2025/05/30

道鏡(4)

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道鏡(700?~772?)とは、奈良時代の僧侶である。

孝謙天皇(称徳天皇)に寵愛されたことで知られており、そのお察しください関係性がよく話題になる。

 

概要

弓を作る一族である弓削氏の出身で、物部守屋の子孫の一族を称する。

禅に通じる優れた僧侶であったのだが、病気の孝謙上皇を看病(意味深)した事で上皇から気に入られたようで、以後上皇の側仕えとして寵愛されメキメキと昇進していくことになる。

 

対抗勢力であった淳仁天皇・藤原仲麻呂が藤原仲麻呂の乱で滅ぶと、重祚した称徳天皇と共に権力を握り、翌年には僧籍のまま太政大臣、さらには法王にまで昇進を果たす(この法王の称号は道鏡のみが持つ)。

 

称徳天皇には明確な後継が居ないため皇位継承問題が問題になる中で、宇佐八幡宮から「道鏡を次の天皇にすべし」という託宣を受けるまでに至り、大事件となる。

 

しかし最大の庇護者であった孝謙天皇(以後表記は全て孝謙天皇とする。)が崩御すると、藤原氏を始めとする対抗勢力の猛烈な巻き返しによって下野国に左遷されて、その地で没したとされる。

 

女帝である孝謙天皇に「天皇にまで就けたがっていた」とされるまでに寵愛されていたが、その明確な根拠がわかっていないため、平安時代から「巨根」「絶倫」「大淫蕩」という性交に卓越した評価をされる事が一般的である。が、信頼できる一次資料にそのような記述はない。

 

なお戦前の皇国史観から「皇位を簒奪」しようとしたため、平将門・足利尊氏と並んで「日本三悪人」と評される事がある。

 

巨根伝説

『道鏡といえば巨根、巨根といえば道鏡』という1000年以上先の未来でも巨根の代名詞とも伝わるほどに巨大な逸物を持っており、その巨根とテクニックを使い孝謙天皇に取り入ったとされる事が通説である。

 

巨大な交尾器を持つオサムシに「ドウキョウオサムシ」とまで自らの名前がつくほどであるが、これは平安時代にはすでに言われていたようで、江戸時代には「膝が3つある」だの「道鏡に根まで入れよと勅」だの不敬罪レベルの下世話な川柳も生まれた。

 

孝謙天皇に取り入ったのは、天平宝字5年(761年)に平城京改修の為に保良宮へと都を移した時に、病となった天皇を看病をした事がきっかけと見られる。ちなみに、この時道鏡61歳・孝謙天皇42歳。

 

なお仏教は病への言及が多いため、僧侶は薬学を始めとする医学の知識を得やすい立場にある。このため、奈良時代にはすでに優れた医療知識を持つ僧侶が僧医として存在しており、高僧として知られる道鏡が病気の天皇を診る事は、同時代的にはごく自然な行動といえる。

 

同時代資料に巨根説が無いことや、道鏡に皇位簒奪の意図はなかった可能性が高いことがわかってきたこと、加えて「女性権力者に巨根で取り入る」逸話の元ネタとも言える「秦の嫪」の伝説が記されている「史記」は、奈良時代にはすでに日本では伝わっていたことがわかっているため、これを基に創造された可能性の指摘がある。

 

皇位簒奪の意志

少なくとも、道鏡本人が「皇位を簒奪」する意志は無かったようである。以下にまとめた。

 

道鏡本人が僧侶であり子供を持たないため、自身が天皇になった所で遠からず皇位継承問題に発展する事は容易に想像が出来るのだが、その対応の様子が見られないこと

道鏡は庇護者である孝謙天皇の崩御後、左遷こそされど処刑されたという記録がない。

宇佐八幡宮の一度目の神託で道鏡の皇位継承が肯定されたのに、皇位継承の準備が一切行われていないこと

二度目の神託で「和気清麻呂」が処罰された後も、皇位継承の準備が一切行われていないこと

 

皇位継承を本気で狙うのであれば入念な下準備等が必要になると思われるが、立太子もその準備も一切行われた様子もなく「本気で簒奪する気あるの?」と言わざるを得ない。また(本当に)皇位簒奪を企図していたのであれば、これは八虐の「謀叛」に相当する罪であり、情状酌量の余地など無く問答無用で死刑である。にも関わらず、庇護者を失ってなお「これまでの功績を評価されて」左遷止まりとなったのは明らかにおかしい。

 

このため、道鏡の左遷には敵対勢力の…

 

「左遷で十分」

 

道鏡に政争をする意志が無く、政治の場から離すだけで抵抗勢力にならないと思われた。

「左遷までしか出来なかった」

道鏡に厳罰をでっち上げる事が出来るような怪しい行動が見られなかった。

という両方の意図があったのではないか、という仮説が立てられる。「皇位簒奪を狙う怪僧」というよりは「清廉潔白な高僧」のようにも思える。

 

仮説:藤原氏の政治闘争

仏教を国家によって支配・管理する事を藤原不比等以来の政策としていた藤原氏と、度重なる国難を仏教によって国を治める事で乗り切ろうとした聖武・孝謙天皇の政治方針が対立していたという説がある。

 

この対立の中で、光明皇后・藤原仲麻呂の死で藤原氏側の有力勢力が居なくなったため、孝謙天皇は父由来の仏教優遇政策を邁進させることになるのだが、この仏教優遇政策の中で優れた僧であった道鏡が重用されただけに過ぎず、道鏡自身に野心は無かったと考えられている。

 

闘争には勝利したものの藤原氏としては相当なトラウマにもなったようで、天皇の暴走に対してすぐ譲位を迫れるようにするためにも、皇太子は出来る限り空位にせず立太子と即位はセットで考えられるようになった。(そもそも、孝謙天皇の立太子が非常に特異なケースである)

 

また次代・光仁天皇の即位には、当然ながら闘争に勝利した藤原氏の意向が強く出ている。であるならば、藤原氏が自身の正当化を目的として「敵対勢力である孝謙・称徳天皇の風評を意図的に落とすために、道鏡に嫪の役割を被せて貶めた」とも考えられることが出来る。

 

以後、女性天皇が850年も出なかった事は、この事件の影響が少なからずあったと考えられる。

 

なお、孝謙天皇自身に本当に禅譲の意があったかどうかは明確な結論が出ていないが、あくまで「天皇・法王の二頭体制」を敷こうとしたに過ぎず、本気で道鏡に皇位を譲る気があったとは考えづらいというのが近年の見解である。

 

はっきりしたことは言えないが、少なくとも「自らの皇位継承の野望のために逸物を使って女帝に取り入った」という従来の道鏡像には、かなり不自然な点が多く無理がある事がわかっており、「天然痘で壊滅となった日本を仏教を軸に復活させるために旗印となった高僧」という聖人説もあがるようになってきている。

2025/05/28

イブン=ルシュド(アヴェロエス)(2)

アブー・アル=ワリード・ムハンマド・イブン・アフマド・イブン・ルシュド(アラビア語: أبو الوليد محمد بن أحمد بن رشد abū al-walīd muammad ibn ʾamad ibn rušd, 1126414 - 11981210日)は、スペインのコルドバ生まれの哲学者、医学者。膨大なアリストテレス注釈を書いたことで知られる。ムワッヒド朝のもとで君主の侍医、後にはコルドバのカーディー(裁判官)となった。1197年にはムワッヒド朝の君主ヤアクーブ・マンスールが哲学を禁止したことでイブン・ルシュドは追放され、その後モロッコのマラケシュで亡くなっている。

 

アヴェロエス (ラテン語: Averroes ラテン語: [aˈu̯erroeːs] 英語: [əˈvɛroʊiːz]) の名でよく知られている。アラブ・イスラム世界におけるアリストテレスの注釈者として有名。また、医学百科事典を著した。神秘主義者ガザーリーの哲学批判書『哲学者の矛盾』に対して、哲学者の立場から『矛盾の矛盾』を執筆して批判に反駁を加えている。

 

彼の著作は、中世ヨーロッパのキリスト教のスコラ学者によってラテン語に翻訳され、ラテン・アヴェロエス派を形成した。

 

ラッファエッロ・サンツィオの代表作であるアテナイの学堂に、ギリシア哲学者の一人として描かれている。

 

伝記

早年

イブン・ルシュドは、1126年にコルドバで生まれた。彼の家族は、宗教と法の分野で知られていた。祖父アブル・ワリード・ムハンマド・イブン・ルシュド(本項のイブン・ルシュドと区別して、イブン・ルシュド・ジャッドとも)はコルドバの最高裁判官であり、ムラービト朝時代にはコルドバの大モスクのイマームであった。父アブル・ハーシム・アフマドは祖父ほどには高名ではなかったが、1146年のムラービト朝がムワッヒド朝に代わるまで同じく最高判事であった。

 

伝統的な伝記によれば、イブン・ルシュドの教育はハディース、フィクフ(法学)、医学、神学から始まり優れていた。彼はアル・ハーフィズ・アブー・ムハンマド・イブン・リズクの下でマーリク学派の法学とハディースを、祖父の弟子であったイブン・バシュクワルと共に学んだ。彼の父はイマーム・マーリクの高名な法学著作であるムワッターを教えた。またアブー・ジャアファル・ジャリーム・ル・タジャイルの下で医学を学び、おそらくそこで哲学を学んだ。

 

