでは中国までで止まってしまい、日本には近代まで到達しなかった。

 

ヨーロッパでは、イベリアシチリアのように一時イスラム教勢力が支配的であった地域もあったものの、後にレコンキスタなどキリスト教勢力による再征服によって、イスラム教徒がほとんど消えた地域が多い。例外的に比較的最近までイスラム教勢力の支配下にあったバルカン半島では、現在でもイスラム教徒が少なからず残っており、現在でもアルバニアのようにイスラム教徒が多数派となっている国も存在する。

 

現代でも、紛争が多い地域の特性か出生率が依然高い地域が多く、今世紀中にはキリスト教信者を上回り、世界最大の宗教になるとされており、欧州のいくつかの国でも(前述のバルカン半島の例を除いても)将来的にはイスラム教が多数派になるという予測さえ存在する。

例えば、イラクは出生率4.37と周辺諸国を上回っている。ただし、いずれも出生率は低下傾向にあり、特にイランなどでは出生率が1.66にまで落ち込んで少子化の兆候が見え始めている。

 

また、移民先のヨーロッパでは「出生率8.1」「フランスは2050年にはイスラム国家に」という根拠不明かつ荒唐無稽な数値がまことしやかに言われているが、もしもあと3,40年のうちにそうなるには、さらに数倍の出生率がなくてはならない。まだ比較的信頼できる数値では多いところで1、少ないところではさほど変わらないなど経済や政情に連動していることがわかる。

教義に求めるところもあるが、「産めよ増やせよ」と明記されてある聖書を重んじるキリスト教やユダヤ教の方が、さらに出生率が高くてしかるべきだろう。


イスラム教徒にとっての『クルアーン』のように、聖書を「神の言葉」と信じるキリスト教徒が激減しているのも、この俗説にもっともらしさを感じさせているのだと思われる。

ヨーロッパでは、キリスト教は衰退と停滞のただ中にあり(カトリックでは「教会の危機」がさけばれている)、上記の「2050年にはイスラム国家に」の俗説で言われているフランスは、その代表例である。

 

文献学の観点から聖書研究が進められた結果、聖書が「神の言葉」とは信じられなくなり、キリスト教はイエスの教えではなく教会組織や、せいぜい弟子達や初代教会の見解(誤解)の混合物とされるようになった。中世以前までの聖書観やキリスト教観を維持する為には、「学問を否定する」という形をとらざるを得なくなる。実行する人々は、苛烈・過激な言行によって、わざわざ「人の言葉」に従う動機を持てないノンポリ層をさらに遠ざける形になるのである。

 

リベラルで現代的な解釈をとるキリスト教会もあるが、欧米では加速度的に進行する世俗化・脱キリスト教の傾向を抑止するに至っていない。

 

一方クルアーンは、ムハンマドの直弟子が書物としての現在の形にしたという背景から、ムハンマドその人に遡られるという点は確実視されている。非イスラム教国の西洋人などの学者によっても、後世の誰かが作成したり内容を追加した、という説が唱えられてもいない。そうした背景から、21世紀でもクルアーンは字義通り「神の言葉」として受け取られ、モスクにはクルアーンが「神の言葉」であると確信する人が集まっている。また、売りに出された教会が買い取られ、モスクに転用される事例も多い。キリスト教の洗礼を受ける人は少なく、イスラム教に入信する人は多い。

 

イスラム教は一日五度の礼拝だけでなく、服装や食事という外から見えやすいところでも信仰をあらわす宗教であり、そこに向けられる熱心さも相まって、「(実際の統計上の数字よりも)イスラム教徒の人口が増える」と思わせている、と考えられる。


上記のように、イスラム世界においても国や地域によって出生率や年齢別の人口比には大きな違いがあるが、共通していることがある。

預言者の教友であり、正統カリフであるウスマーンの主導で現存する『クルアーン』が編纂されたという歴史的事実があり、この根本聖典と、伝承の経路と典拠を確かめられる各ハディースから信仰を解釈できるイスラム教は、どの国と地域のあらゆるイスラム教徒にとっても真理だということである。

 

これは飲酒をするイスラム教徒や、女性だが髪などを隠さないイスラム教徒にとっても大前提である。

彼ら彼女らは保守的な信徒と同じく「神から誤りなく啓示された真理」と認識する宗教をそう解釈しているのであって、イスラム教という宗教そのものを相対化しているわけではない。

 

近世以前のヨーロッパ、また現代ヨーロッパにも一部残る保守派信徒のキリスト教徒と同様な見方を、「神の言葉」を根本とする自身の宗教に対して向けているのである。

同性愛間性交渉を禁じ、刑罰を命じるハディースを否定し、同性婚などを可能にする解釈をとるイスラム教徒もいるが、それにあたっては個別の伝承経路や状況について吟味するという保守派と同じ方法論(詳細は青柳かおる「イスラームの同性愛における新たな潮流」pdf11ページ以下を参照)をとっている。

 

そんなイスラム教を信じる国々にも無神論者や無宗教者はいるが、本当に「いることはいる」レベルのごく僅かな割合、人数である。キリスト教保守派が一大勢力であるアメリカですら、若者の5分の1は無宗教者であることを踏まえると、今もなお絶対的かつ強靱な社会への影響力がうかがわれる。

2024/06/05

カレワラ(フィンランド神話)(6)

34章〜第35章:クッレルヴォの帰還

クッレルヴォは、すぐさまイルマリネンの家から逃走し、荒野を放浪した。ところが、ここで通りかかった人から両親が健在であることを聞かされ、そのもとへと向かった。母親は喜び、家族の消息を説明し、妹が行方不明であると知らせる(第34章)。


彼は両親の元で働いたが、やはりうまくこなせず、舟をこげば櫂受けを壊し、網打ちをすれば網ごと粉砕した。そこで旅には慣れているだろうと、税金を納めに行くことになった。その帰り、彼はとある娘を橇に誘い、一夜を共にした。翌朝、互いの名乗りをしてみると、彼女は行方不明の妹だった。彼女は川に身を投げて自殺した。彼は自殺しようとするが、母が止めた。彼は考え直し、ウンタモ一族を滅ぼす決意をする(第35章)。

 

36章:クッレルヴォの最期

クッレルヴォは出征の準備をする。彼は皆に別れの挨拶をするが、母親以外はさほど悲しまない。彼が出発すると、追いかけて使者がきて、家族全員の死を順に知らせる。彼は突き放して答えるが、母に対してだけは大いに嘆く。彼はウンタモ一族を滅ぼし家を焼き、故郷に帰った。そこには空き家だけがあった。彼は泣いた。それから食料を探しに森に入って、気が付くと、そこは妹が死んだ場所だった。彼は刀で胸を突いて自殺した。それを聞いたワイナミョイネンは後世に向け、子供の育て方を誤らないようにと語った。

 

37章:黄金の花嫁

イルマリネンは、妻の死を大いに悲しみ、3ヶ月間泣き明かした後、金と銀で花嫁を作ることを思いつく。3度目に彼は黄金の花嫁を作り出したが、彼女は動くことも話すこともなく、抱いて寝ると冷たかった。彼はこれをワイナミョイネンに送ることにし、運んで行ったが、ワイナミョイネンはこれを拒否した。

 

38章:イルマリネン2度目の求婚旅行

イルマリネンは再びポホヨラに向かい、娘を求めた。女主人は娘の死を聞いて怒り、二度と娘はやらないと告げた。彼は娘に直接に願ったが拒否され、とうとう娘をさらって家を飛び出した。娘は怒り、悲しみ、許しをこうたが彼は聞かず、ある村に飛び込んだ時、彼は疲れて寝てしまった。目を覚ますと、娘は他の男と楽しんでいた。イルマリネンは怒り悲しみ、娘を鴎に歌い変えた。

 

イルマリネンは自分の国へ帰ると、ワイナミョイネンに出会い、ワイナミョイネンは彼にポホヨラの暮らしはどうだったかを訪ねた。彼は「向こうにはサンポがあるから幸せに暮らしている」と告げた。

 

39章:サンポ奪回へ

ワイナミョイネンは、イルマリネンにサンポ奪回を持ちかける。イルマリネンはワイナミョイネンに刀を作る。自分のためには鎧を作った。彼らは木の船を見つけ、船の願いに沿って、漕ぎ手として若者と乙女、それに老人の集団を出した。若者と乙女は力弱く、老人は少しましだったが船足は遅く、ついにイルマリネンが漕いだ。レンミンカイネンはこの船を見つけ、目的を聞くとこれに参加することを求め、船に乗り込んだ。