彼はまた、哲学者イブン・バーッジャ(ラテン名アヴェンパーケ)の著作も知っており、個人的に知り合いであったか、それとも彼の指導を受けたのかもしれない。彼はセビリアで定期的に哲学者、医師、詩人の集会に参加し、イブン・トゥファイルとイブン・ズフル、将来のカリフ、アブー・ユースフ・ヤアクーブが出席していた。他にも、後に彼が批判するアシュアリー神学派のカラーム神学を研究した。13世紀の伝記作家イブン・アル・アッバールは、彼はハディースよりも法とその原理に興味を持っていたと述べ、イスラーム法学のヒラルの分野において秀でていた。また彼は古代人の科学、つまりギリシャ人の哲学と科学における彼の関心を伝えている。

 

経歴

1153年まで、イブン・ルシュドはムワッヒド朝の首都マラケシュにおり、天体観測を行い、ムワッヒド朝の新しい大学を作るという計画を支援した。当時知られていた数学の法則だけではなく、天体運動の物理法則をも発見することを望んでいたが、この研究は成功しなかった。マラケシュ滞在中に、彼は有名な哲学者であり宮廷医であった『ハイイ・ブン・ヤクザーン物語』の著者イブン・トゥファイルに会った可能性がある。イブン・トゥファイルとイブン・ルシュドは、哲学の違いにも拘わらず友情を結んだ。

 

1169年、イブン・トゥファイルはイブン・ルシュドをカリフ・アブー・ヤアクーブ・ユースフに紹介した。歴史家アブドゥルワヒード・アル・マラケシュが伝えるところでは、カリフはイブン・ルシュドに天界は無始に存在していたのか、それとも始まりがあったかを尋ねた。この質問はイスラーム教理的に物議を醸すものであり、安易な答えは危険をもたらすものであることを知っていたので、イブン・ルシュドはそれについて答えなかった。その後、カリフはイブン・トゥファイルとプラトン、アリストテレス、イスラームの哲学者たちの見解について話し合った。このことはイブン・ルシュドを安心させ、イブン・ルシュドは自身の見解をカリフに説明し感銘を与えた。

 

この会見後、1184年カリフの死まで、イブン・ルシュドはアブー・ヤアクーブの支持を得た。カリフがアリストテレスの難解さに不平を言い、その註解をイブン・ルシュドにするように勧めた。これはイブン・ルシュドのアリストテレスの膨大な注釈の始まりであり、1169年にその最初の作品が書かれた。

 

同年、イブン・ルシュドはセビリアの裁判官(カーディー)に任命された。1171年には、コルドバの裁判官となった。彼はシャリーア(イスラーム法)に基づいて事件を裁決し、ファトワー(法的見解)を出した。このような責務や移転にもかかわらず、執筆の割合は増加した。また、この移転から天文学研究を行う機会を得た。1169年から1179年の間に制作された彼の著作の多くは、コルドバではなくセビリアで書かれたものである。1179年に彼は再びセビリアの裁判官に任命された。1182年に彼の友人イブン・トゥファイルの後を継ぎ一時的に宮廷医となり、同年、かつて祖父が保持していたコルドバのマーリク派最高判事(大カーディー)に任命された。

 

イブン・ルシュドの失寵

1184年、カリフ・アブー・ヤアクーブ・ユースフが死去し、アブー・ユースフ・ヤアクーブ・アル・マンスールが後を継いだ。当初、イブン・ルシュドはカリフの支持を得ていたが、1195年にはそれを失った。彼に対して様々な告訴が行われ、コルドバの法廷で裁判にかけられた。法廷は彼の教説を非難し、その著作の焼却を命じ、イブン・ルシュドをルセーナに追放した。初期の伝記作家は、その理由を彼の著作にカリフへの侮辱の可能性を含んでいたとするが、現代の学者はむしろ政治的な理由であるとしている。

 

イスラーム百科事典によれば、カリフはキリスト教国との戦争のためにイブン・ルシュドから離れ、彼に反対していた正統派ウラマーの支持を得たという。イスラーム哲学史家マジド・ファクリーは、伝統的なマーリク学派の法学者による圧力が、その役割を果たしたと述べている。

 

約二年の後、イブン・ルシュドはマラケシュの宮廷に復帰し、再びカリフの信頼を得た。その後、まもなく11981211日に死んだ。彼は当初、北アフリカに埋葬されたが、後に彼の遺体は別の葬儀のためにコルドバに移された。そこには、将来のスーフィー神秘主義の大家である哲学者イブン・アラビーも参列していた。彼は後に、この時の様子を書いている。

 

「遺体を入れた棺が荷馬の片側に載せられており、釣合いを保つために彼の著作が反対側に積まれた。私は身じろぎもせずに立ち尽くしていた。そのとき私と共に、サイイド・アブーサイードの秘書で、法律家、学者であるアブ・ル・フサインとアブ・ル・ハカムが居合わせた。……」

 

息子にアブド・アッラー・イブン・ルシュドがおり、『肉体の中にある素材的知性は作用的知性と結合するか?』という論文を書いた。

2025/05/25

道鏡(3)

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概要

生い立ち

文武天皇4年(700年)、 河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)に弓削櫛麻呂の息子として生まれる。

弓削氏は物部系の名家であるが、彼には天智天皇ゆかりの出自ではないかと言う説も存在する(後述)。

若き日に法相宗の高僧・義淵の弟子となり、華厳宗の名僧良弁からは、当時最高の学問の一つだったサンスクリット語を学び、禅や祈祷に優れた秀才になったという。

 

孝謙上皇の寵を受ける

淳仁朝時代の天平宝字5年(761年)、内道場(皇居内に設けられた仏教の道場)に仕えていた道鏡は孝謙上皇の病を治す役目を拝命し、見事に治癒させ奉ったことで絶大な信頼を賜ることとなる。

その様子を見て危機感を抱いた淳仁天皇や、その後見人である恵美押勝(藤原仲麻呂)は上皇に道鏡の排除を訴るも上皇は聞き入れず、双方はさらに対立を深める。道鏡が少僧都に任じられた天平宝字7年(763年)の翌天平宝字8年(764年)、押勝は遂に乱を起こす。しかし、かねてから押勝の専横ぶりを苦々しく思っていた貴族も多く、押勝の与党以外は上皇方に味方し押勝は敗北し処刑された(藤原仲麻呂の乱)

 

法王になる

淳仁天皇は押勝の反乱に同調しなかったが、孝謙上皇は帝も捕らえ皇位を廃し淡路国に配流し、自ら重祚して称徳天皇となった。道鏡は押勝討伐の褒美として、称徳天皇から太政大臣禅師の地位を下賜された。

天平神護2年(766年)、称徳天皇は道鏡に法王の地位を下賜し、彼を天皇とほぼ互角の地位に引き上げた。道鏡は女帝の期待に応え、中国やインドなどから伝来した仏教理念を重んじた政治を行った。

実家の弓削一門も出世の一途をたどり、弟の弓削浄人は8年間で従二位大納言と言う高位を賜ったという。

 

宇佐八幡宮神託事件

だが、運命は神護景雲3年(769年)に暗転する。その年の5月、大宰帥の弓削浄人と大宰主神(神官)の習宣阿曾麻呂(すげのあそまろ)が「道鏡を皇位につかせたならば、天下は泰平である」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上したのだった。称徳天皇は配下の尼僧・和気法均(広虫)を遣わそうとするも、彼女の虚弱体質を慮って弟の和気清麻呂を派遣した。

 

だが、清麻呂は占いを司る巫女に何度も託宣を求めた結果、僧形の神が下されたという

「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」(※)と言う託宣を言上したため、称徳天皇と道鏡の逆鱗に触れてしまう。そして勅命によって和気姉弟は姓を別部(わけべ)とさせられ、清麻呂は名を穢麻呂(きたなまろ)と改名させられて大隅国へ、法均は還俗させられ俗名を広虫売(ひろむしめ)と改名させられて備後国へ流刑となってしまった。名前を変えるセンスが小学生の意地悪、という意見も当然あるだろうが、この時代は名前には魂が宿るとされていたので、そんな大切な名前を、しかも天皇に変えさせられるというのはかなり重い処罰であった。

※この国は建国以来主君と臣下が決まっており、上下が入れ替わったことは無い。跡継ぎは必ず帝の血筋を据えるべきである。無理を言う奴はさっさと退けろ(意訳)

 

没落

その後も称徳天皇は道鏡を重用するが、神護景雲4年(770年)84日に崩御。その後、藤原永手・魚名・良継・百川らに後押しされ、白壁王が即位し光仁天皇となった。そして、坂上苅田麻呂(田村麻呂の父)が道鏡の姦計を告げたことで排斥されることになる。

称徳帝没後は女帝の陵に仕えていた道鏡たが、光仁天皇の勅命により権利の全てを失い、821日に下野国薬師寺別当に左遷され、宝亀3年(772年)47日に亡くなった。その葬儀は庶人の格式であったと伝えられている。

 

冤罪説

御皇統を揺るがした宇佐八幡宮神託事件の中心人物であったことから反逆者として注目されることも多いが、未だに道鏡の罪は詳細が分かっていない部分も多く、井沢元彦氏などのように実は称徳帝が道鏡に譲位しようとしたという意見も存在する。

称徳帝は母の光明皇太后と違い、母の実家である藤原氏を相当警戒していた節があり、藤原氏を抑えるためにあえて道鏡を重用したという可能性もある。むしろ道鏡が謀略に長けた百川に嵌められたという見方もある。

 

実子のいない称徳帝が徳の高い人物を後継者にと考え、道鏡(彼も子がいないので、有徳者に譲ることとなる)が指名されたとするものである。事実、奈良時代は先進国である唐に追いつくべく邁進した時代であるため、天皇を中国皇帝(有徳の人ならば誰でも即位可能)と同列に捉える考えも存在していた。

簒奪の一件以外にも、彼の悪行を強調する称徳帝との姦通にしても懐疑的な意見も多く、当時は鑑真によって戒律がもたらされ、父・聖武天皇を始めとした帝自身がそれを厳守する体制下であった。その状況で女性、それも時の帝を相手に不埒な所業を行えば重罪は免れないため、不可能だったとする意見も存在する。

 

また、先述したように女帝が崩御された時点でも、経済的軍事的な基盤も持っているのに藤原広嗣・恵美押勝のように反乱(場合によっては易姓革命)を起こすこともせず、左遷に甘んじるなど反逆者にしては弱い部分も見受けられる。処罰の内容も皇位簒奪と言う重罪だが(嵯峨天皇期の薬子の変で処刑された藤原仲成と比較しても)、その割には左遷と言う軽罪で済まされている。弟の弓削浄人と三人の息子は土佐国に流罪になったが桓武天皇の時代に赦免されて、故郷の河内国に戻ることを許された。

 

道鏡にまつわる逸話

天皇の地位を狙ったと言う疑惑から、道鏡は尊王論を唱える人々に国賊として憎まれることが強く、皇国史観の影響が強かった時期(明治時代〜)の日本では、平将門・足利尊氏と並ぶ日本三悪人に数えられている。

日本史上、天皇に代わろうとした人物は三人いたとされる。上記三悪人のうち二人と、あとの一人は尊氏の孫足利義満である。しかし将門は桓武天皇の五世孫であり、新たな皇になる資格があると主張し、義満もまた当時の源氏嫡流(清和天皇の男系男子孫、初代鎌倉殿源頼朝を輩出した河内源氏の支流)足利家の当主として上皇になろうとした。それに対して道鏡は完全な臣下であり、日本史上唯一の存在と言える。

 

なお弓削氏の生まれだが、天智天皇の皇子である志貴皇子が儲けた男子と言う落胤説もあり、それが皇位を与えられる資格があると判断されたという説がある。それであれば光仁天皇の兄弟ということになり、諸説あるものの伝説の域を出ない話が多い。ちなみに志貴皇子の孫が桓武天皇であり、その場合は桓武天皇に他戸親王や早良親王は甥、平城天皇・嵯峨天皇・淳和天皇は大甥になる。

 

一方で出身地の大阪を始め、弓削と名のつく土地(熊本県の弓削神社や愛媛県の弓削島)や流罪になった先の栃木では、彼を英雄・名君視する人も多い。事実、道鏡が主導した政治は仏教の慈愛に基づいた善政が敷かれていたとも言われている。

 

彼には、「膝頭が3つある」といわれるほど巨根の逸話もあったとされる。ドウキョウオサムシと言う昆虫はこの伝承が名の由来とされるが、実際には道饗すなわち道祖神を意味するという意見もある。

上記の話を川柳とした作品もあり、大抵は称徳天皇が道鏡のセフレという設定となっている。「道鏡は座ると膝が三つでき」、「道鏡に根まで入れろと詔」、「道鏡に崩御崩御と称徳言い」など、もはや下品どころか不敬罪レベルの者も存在する。

2025/05/24

イブン=ルシュド(アヴェロエス)(1)

イブン・トファイルの後を受けて登場するのが、アヴェロエスことイブン・ルシュドである。彼の名は、イスラム屈指の大哲学者として西洋哲学史においては、イブン・スィーナーと並んで必出の思想家である。イブン・ルシュドは1126年に、コルドバで生まれ、法学・哲学・医学で名をとどろかしていた。彼は、イブン・トファイルが引退したのを受け、王朝の主侍医として仕えた。カリフは、イブン・ルシュドの哲学に対する知識の優秀さを認め、カリフの保護の下、アリストテレスを註釈するように言われた。このアリストテレスの注釈の業績は非常に優れたものとして、後の西洋哲学に多大な影響を与えた。

 

イブン・ルシュドは、イブン・スィーナーのネオプラトニズム的なアリストテレスを批判し、あくまで純粋な姿のアリストテレスの哲学を見つめようと努めた。この姿勢は、後の世にイブン・ルシュドは、「アリストテレスを神格化した人物」とさえ評されるほどでもあった。無論、アリストテレスの注釈のみならず、彼の独自の思想は、多くが後の西洋哲学史に論争を惹き起こした宇宙無始論や、神の個物知の問題、知性単一説、二重真理説などか有名である。

 

項目の性質上いずれも詳細は割愛するが、西洋哲学者で後の世で彼の反駁者でもあるトマス・アクィナスまで持ち越されたこの宇宙無始論は、宇宙創造の永遠性は認めるものの、時間的な始まりを否定したものである。この思想は神学上では矛盾した考えであるが、イブン・ルシュドによると神学者たちは世界の創造をある一点でのみ考えているが、そこが誤謬であり、世界は常に創造されているものであると、イブン・ルシュドは宇宙(世界)が絶え間なく変動する中に一つの本源的な秩序(つまり真理)を見ていた。これが、イブン・ルシュドの思想のバックボーンにもなっている。

 

これにより独特の知性論、即ち知性単一説を説く。すなわち、知性とは個々人により別の知性を持ち合わせているのではなく、あるのはただ一つ同一で普遍的知性というものであり、これが個々人の間で顕現化したものである。という考え方である。個々人に対する顕現の差はあるが、この知性が向かっていくものは一であるという。人は、個々人の知性が完全に最高度の知性(イスラーム哲学用語で言えば「能動的知性」)と合一したとき、現世において最高の幸福が訪れるという。イブン・ルシュドのこの独特な思想は、アリストテレスの解釈によるものとされているが、ネオプラトニズム的な流出論もみて取れる。

 

これに関連して、イブン・ルシュドは人間の三段階説を唱える。この能動的知性の働きに応じて、最下級の大衆、中間に立つ神学者、そして最上位の哲学者である。彼によれば、中間の神学者のみが「病人」であり、みだりに聖典を解釈し、間違った解釈を施しこれを絶対的な真理として民衆に与えている。しかし、これによって宗教を不必要で害悪なものとして捉えることはできない。民衆はこの宗教を通じて、哲学者自らが直観する真理を、近づきやすい感覚的なものに置き換えられて接することができるからである。しかし、哲学者にはすでに直視し体得することができるため、必要のないものであるという。

 

これは、イブン・ルシュドによれば、哲学と宗教が違うものを意味しているのではない。哲学者は聖典の言葉の矛盾をどこまでも追究し、解釈していくのが聖なる努めであって、一方一般民衆は哲学者と違い知性が不十分なのであるから、知性ではなく信仰という能力によって、この聖典に近づかなくてはならない。民衆は、神学者の誤った解釈に惑わされてはならないという。従って、究極には哲学と宗教とは一致しなくてはならないと説く。このような考えは、後の世にイブン・ルシュドに対して少なからぬ無神論的な評価が下されることにもなるが、これは前のイブン・トファイルの思想にも見られていたことでもある。

 

この知性論と関連して、かの二重真理説の諸端になる説が展開された。これは哲学と宗教を協調させようという試みで、相矛盾する二つの命題が、一方が哲学の原理で真理であれば真理であり、他方も宗教的信条によって真理であれば、真理であるという立場である。しかし、このような立場は、前に触れた人間の三段階説を見てもわかるとおり、結果的に哲学的真理の追求をする立場である哲学が優位に立つようにできており、かえって神学サイドから、批判をあびた。この二重真理説は、ラテン・アヴェロイズムの信奉者によってキリスト教世界にもたらされ、度重なる異端宣告を受けるに到った。

 

イブン・ルシュドは、1198年にモロッコで没した。彼の思想は、アラビア語圏よりもむしろヘブライ語やラテン語に翻訳され、影響を残すことになった。彼の哲学のラテン語への翻訳は、ラテン・アヴィセンナ主義の昂揚をもたらし、パリ禁令の引き金になった。

2025/05/21

道鏡(2)「宇佐八幡宮神託事件」

宇佐八幡宮神託事件は、奈良時代の神護景雲3年(769年)、宇佐八幡宮より称徳天皇(孝謙天皇の重祚)に対して「道鏡が皇位に就くべし」との神託を受けて、弓削道鏡が天皇位を得ようとしたとされ、紛糾が起こった事件である。道鏡事件とも呼ばれる。同年旧暦の101日(117日)に称徳天皇が詔を発し、道鏡には皇位は継がせないと宣言したため、事件の決着がついた。

 

事件の経緯

道鏡の政界進出

弓削道鏡は、孝謙上皇の病を治したことからその信頼を得て出世した。天平宝字8年(764年)、孝謙上皇と対立した最高実力者・藤原仲麻呂が反乱を起こす(藤原仲麻呂の乱)と、上皇は仲麻呂の専制に不満を持つ貴族たちを結集して仲麻呂を滅ぼした。乱後、上皇は仲麻呂の推挙で天皇に立てられた淳仁天皇を武力をもって廃位して淡路国に流刑にすると、自らが天皇に復位する(重祚)ことを宣言した。復位した称徳天皇のもとで道鏡はその片腕となり、天平神護元年(765年)には僧籍のまま太政大臣となり、翌2年(766年)には「法王」となる。こうして、称徳天皇の寵愛を一身に受けた道鏡は、政治にしばしば介入した。