 

40章〜第41章:カンテレ

船は巨大なカマスの背に座礁し、レンミンカイネンはこれを倒そうとして海に落ち、イルマリネンは切りつけたが刀を折った。ワイナミョイネンは、刀でカマスを殺した。皆で料理して食った後、ワイナミョイネンは残りの骨からカンテレを作った。弾こうとしたが、だれにも弾けなかった。ワイナミョイネンは、ポホヨラには弾けるものがいるかもしれないと、これをポホヨラに送った。その地では多くの人が弾けたが、その音は喜ばしくなかった。楽器は再び作り手に戻された(第40章)。

 

ワイナミョイネンはカンテレを演奏した。すべての動物がこれを聞きに集まった。妖精たちも聞き惚れた。聞いた人間はすべて涙を流した。ワイナミョイネン自らも涙を流した。その涙は海に沈んで真珠となった(第41章)。

 

42章:サンポ奪回

イルマリネンは先頭の櫂、レンミンカイネンは後尾の櫂に、そしてワイナミョイネンは船尾に座り、船は進んだ。ポホヨラにつき、女主人のもとへ向かい、サンポを分けるように求めた。彼女はこれを拒否。彼は、ならばすべて持ち帰ると言ったので、女主人は立腹し、ポホヨラの全員を呼び出し、彼らは武装して集まった。ワイナミョイネンはカンテレを演奏し、彼らは全員よい気持ちになり、眠り込んだ。ワイナミョイネンはサンポをしまった扉を開き、運び出そうとしたが動かなかったので、牛を連れてきて引かせ、ようやく運び出し、船に乗せた。レンミンカイネンは漕ぎながら歌うと言い出し、再三止めたがついに歌い出した。その声でポホヨラのものたちは目を覚まし、盗まれたことを知って怒った。まずもやを歌い出し、ワイナミョイネンの足止めをした。彼はこれを払うと、さらに進んだ。今度は海からイク・トゥルソが現れたが、ワイナミョイネンにしかられて姿を消した。次は大風が吹き、カンテレは飛ばされた。ワイナミョイネンは悲しんだが、船を強化してさらに進んだ。

 

43章:サンポ戦争

女主人は軍勢を仕立て、戦船を進撃させた。ワイナミョイネンはこれを見つけ、暗礁を歌い出して船を粉々にした。彼らは全員眠り込んだ。武器を爪に変え、板をつなげて翼とし、鷲のような姿で飛び始めた。そして船に近づき、サンポを奪おうとした。レンミンカイネンは切り付けたが効果がない。ワイナミョイネンは舵を海から引きだし、殴りつけた。鳥の姿のものは海に落ちたが、爪が引っ掛かったのでサンポも海に落ち、破片となった。サンポの破片は各地にたどり着き、それぞれの地を富ませた。

 

ロウヒは復讐のために熊を送り、霰を降らせるというが、ワイナミョイネンはそれに対抗できる旨を答え、女主人は泣く泣くあきらめた。ポホヨラにはサンポの破片はほとんど来ず、ラップはパンの無い生活をすることになった。ワイナミョイネンは陸に着くと、サンポの破片を見つけ、それを以て土地が繁栄するように呪文を唱えた。

 

44章:新たなカンテレ

平和になったことからワイナミョイネンはカンテレを弾きたくなり、イルマリネンに鉄の熊手を作らせ、カンテレを探したが見つからない。彼が草原に行くと白樺が泣いていた。理由を聞くと、切られ、削られるのが怖くてならないと言う。そこで彼は皆の喜びになるのだと木を慰め、その木で新しいカンテレを作った。彼はそれを演奏し、皆それを聞いて感動した。

 

45章〜第46章:復讐

カレワが繁栄していることを聞いたロウヒは妬み、疫病を送った。ワイナミョイネンはそれを救いに出掛け、呪文や軟膏でそれを払った(第45章)。

 

カレワが救われたと聞いたロウヒは、今度は熊を送り付けた。ワイナミョイネンはイルマリネンに槍を作らせ、熊を捕らえ、礼を尽くして解体した(第46章)。

 

この章は熊祭の祭礼や歌を物語に取り込むために、ロウヒがそれを送り込んだことにしたものである。