 

だが、反仲麻呂派の貴族の大勢は、あくまでも仲麻呂の政界からの排除のために上皇に協力しただけであり、孝謙上皇の復位や道鏡の政界進出に賛同したわけではなかった。称徳天皇は独身で子供もいなかったため、その後の皇位を誰が継ぐのかが政界の最大の関心事となった。天皇もこの空気を敏感に察しており、淡路に流された廃帝(淳仁天皇)の謎の死、和気王の突然の処刑、天皇の異母妹である不破内親王の皇籍剥奪など皇族に対する粛清が次々と行われていき、皇位継承問題は事実上の禁忌となっていった。

 

2つの神託

神護景雲3年(769年)5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神の習宜阿曾麻呂が、「道鏡を皇位につかせたならば天下は泰平である」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、道鏡は自ら皇位に就くことを望む。称徳天皇は宇佐八幡から法均(和気広虫)の派遣を求められ、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂を派遣した。

和気清麻呂が、宇佐八幡宮大宮司に復した大神田麻呂による託宣を受けた。

 

清麻呂は天皇の勅使として、8月に宇佐神宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしま の すぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出る。与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現。大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は

「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」

という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。

 

道鏡を天皇につけたがっていたといわれる称徳天皇は報告を聞いて怒り、清麻呂を因幡員外介に左遷したのち、さらに「別部穢麻呂(わけべ の きたなまろ)」と改名させて大隅国へ配流し、姉の広虫も「別部広虫売(わけべ の ひろむしめ)」と改名させられて(狭虫(さむし、せまむし)と改名させられたという説もある)処罰された。

 

101日には詔を発し、皇族や諸臣らに対して聖武天皇の言葉を引用して、妄りに皇位を求めてはならない事、次期皇位継承者は聖武天皇の意向によって称徳天皇自らが決める事を改めて表明する。

 

事件決着後

宝亀元年(770年)に称徳天皇が崩御すると、『続日本紀』の記述によると群臣の評議の結果、皇太子を白壁王(後の光仁天皇)とする称徳天皇の「遺宣」が発せられ、道鏡は下野国の薬師寺へ左遷(配流)された。なお、この時(宝亀元年821日)の白壁王の令旨に「道鏡が皇位をうかがった」とする文言があるものの、具体的に道鏡のどのような行動を指すのかには全く触れられていない。

 

解釈

日本の皇室は、歴史の中で幾度も危機を迎えたが、一般に僧・弓削道鏡によるとされるこの皇位継承の企みは、その中でも衝撃的な事件であった。この事件については『続日本紀』に詳細が書かれ、道鏡の政治的陰謀を阻止した和気清麻呂が「忠臣の鑑」として戦前の歴史教育において、しばしば取り上げられてきた。一方で、道鏡が仮に皇位を継承したとしても、「道鏡の次の天皇」についての見通しが立たないという問題があった(道鏡は僧侶であり、子孫が存在しない)。既に江戸時代に本居宣長によって、一連の神話的な事件の流れに懐疑的な説が唱えられ、近年には『続日本紀』の記事には光仁天皇の即位を正当化するための作為が含まれている(神託には、皇位継承については触れられていない)とする説も存在する。

 

道鏡の皇位簒奪疑問説

神託由義宮遷都説

中西康裕は、以下のような解釈を提出している。

 

道鏡が実際に皇位を狙ったとすれば、極刑に該当する重罪であるにもかかわらず、称徳天皇崩御後の下野への流刑は罰としてはあまりにも軽く、浄人ら一族・関係者にも死罪が出ていないことから、皇位継承を企てたという説は「後付」ではないか。

最初の神託は、皇位継承以外の問題(道鏡の故郷である河内国弓削の由義宮遷都は、この年に行われた)に関するものであって、これに乗じた藤原氏(恐らくは藤原永手とその弟の藤原楓麻呂か)が和気清麻呂を利用して、白壁王あるいはその子である他戸王(称徳天皇の父・聖武天皇の外孫の中で唯一、皇位継承権を持つ)を立太子するようにという神託を仕立て上げようとしたことが発覚したために、清麻呂が流刑にされたのではないか。

 

しかし、この神託由義宮遷都説は、根拠が憶測の域を越えるものではないとする見方もある。また、他戸王が立太子後に藤原氏によって廃位されて後に、変死しているという指摘もある。その一方で、称徳天皇や道鏡が清麻呂を流した事で2番目の神託を否認した以上、最初の神託に基づいて道鏡への皇位継承を進めることも可能であった筈なのに、事件以後に全くそうした動きを見せていない事や、逆に藤原氏らの反対派がこの事件を直接の大義名分として天皇や道鏡排除に積極的に動いていない事から、道鏡がこの事件に深く関わっていたとする証拠を見出す事は困難である。

 

また、白壁王の擁立については藤原氏一族は一致していたものの、その次の天皇については早い段階で白壁王の子供のうち、他戸王を推す藤原永手ら北家と、山部王(後の桓武天皇)を推す藤原百川ら式家との間で意見の対立があり、他戸皇太子の廃位も政権の主体が北家から式家に移った直後に発生している事から、北家主導下で光仁擁立→他戸立太子が行われた事と式家への政権移行後に、その廃太子が行われた事には矛盾は無いと考えられている。

 

称徳天皇首謀説

中西説に対して、細井浩志は『続日本紀』が道鏡政権を批判する際には、後日に“不正の暴露”などの形で対になる事実を提示しており、神託事件についてのみ創作を加えたとは考えにくいとして批判した。

 

細井は、そもそも称徳天皇は、淳仁天皇時代から天武天皇系皇統の嫡流であるとする立場を堅持し続けて皇位継承者の選任権を手放さなかったこと、そして事件後の神護景雲310月の詔勅によって、称徳天皇自身が改めて皇位継承者を自らが決める意思を強調していることから、事件の真の首謀者は他ならぬ称徳天皇自身であったとし、指名者が非皇族の道鏡であったという問題点を克服するために宇佐八幡宮の神託を利用したのが事件の本質であったとしている。

 

また細井は、道鏡の左遷はこの時代の典型的な政変であり、清麻呂が光仁朝で重用されなかったのは、彼が元々地方豪族出身でなおかつ称徳天皇の側近層であった以上、光仁天皇側とのつながりは希薄だったと解している。『続日本紀』の記述については、光仁天皇を最終的に皇位継承者として認めた称徳天皇が、神託事件の首謀者であった点をぼかした以外は事実をほぼ忠実に伝えているとしたうえで、群臣による天皇擁立を阻止するために、称徳天皇が最後の段階で自らの手で白壁王を後継としたとしている。

 

後世への影響

神託事件にゆかりのある大阪府八尾市(道鏡の出身地)・岡山県和気町(和気清麻呂の出身地)・大分県宇佐市(宇佐神宮の所在地)は相互に姉妹都市となっている。

2025/05/20

イブン・バーッジャ

イブン・バーッジャ(アラビア語: ابن باجّة Ibn Bājjahأبو بكر محمد ابن يحيى ابن الصائغ ابن باجّة التُجيبي الاندلسي السرقسطي Abū Bakr Muammad ibn Yayā ibn al-ā'igh ibn Bājja al-Tujībī al-Andalusī al-Saraqusī1095? - 1138年)は、スペイン・アンダルシア地方で活躍したイスラム哲学者、政治家。ムラービト朝の宰相としての政務のかたわら、アリストテレス哲学を研究する。イブン・ルシュドを頂点とする西方イスラーム哲学の歴史に現れた最初の哲学者で、神秘主義を排除し、徹底した合理主義を唱え、後のヨーロッパの哲学に大きな影響を与えたイブン・ルシュドの思想の基礎作りを行った重要な人物である。

 

ヨーロッパ語圏では、ラテン語化されたアヴェンパーケ(Avempace)の名でもよく知られている。イブン=トゥファイル、イブン=ルシュドとならぶアンダルス地方の代表的な哲学者、詩人、音楽家である。

 

経歴

生年はよく分かっていないが、1095年という資料もある。サラゴサの生まれ。1118年にセビリアへ来て、ムラービト朝に仕え宰相となった。多くのイスラム哲学者が神秘的な傾向を強め、隠遁的な生活を送るのに対して、イブン・バジャは徹底的に社会に向かって政治の仕事に励んだ。多忙であったのと若くして没しているために、彼の手がけた著作は余り多くない。多くは未完のままである。しかし、優れたアリストテレスの自然学の注解や哲学のみならず、天文学や物理学にまで及んだ幅広い知識は、当時の王朝では有名で「知識の宝庫」とまで称された。その卓越ぶりは、彼の弟子でもあるイブン・トファイルらを通じても知る事が出来る。

 

その思想はアリストテレスの解釈から始まり、合理的で知性に重きを置いた「知性唯一説」を彷彿とさせる思想を説く。これはイブン・ルシュドのほか、後のアルベルトゥス・マグヌスらに多大な影響をあえた。その思想は東方イスラーム哲学とはだいぶ趣が異なり、現実的で合理的な傾向が強く、無神論のレッテルを貼られることも多かった。この傾向は、西方イスラーム哲学全体の特徴にもなった。

 

彼は、哲学的な思索と同じくらい政治家としての実務に力を注いだが、この行為がやがて政敵を多く作り、またその思想的特徴からして無神論者のレッテルも貼られ敵対視されるようになっていった。彼は1138年に没しているが、おそらく何者かに殺されたものといわれている。

 

日本語訳された著書に『孤独者の経綸』、『知性と人間の結合』が、「中世思想原典集成.11 イスラーム哲学」にある。(上智大学中世思想研究所編訳、平凡社、2000年)

 

哲学

彼の時代に、イスラーム哲学・ポスト・ヘレニズム世界は二つの主流に分かれた。東方でイブン・スィーナーを代表し、西方ではイブン・バーッジャが代表した。哲学におけるイブン・バーッジャの作品は不均一で未完成あると見られているが、今日まで残っている彼の作品のどの部分も彼の独創的な思考プロセスを示している。主な著作として、アル・ファーラービーの『有徳都市の見解』の続編として書かれた未完の倫理・政治学論文『孤独者の経綸(Tadbīr al-mutawaḥḥid)』がある。

 

計画外のエジプトへの旅で、イブン・バーッジャはイブン・イマームに『別れの手紙(Risālat al-wadā')』と『知性と人間の結合(Risālat al-ittiāl al-'aql bi al-insān)』を書いた。

これらの作品を理解するのは難しいが、『結合』はイブン・バーッジャの考え方の全体的なポイントを述べている。

 

“人間の究極の目的とは、瞑想と凡そ神秘的な方法の中に能動知性が人間知性と結合することによる”

 

自然学

イブン・バーッジャは、運動の適切な運動学的定義から始め、それを力として解釈する。イブン・バーッジャに従えば、自由落下体を以下のように見なす。重量ある物体が動かされて落下するならば、重量ある物体であるそれと、それを下に動かす『重量』また『形相』『自然本性』があるとする。

 

イブン・ルシュドのアリストテレス『自然学大注解』71テキストにイブン・バーッジャの運動理論に関する議論と、イブン・バーッジャの失われた『自然学注解』7巻からの引用が含まれている。

 

空気や水を媒体として石が落下するという例と関連して、イブン・バーッジャは自然的運動の考えを説明するために、塵の粒子を例に挙げる。塵の粒子は空気中に浮遊し、ゆっくり自然的に落下する。落下する十分な力を持っているのにも拘わらず、塵はそれの下にある空気を移動するには、まだ不十分である。哲学者・中世学者であるアーネスト・A・ムーディは、イブン・バーッジャが『インペトゥス理論』のパラダイムの中で、少なくとも主要な思想家の一人と見なす4つの理由を提示する。

 

イブン・バーッジャによれば、V(速度)=P(仕事率)-M(距離) であれば M=0の時、V=P. これはアリストテレスのV=P/Mに反対する。

この「運動法則」との内的一貫性は、フィロポノス自身の例示したように『インペトゥス理論』の擁護も要求する。

 

イブン・バーッジャの言う『インペトゥス(推進力)』は、現代の用語に置き換えれば重力と言うことができるかもしれない。イブン・バーッジャにとって、本質的に異なる物質の質量間の関係として決定されるのではなく、霊魂のように身体を生命化する自己運動の絶対的な内在力として考えられた。

 

『インペトゥス理論』は、イブン・バーッジャの弟子のイブン・トゥファイルの影響を受けた、アル・ビトルジー(アルペトラギウス)によって支持された。

2025/05/16

道鏡(1)

道鏡(どうきょう、文武天皇4年(700年)? - 宝亀347日(772513日)以前[1])は、奈良時代の僧侶。俗姓は弓削氏(弓削連)。俗姓から、弓削 道鏡(ゆげ の どうきょう)とも呼ばれる。平将門、足利尊氏とともに日本三悪人と称されることがある。ただし、瀧浪貞子・京都女子大名誉教授のように悪人説を否定する者もいる。

 

出自

弓削氏は、弓を製作する弓削部を統率した氏族。複数の系統があるが、道鏡の属する系統(弓削連)は物部氏の一族とされ、物部守屋が弓削大連と称して以降、その子孫が弓削氏を称したという。孝謙上皇が天平宝字8年(764年)に出した宣命では、道鏡が先祖の「大臣」の地位を継ごうとしているから退けよ、との藤原仲麻呂からの奏上があったと語られるが、この「大臣」は大連の地位にあった物部守屋を指すと考えられる。

 

天智天皇の皇子である志貴皇子の落胤とする異説もある。

 

生涯

朝廷での出世

文武天皇4年(700年)に 河内国若江郡(現在の大阪府八尾市)に生まれた。若年の頃に法相宗の高僧・義淵の弟子となり、良弁から梵語(サンスクリット語)を学んだ。禅に通じていたことで知られており、これによって内道場(宮中の仏殿)に入ることを許され、禅師に列せられた。

 

天平宝字5年(761年)、平城宮改修のために都を一時的に近江国保良宮に移した際、病気を患った孝謙上皇(後の称徳天皇)の傍に侍して看病して以来、その寵を受けることとなった。淳仁天皇は常にこれに対して意見を述べたため、孝謙上皇と淳仁天皇とは相容れない関係となった。

 

天平宝字7年(763年)、慈訓に代わって少僧都に任じられ、翌天平宝字8年(764年)には藤原仲麻呂の乱で太政大臣の藤原仲麻呂が誅されたため、道鏡が太政大臣禅師に任ぜられた。翌年には法王となり、仏教の理念に基づいた政策を推進した。

 

道鏡の後ろ盾を受け、弟の弓削浄人が8年間で従二位・大納言にまで昇進するなど、一門で五位以上の者は10人に達した。これに加えて、道鏡が僧侶でありながら政務に参加することに対する反感もあり、藤原氏らの不満が高まった。

 

宇佐神託と左遷

大宰主神(だざいのかんづかさ)の中臣習宜阿曾麻呂が宇佐神宮より、道鏡を天皇の位につければ天下は泰平になるとの神託があったと伝えた。しかし、和気清麻呂が勅使として宇佐神宮に参向した後、この神託が虚偽であることを上申したため、道鏡が皇位に就くことはなかった。

 

神護景雲4年(770年)に称徳天皇が崩御すると、道鏡は葬礼の後も僥倖を頼み称徳天皇の御陵を守ったが、神護景雲4821日、造下野薬師寺別当(下野国)を命ぜられて下向し、赴任地の下野国で没した。道鏡死去の報は、宝亀3年(772年)47日に下野国から光仁天皇に言上された。

 

道鏡は長年の功労により刑罰を科されることは無かったが、親族4名(弟・弓削浄人とその息子の広方、広田、広津)が捕えられて土佐国に配流された(以上、「続日本紀」)。

 

龍興寺(栃木県下野市)境内に道鏡の墓と伝えられる塚がある。

 

風説

孝謙天皇に寵愛されたことから、天皇と姦通していたとする説や巨根説などが唱えられた。『日本霊異記』や『古事談』など、説話集の材料にされることも多い。しかし、これらは平安時代以降になって唱えられるようになったもので、信頼の置ける一次史料はない。

 

江戸時代には「道鏡は すわるとひざが 三つでき」「道鏡に 崩御崩御と 称徳言い」「道鏡に 根まで入れろと 詔(みことのり)」という川柳が詠まれた。また、大阪・奈良の山中に生息するオサムシの一種は、体長に比して非常に大きな交接器を持つことから、道鏡の巨根説にちなんで「ドウキョウオサムシ」と呼ばれる。こうした巨根説について、樋口清之は「道饗」と「道鏡」が混同され、道祖神と結びつけられたために成立したとしていた。また海音寺潮五郎は「史記の呂不韋列伝にある嫪と始皇帝の母后の話が原型」という説を紹介し賛意を示している。

 

熊本市にある弓削神社には

「道鏡が失脚した後この地を訪れて、そこで藤子姫という妖艶華麗な女性を見初めて夫婦となり、藤子姫の献身的なもてなしと交合よろしきをもって、あの大淫蕩をもって知られる道鏡法師がよき夫として安穏な日々を過ごした」

という民話がある。

 

道鏡生誕の地である大阪府八尾市で1980年に立ち上げられた市民団体「道鏡を知る会」が、道鏡は悪僧ではなく仏教の礎を築いた人物として、その業績を見直す活動を行っている。同会は2020年に、称徳天皇が建立した奈良市の西大寺に道鏡の木像を奉納した。2022年、会員数の減少を理由に「道鏡を知る会」は解散したが、顕彰は続いている。

 

所縁の寺院

『続日本紀』には、道鏡が建設に携わった由義寺の記述がある。2017年、大阪府八尾市教育委員会は、市内の東弓削遺跡の七重塔基壇を含む寺院遺構を由義寺のものであると発表している。

2025/05/15

西方イスラーム哲学

歴史的に見れば、西方イスラーム哲学が発展したのはアッバース朝が衰退・滅亡した後の12世紀-13世紀のことである。この時期は、アヴィセンナやガザーリーも既にこの世の人ではなく、ちょうど時期的にも東方イスラームからバトンタッチされた形で西方イスラーム哲学は興隆した。無論、この時期以前にも西方イスラーム世界にも哲学者は存在したが、東方イスラームを伝授したという功績に過ぎなかったと見なされている。

 

西方イスラームでは、知性のあり方、個人と社会の関係や哲学と宗教の関係などにも重点がおかれ、世界の創造や霊魂論に重点を置いた東方イスラーム世界とは一味違った特徴の哲学が展開された。

 

この時期には、アフリカ出身イスラムのムラービト朝、次いでムワッヒド朝が興り、イスラームの勢力は北アフリカを経て、イベリア半島にまで達していた。ムラービト朝は、当初はイスラームの最初の姿を取り戻そうとした保守的な王朝であったが、次第にそれも薄れ思想的には完全に腐敗しきっていた王朝になってしまった。人々はクルアーンをただ暗誦するだけであり、クルアーンに書かれている内容への問いかけや研究は断じてタブーとされた。

 

イスラムにおいて神聖とされていたハディースですら、ゴミ同然に取り扱っていたという。この思想史的にも腐敗しきった王朝は、当時の神学者ガザーリーにも痛烈に批判された。この王朝を打倒し、文化的な復興を掲げた新王朝が誕生した。これが、ムワッヒド朝である。

 

西方イスラームが盛んになったのは、このムワッヒド朝下であったが、彼らも元々思想史的背景に乏しかったので、時のカリフ、アブー・ヤアクーブが哲学・神学双方の発展を王朝の政策の一環として掲げ、発展したという経緯を持つ。従って、西方イスラームの哲学は、アヴィセンナをはじめとした東方イスラームとの連携は薄く、西方イスラームは概ね独自の思想展開をした哲学といってよい。

 

また、ガザーリーによる哲学批判が行われ、哲学が大きな変節点を迎えた東方イスラーム世界とは違い、イベリア半島を中心とした西方イスラーム哲学は、また独自の視点からギリシア哲学を受け入れていた。後述するが、彼らの哲学はその後のイスラム思想の展開では影響を与えず、むしろその成果は中世ヨーロッパの思想の発展に影響を与えた。(ラテン・アヴェロイスト達。これは後述)これは思想展開もさることながら、地理的な位置も多分に影響していると言える。

 

イブン・バーッジャ

西方イスラーム哲学は、イブン・バーッジャ(?-1138年)に始まる。ヨーロッパではラテン語化されたアヴェンパーケという名で知られている。彼は、王朝の宰相を務めていた政治家でもあった。彼は行政に関することでもあるが、仕事のために様々な知識を持ち合わせていた。このような政治家としてのプロフィールも反映して、彼はガザーリーのような神秘主義的な傾向を嫌った。

 

彼は、神秘家が求めるような感性的な能力ではなく、理性的な能力(知性)でこそハック(真理)が捉えられると考えていた。イブン・バーッジャによると、宇宙を構成するものの最下位の存在は感覚的なもので占められており、この存在に知性は存在しない。知性としての人間の存在は、これより高度なものである。そしてより高度なものは、感性的な要素がなくなり純粋に知性的な存在になるという。

 

人間の知性の場合、感覚的なものはなくなるが、さらに上位に能動的な知性があり、人間の知性が最高位ではないという。最上位の存在、つまり人間よりもさらに上位であるが、これは最高に純粋な能動的な知性を持ち合わせた存在であり、この存在は、完全に幸福な存在であるという。この完全な知性との合一こそ、哲学が求めるものに他ならないのであり、この知性として存在(真理あるいは神)一になる時、最高の幸福が訪れるという。

 

このような、人間を含めたあらゆる存在者の中で、永遠的な能動的知性を最高の能力におき、人類の知性(これは個々の存在に還元されるものではなく、知性は人類全体に一なるものとして存在すると考えていた)は、この能動的知性の流出に他ならないという考え方は、「知性唯一説」という形で、後の中世スコラ哲学で大論争となった。これは後に述べるアヴェロエスの考えが基になっているが、起源はイブン・バーッジャといわれている。このよう知性的な神秘主義は感覚的なものを排した傾向が認められ、ガザーリーのようなスーフィズムとは明らかに異質なものであった。

 

また前述のように、この哲学者は政治家としての顔も持っており、俗世の仕事で一杯であり、彼の希望でもあった哲学の仕事に打ち込むことがなかなかできなかった。それも反映して彼は、もっとも理性的な存在としての人間は、俗世から離れて一人孤独な道を歩まねばならないと考えていた。彼の代表作も「孤独者の嚮導」というタイトルである。この俗世(社会)と個人の関係は、次に現れるイブン・トファイルによって明確に意識されている。

 

イブン・トファイル

イブン・トファイルは、イブン・バーッジャの門下生であったと言われている。やや彼の経歴に不明瞭なところがあるが、グラナダ近郊の生まれといわれている。彼は、ムワッヒド朝の侍医としても、腕を振るっていた。彼の哲学思想は、代表作である『ヤクザーンの子ハイイ』に集約されている。これは哲学的な物語作品であり、いわゆる哲学書とは一線を画すものである。ヤクザーンとは、目覚めている者を意味し、すなわち神のことである。ハイイとは、生きている者を意味し、すなわち理性のことである。つまり、このタイトルの書によって哲学界全体を表現しようとする試みなのである。

 

内容の詳細は省略するが、トファイルはこの著作によって、大多数の人間が真理を知らずに暮らしていること、また知ろうとしないで暮らしているということを指摘している。人々は信仰によって救われようとするが、これでは現世的で低級な部分にしか留まることができず真理に到達することはできない。真理を知るという行為は、哲学でしかすることができない。宗教ではこれを象徴的に暗示的に示すことかできず、単なる一手段に過ぎないという。

 

この様に哲学を宗教の上に明確においたトファイルの思想は、当時の宗教家からは反感を買い哲学に対して注意の目を持って見られてしまった。イブン・トファイル自身は、哲学と神学を熱愛していた時のカリフ、アブー・ヤアクーブの寵愛を受けながら、穏健に生涯を送ることができ、1185年に高齢で没した。

2025/05/13

後ウマイヤ朝

後ウマイヤ朝(こうウマイヤちょう、756 - 1031年)は、イベリア半島に興ったウマイヤ朝の再興王朝。756年から1031年までの24(19)の君主のうち16人がウマイヤ家出身であったため、日本では中国史の用語法を借用して「後ウマイヤ朝」と通称される。この呼称は日本だけの慣用であり、史料では「アンダルスのウマイヤ朝」、「コルドバのウマイヤ朝」などと呼ばれる。カリフ称号を用いた929年から1031年までについては、コルドバ・カリフ国 (Caliphate of Córdoba) 、西カリフ国、西カリフ帝国とも呼ばれる。

 

歴史

ウマイヤ朝の再興

750年のアッバース革命でアッバース朝がウマイヤ朝を滅ぼすと、アッバース朝の残党狩りは執拗を極めた。ただ一人生き残ったウマイヤ家の王族アブド・アッラフマーン1世は、身につけていた貴金属を逃走資金に変え、アフリカ大陸に入りアフリカ西北部のベルベル人に保護された。彼の母親はベルベル人であり、その容姿を受け継ぎ金髪で瞳が緑色であった彼はベルベル人に温かく迎えられたばかりか、ウマイヤ朝再興の足がかりを築くことができた。彼はジブラルタル海峡を越えてアンダルスに逃れ、756年にムサラの戦いに勝利してコルドバにウマイヤ朝を再興した。

 

アブド・アッラフマーン2世(在位:822 - 852年)の治世には、バグダードからコルドバの宮廷によばれたズィルヤーブはウードの演奏や歌手として名声を博し、バグダードの優雅な文化をコルドバにもたらした。彼がもたらしたものは、例えばフランス料理の原型となった料理コース、ガラス製の酒杯、衣服を季節ごとに着替える習慣、髪の手入れ、白髪抜き、歯磨きの使い方などである。

 

コルドバは洗練した文化の都ともなり、クリスタル・ガラスの製法は9世紀後半にコルドバで生まれ、金銀細工の技術も発達した。

 

アッバース朝に匹敵する繁栄

8代目のアミール・アブド・アッラフマーン3世の統治の下で、後ウマイヤ朝は経済的発展を成し遂げた。929年にアブド・アッラフマーン3世はカリフを称し、イスラム世界ではアッバース朝と後ウマイヤ朝の二人のカリフが並立することになった。アブド・アッラフマーン3世とその息子ハカム2世の下で文化的な発展を経て、後ウマイヤ朝はアッバース朝に匹敵するほどの繁栄の時代に達した。

 

10世紀の地理学者イブン・ハウカルは、当時(アブド・アッラフマーン3世治世期)のコルドバはバグダードには敵わなかったが、エジプト、シリア、マグリブのどの都市よりも大きかったと伝えている。10世紀のコルドバは世界でも有数の大都会であり、史料によると人口は50万を下らなかったと推測されており、西欧で最大の都市であった。10世紀半ば、コルドバの西北7キロメートルの小高い丘にザフラー宮殿(花の宮殿の意味)が建造され、大理石だけでも4000本が使われ、宮中には40万巻の書籍が集められた。統治下で、さまざまな宗教や民族が共存しえたことは、この王朝の繁栄に大きな貢献をもたらした。

 

続くヒシャーム2世(在位:976 - 1009年/1010 - 1013年)の時代には、宰相でかつ名将であったアル・マンスール・ビッ・ラーヒ(アラビア語: المنصور بالله al-Manūr bi-llah、スペイン語: Almanzor)が、985年にカタルーニャまで攻め込み、997年にはガリシアの一部まで占領する勢いを示した。

 

一部のキリスト教徒は移住したが、大部分はイスラムの支配下で信仰の自由を許されて暮らした。ユダヤ教徒も、西ゴート王国時代には冷酷な扱いを受けることが多かったが、イスラム支配下では自由と繁栄を享受した。また、イスラム文明が極めて高度な文明であったので、それを土着のイベリア人が進んで受け入れたことも、安定した社会構造を形成した理由だろう。

 

衰退から滅亡へ

アル・マンスール・ビッ・ラーヒが1002年に死ぬと、息子たちの宰相位争いや、アラブ系の豪族とベルベル系の豪族によるカリフ位の擁立合戦、継承争いで29年の間に10人のカリフが即位するという内憂によって衰退し、アラゴン王国・カスティーリャ王国に圧迫されるという外患(レコンキスタ)の末、1031年に最後のカリフ、ヒシャーム3世の廃位、追放が大臣たちによる「評議会」によって決定されて滅亡した。

 

影響

追放されたヒシャーム3世は、トゥデラの太守であったフード家のスライマーン・イブン・フードによって庇護され、レリダに住まいし1036年に死亡した。以後は各地の豪族たちが独立し、26とも30とも言われるタイファと呼ばれる諸侯たちとなって分裂割拠する時代となる。

2025/05/12

カンタベリーのアンセルムス(2)

イングランド教会の首都大司教の叙任問題は、その後2年にわたって続いた。

1095年、国王はひそかにローマへ使いを出し、教皇ウルバヌス2世を認める旨を伝え、パリウムを持った教皇特使を送ってくれるよう教皇に頼んだ。そして、ウィリアム2世は自らパリウムを授与しようとしたが、聖職者叙任という教会内の事柄に俗界の王権が入り込むことを強硬に拒んだアンセルムスは、国王から受け取ることはなかった。

 

109710月、アンセルムスは国王の許可を得ずにローマへ赴いた。怒ったウィリアム2世はアンセルムスの帰還を許さず、直ちに大司教管区の財産を押さえ、以降彼の死まで保ち続けた。ローマでのアンセルムスはウルバヌス2世に名誉をもって迎えられ、翌年のバーリにおける大会議にて、正教会の代表者らの主張に対抗して、カトリック教会のニカイア・コンスタンティノポリス信条で確認された聖霊発出の教義を守る役に指名された(大シスマは1054年の出来事である)。

 

また、同会議は教会の聖職者叙任権を再確認したが、ウルバヌス2世はイングランド王室と真っ向から対決することを好まず、イングランドの叙任権闘争は決着を見ずに終わった。ローマを発ち、カプア近郊の小村で時を過ごしたアンセルムスは、そこで受肉に関する論文『神はなぜ人間になられたか』を書き上げ、また、翌1099年のラテラノ宮殿での会議に出席した。

 

1100年、ウィリアム2世は狩猟中に不明の死を遂げた。王位を兄のロバートが不在の間に継承したヘンリー1世は、教会の承認を得たいがために、ただちにアンセルムスを呼び戻した。しかし、先代王と同じく叙任権を要求したヘンリー1世とアンセルムスは、再び仲たがいをすることとなる。国王は教皇に何度かこれを認めようと仕向けたものの、当時の教皇パスカリス2世が認めることはなかった。

 

この間、11034月から11068月まで、アンセルムスは追放の身にあった。そしてついに1107年、ウェストミンスター教会会議にて、国王が叙任権の放棄を約束し和解がもたらされた。このウェストミンスター合意は、後の聖職者叙任権闘争に幕を下ろす1122年のヴォルムス協約のモデルとなる。こうしてアンセルムスは、長きにわたった叙任権闘争から解放されたのである。

 

彼の最後の2年間は、大司教の職務に費やされた。カンタベリー大司教アンセルムスは、1109421日に死亡した。彼は1494年に教皇アレクサンデル6世によって列聖され、また1720年には学識に優れた聖人に贈られる教会博士の称号を得た。

 

思想

アンセルムスがスコラ学の父と呼ばれる所以は、すでに処女作『モノロギオン』に見て取れる。「独白」を意味するこの論文で、彼は神の存在と特性を理性によって捉えようとした。それは、それまでの迷信にも似たキリスト教の威光をもって神を論ずるものとは一線を画した。

 

もうひとつの主要論文『プロスロギオン』は、構想当初「理解を求める信仰」と題されていたが、これは彼の神学者、スコラ学者としての姿勢を特徴づけるものとして、しばしば言及される。この立場は通常、理解できることや論証できることのみを信じる立場ではなく、また、信じることのみで足りるとする立場でもなく、信じているが故により深い理解を求める姿勢、あるいはより深く理解するために信じる姿勢であると解される。

 

神の存在証明

アンセルムスは、神の本体論的証明(神の存在証明)でも著名である。後にイマヌエル・カントによって存在論的な神の存在証明と呼ばれた。神の存在証明は、『プロスロギオン』の特に第2章を中心に展開されたもので、おおよそ以下のような形をとる。

 

神は、それ以上大きなものがないような存在である。

一般に、何かが人間の理解の内にあるだけではなく、実際に(現実に)存在する方が、より大きいと言える。

もしも、そのような存在が人間の理解の内にあるだけで実際に存在しないのであれば、それは「それ以上大きなものがない」という定義に反する。

そこで、神は人間の理解の内にあるだけではなく実際に存在する。

 

バートランド・ラッセル『西洋哲学史(1946年)』では、次のように紹介されている。

まず、神を可能な限り最も偉大な思惟の対象と定義する。

さて思惟のある対象が存在しないとすれば、それとまったく類似してかつ存在するいま一つの対象は、より偉大である。

したがって、あらゆる思惟の対象のうち、最も偉大なものは存在しなければならない。なぜなら、それがもし存在しないとすれば、それ以外になお偉大なる対象が可能となるからである。

したがって神は存在する。

 

この証明は、トマス・アクィナスによって排斥され、デカルトによって容認され、カントはそれを反駁し、ヘーゲルはそれを復位させ、20世紀の現代論理学における「存在」概念の分析によって、本体論的証明が妥当でないことが証明された。しかし、しかし、本体論的証明が論駁されたからといって、神の存在が真ではないと想定する根拠にはならない、とラッセルは述べている。

2025/05/08

カンタベリーのアンセルムス(1)

カンタベリーのアンセルムス(羅: Anselmus Cantuariensis, 1033 - 1109421日)は、中世ヨーロッパの神学者、かつ哲学者であり、1093年から亡くなるまでカンタベリー大司教の座にあった。カトリック教会で聖人。日本のカトリック教会ではカンタベリーの聖アンセルモ、聖アンセルモ司教教会博士とも呼ばれる。初めて理性的、学術的に神を把握しようと努めた人物であり、それゆえ一般的に彼を始めとして興隆する中世の学術形態「スコラ学の父」と呼ばれる。神の本体論的(存在論的)存在証明でも有名。

 

生涯

神聖ローマ帝国治下のブルグント王国(アルル王国)の都市アオスタで誕生した。アオスタは今日のフランスとスイス両国の国境と接する、イタリアのヴァッレ・ダオスタ州に位置する。父のガンドルフォはランゴバルドの貴族であり、また母のエルメンベルガもブルグントの貴族の出自であり、大地主であった。

 

父は息子に政治家の道を歩ませたかったが、アンセルムスはむしろ思慮深く高潔な母の敬虔な信仰に大いに影響された。15歳の時、修道院に入ることを希望したが、父の了承を得ることはできなかった。失望したアンセルムスは心因性の病を患い、その病から回復して一時の間、彼は神学の道をあきらめ放埓な生活を送ったといわれる。この間に彼の真摯な気持ちを理解してくれていた母が亡くなったため、アンセルムスはこれ以上父の激しい性格に我慢ならなくなった。

 

1056年(もしくは1057年)に家を出たアンセルムスは、ブルグントとフランスを歩いてまわった。その途中、ブルグントにあるベネディクト会クリュニー修道院、その系列のル・ベック修道院の副院長を当時務めていたランフランクスの高名を聞きつけ、アンセルムスは同修道院のあるノルマンディーに向かう。そして滞在していた1年間の内に、同修道院で修道士として生きることを決意する。アンセルムスが27歳の時のことである。また、幼い頃からすばらしい教育を受けてきたアンセルムスの才能が開花するのは、この時からである。

 

3年後の1063年、ランフランクスがカーンの修道院長に任命された時、アンセルムスはル・ベック修道院の副院長に選出された。彼はその後15年間にわたってその座にあり、1078年、ル・ベック修道院の創設者であり初代修道院長であるヘルルイヌスの死によって、アンセルムスは同修道院長に選出された。彼自身は積極的に推し進めたわけではないが、アンセルムスの下で、ベックはヨーロッパ中に知られる神学の場となった。この期間に、アンセルムスの最初の護教論文『モノロギオン』(1076年)と『プロスロギオン』(1077-78年)が書かれた。また、問答作品『真理について』、『選択の自由について』、そして『悪魔の堕落について』が書かれたのも、この時期である。

 

その後、アンセルムスは師であったランフランクスを継いでカンタベリー大司教となるが、当時はオットー1世の「オットーの特権」(963年)、ハインリヒ3世の教会改革運動を巡るいざこざ(1030-40年代)を始まりとし、有名なカノッサの屈辱(1077年)で最盛期を迎える聖職者叙任権闘争の時代であった。イングランドも例外ではなく、イングランド教会の長であるカンタベリー大司教を始めとする聖職者の座を、王室と教皇、どちらの権威を持って叙任するのかという問題へ発展してゆく。これは、ただ単に名誉的な問題ではなく、高位聖職者は司教管区や修道院を元として、封土(不動産とそこに基づく財産の所有)が慣習として認められていたため、政治的、実質的問題となるのであった。このようにして、イングランドにおける教会の代表者アンセルムスは、イングランド国王たちと長きに渡る闘争に巻き込まれてゆくのである。

 

ノルマンディー公であったギヨーム2世は、1066年にイングランド国王ウィリアム1世として即位し、ノルマン朝を興す。ノルマンディー公として、ウィリアム1世はル・ベック修道院の保護者であり、また同修道院がイングランドに広大な地所を所有するにいたり、アンセルムスは時折同地を訪れるようになる。彼の温厚な性格とゆるぎない信仰精神により、アンセルムスは同地の人々に慕われ尊敬されるにいたって、当時カンタベリー大司教であったランフランクスの後継者だと当然のように思われていた。

 

しかし1089年、その偉大なるランフランクスの死に際して、(教会に対する)王権の拡大を狙っていた当時のイングランド国王ウィリアム2世は、司教座の土地と財産を押さえ新たな大司教を指名しなかった。約4年後の1092年に、チェスター卿ヒューの招きによって、アンセルムスはしぶしぶ(というのも、その様な態度を明らか様にしていた同王の下で、大司教に任命されるのを恐れたから)イングランドへ渡った。4ヶ月ほどチェスターにおける修道院設立などの任務により同地に拘束された後、アンセルムスがノルマンディーへ帰ろうとした時、イングランド王によって引き止められた。

 

翌年、ウィリアム2世は病に倒れ、死が近づいているように思えた。そこで、大司教を任命しなかった罪の許しを欲したウィリアム2世は、アンセルムスをしばらくの間空位となっていたカンタベリー大司教の座に指名した。いざこざがあったものの、アンセルムスは司教座を引き受けることを納得した。

 

ノルマンディーでの職務を免ぜられた後、アンセルムスは1093124日に司教叙階を受けた。彼は大司教座を引き受ける代わりに、イングランド王に次の事項を要求した。すなわち、

 

    没収した大司教管区の財産を返すこと

    大司教の(宗教的な)勧告を受け入れること

    対立教皇クレメンス3世を否認し、ウルバヌス2世を教皇として認めること

 

である。

 

自分の死が近いと思っていたウィリアム2世はこれらのことを約束するが、実際には、最初の事項が部分的に認められたのみであり、また、3番目の事項はアンセルムスとイングランド王を険悪な関係に追い込むことになる。

 

幸か不幸かウィリアム2世は病の床から回復して、アンセルムスの大司教座の見返りに多大な財産の贈呈を要求した。これを聖職売買と見たアンセルムスはきっぱりと断り、これに怒った国王は復讐に出る。教会の決まりとして、カンタベリー大司教などの首都大司教として聖別されるには、パリウムを直接、教皇の手から授与されなくてはならない。したがって、アンセルムスはパリウムを受け取りにローマへ行くことを主張したが、これは実質的に王室が教皇ウルバヌス2世の権威を認めることとなるため、ウィリアム2世はローマ行きを許さなかった。

2025/05/04

ガザーリー(3)

スーフィズム

ガザーリーが1106年から1109年の間に著した自伝『誤りから救うもの』の大部分は、ガザーリー自身の内面の記述に割かれ、スーフィズムの教えが信仰の確信を約束することが示されている。多くの研究者は、1095年から始まる遍歴の旅の動機を『誤りから救うもの』の記述に従ってスーフィズムへの回心と受け止めている。

 

『誤りから救うもの』で述べられた動機に疑問を呈する立場の人間には、旅の動機を名声欲に、自伝の執筆の動機を離職の正当化とした『ガザーリーの告白』の著者アブドッダーイム・バカリー、多くのセルジューク朝の要人を暗殺したニザール派の刺客から逃れるためだと考えたファーリド・ジャブルらが挙げられる。ダンカン・ブラック・マクドナルドは、ガザーリーの生涯を野心と出世欲に満ちた利己的な人間でありながらも内面では葛藤が起きていた前半生、スーフィーとしての修行を経て性格が清められ、イスラム共同体の信仰の復興のために尽力した後半生に大別している。

 

回心した後のガザーリーは、イスラーム法学をスーフィズムの観点から再検討し、『宗教諸学の再興』『神名注釈における高貴な目的』『光の壁龕』などの作品で日常の生活、来世で神に会うための準備について議論を重ねている。ガザーリーはスーフィズムの修行法を整理し、日々の生活の中で神への賞賛やコーランの特定の箇所を唱える日常の修行(ウィルド)、集中して短い章句を暗誦することで神との合一を目指すズィクルの二つの修行方法を紹介している。恍惚状態に達するための歌、舞踏、音楽を伴う暗誦はサマーと呼ばれ、多くのスーフィズムの理論家によって是非が議論されていたが、ガザーリーは修行を積んだ人間に限定してサマーの有用性を認めていた。

 

ガザーリーは神を人間の愛の対象と考え、完全な存在である神を唯一の愛の対象と認めていた。ガザーリー以前の神学者の大多数は、神は人間の愛の対象となりうる「人間が認識できる」存在ではなく、人間は神と直接・間接的に個人と関係を持たない全く異質な存在であるため愛が成立しないことから、「神への愛」を神への服従の比喩として見なすことが主流になっていた。こうした通説に対して、ガザーリーは服従は愛の結果生じる行動であり、愛は「認識する」人間の側に主体があり、「認識される」愛を受ける側に主体は無いと説明した。

 

ガザーリーの唱える愛は、自己・あるいは自己と関連のある人間の生命の維持による愛、完全であると認めたものに向ける愛、前2つのいずれにも該当しない人物に対する不可思議な愛、3種の本質が異なる愛に分類される。そして、3種類の愛を同時に体験する至上の愛を人間が神に向ける愛と定義し、神への愛は造物主である神に属するもの全てに拡大した。12世紀から13世紀にかけて活躍したイブン・アラビーは、神と人間の合一を男女間の恋愛関係に例えているが、ガザーリーは二つの存在を類似点が存在しないものと見なし、神を人間から隔絶された存在と位置付けた。

 

ガザーリー以前のスーフィーの中には、イスラーム法の遵守よりも神との合一体験を重視し、飲酒、同性愛といった反イスラーム法行為や反体制的姿勢をとる人間、神との合一体験によって直接得られる知識を、コーランとハディースを通して間接的に得ているウラマーの知識よりも上位に置く考えを持った人間が存在していた。こうしたスーフィーの行動と思想は体制派のウラマーや一般人から快く思われず、スーフィーとウラマーは険悪な関係にあった。ガザーリーは、信仰の確信は神との合一体験によって得られると考えながらも、同時にイスラーム法を遵守した生活の必要性を唱える中間的な姿勢を示した。

 

ガザーリー、クシャイリーらが出したスーフィズムの理論はスーフィーとウラマーの和解に貢献し、スーフィーの集団は公に活動することができるようになった。ガザーリーのスーフィズムの根幹にある愛の思想の理解、修行法の整理、スーフィーとウラマーの対立の融和によって、スーフィズムの思想は多数の人間に受容されるところとなり、スーフィズムを取り入れたスンナ派の思想が確立された。

 

哲学者アルガゼル

ガザーリーが著した哲学の解説書である『哲学者の意図』は、イブン・スィーナーの思想の入門書として最も優れたものであり、ラテン語に翻訳されて中世ヨーロッパのスコラ派哲学者たちの間で広く読まれた。しかし、哲学の批判書である『哲学者の自己矛盾』はヨーロッパ世界には伝わらず、ヨーロッパに伝わった『哲学者の意図』の写本には執筆の目的が述べられた序文と後書きが欠落していたため、ヨーロッパ世界ではガザーリーは「哲学者」アルガゼルとして知られるようになる。中世ヨーロッパで参照されたガザーリーの著作は哲学の分野に限られ、参照されたテキストの多くに不完全なラテン語訳本とヘブライ語訳本が使われていた。

 

19世紀に入ると、アラビア語原典からの翻訳とそれらの研究が始まり、ガザーリーの思想の全体像を明らかにしようとする試みがなされ、『哲学者の意図』と『哲学者の自己矛盾』をはじめとする他の著作の記述に相違点・矛盾点が発見されたが、なおも『哲学者の意図』はガザーリー自身の思想の現れであると誤解され続け、研究者たちはより困惑する。1859年に『ユダヤとアラビア哲学論集』を発表したザロモン・ミュンクによって写本の序文の欠落が初めて指摘され、ガザーリーは哲学に批判的な姿勢を取っていたことが明らかにされた。しかし、ミュンクの説が発表された後も「哲学者アルガゼル」像は完全に払拭されなかった。

 

ダンカン・ブラック・マクドナルドは、1899年に公刊した論文「宗教体験と意見を中心としてみたガッザーリーの生涯」において、ガザーリーの史的意義を以下の4点に集約し、特に一番目と三番目の功績の重要性を評価した。

 

    スコラ学的神学研究から、コーラン(神の啓示)・ハディース(預言者の伝承)への回帰の促進

    説教、道徳的訓戒への畏怖、恐怖の再導入

    イスラーム社会内でのスーフィズムの地位の確立

    哲学、哲学的神学の内容を一般の人間が理解できる程度に構築した

 

マクドナルドの研究は、後続の研究者に正統的なガザーリーの解釈と見なされ、彼のガザーリー評は一般の認めるところとなっている。1990年代に入り、従来のガザーリーのものとされる著作あるいは著作の一部の記述を抜き出して、そこに見られる哲学思想を論じる手法から脱し、著作全体を俯瞰してその背後にあるイブン・スィーナーの影響を考察する研究が目立ち始めた。