アブー・アル=ワリード・ムハンマド・イブン・アフマド・イブン・ルシュド(アラビア語: أبو الوليد محمد بن أحمد بن رشد abū al-walīd muḥammad ibn ʾaḥmad ibn rušd, 1126年4月14日 - 1198年12月10日)は、スペインのコルドバ生まれの哲学者、医学者。膨大なアリストテレス注釈を書いたことで知られる。ムワッヒド朝のもとで君主の侍医、後にはコルドバのカーディー(裁判官)となった。1197年にはムワッヒド朝の君主ヤアクーブ・マンスールが哲学を禁止したことでイブン・ルシュドは追放され、その後モロッコのマラケシュで亡くなっている。
アヴェロエス (ラテン語:
Averroes ラテン語: [aˈu̯erroeːs] 英語:
[əˈvɛroʊiːz]) の名でよく知られている。アラブ・イスラム世界におけるアリストテレスの注釈者として有名。また、医学百科事典を著した。神秘主義者ガザーリーの哲学批判書『哲学者の矛盾』に対して、哲学者の立場から『矛盾の矛盾』を執筆して批判に反駁を加えている。
彼の著作は、中世ヨーロッパのキリスト教のスコラ学者によってラテン語に翻訳され、ラテン・アヴェロエス派を形成した。
ラッファエッロ・サンツィオの代表作であるアテナイの学堂に、ギリシア哲学者の一人として描かれている。
伝記
早年
イブン・ルシュドは、1126年にコルドバで生まれた。彼の家族は、宗教と法の分野で知られていた。祖父アブル・ワリード・ムハンマド・イブン・ルシュド(本項のイブン・ルシュドと区別して、イブン・ルシュド・ジャッドとも)はコルドバの最高裁判官であり、ムラービト朝時代にはコルドバの大モスクのイマームであった。父アブル・ハーシム・アフマドは祖父ほどには高名ではなかったが、1146年のムラービト朝がムワッヒド朝に代わるまで同じく最高判事であった。
伝統的な伝記によれば、イブン・ルシュドの教育はハディース、フィクフ(法学)、医学、神学から始まり優れていた。彼はアル・ハーフィズ・アブー・ムハンマド・イブン・リズクの下でマーリク学派の法学とハディースを、祖父の弟子であったイブン・バシュクワルと共に学んだ。彼の父はイマーム・マーリクの高名な法学著作であるムワッターを教えた。またアブー・ジャアファル・ジャリーム・ル・タジャイルの下で医学を学び、おそらくそこで哲学を学んだ。
彼はまた、哲学者イブン・バーッジャ(ラテン名アヴェンパーケ)の著作も知っており、個人的に知り合いであったか、それとも彼の指導を受けたのかもしれない。彼はセビリアで定期的に哲学者、医師、詩人の集会に参加し、イブン・トゥファイルとイブン・ズフル、将来のカリフ、アブー・ユースフ・ヤアクーブが出席していた。他にも、後に彼が批判するアシュアリー神学派のカラーム神学を研究した。13世紀の伝記作家イブン・アル・アッバールは、彼はハディースよりも法とその原理に興味を持っていたと述べ、イスラーム法学のヒラルの分野において秀でていた。また彼は古代人の科学、つまりギリシャ人の哲学と科学における彼の関心を伝えている。
経歴
1153年まで、イブン・ルシュドはムワッヒド朝の首都マラケシュにおり、天体観測を行い、ムワッヒド朝の新しい大学を作るという計画を支援した。当時知られていた数学の法則だけではなく、天体運動の物理法則をも発見することを望んでいたが、この研究は成功しなかった。マラケシュ滞在中に、彼は有名な哲学者であり宮廷医であった『ハイイ・ブン・ヤクザーン物語』の著者イブン・トゥファイルに会った可能性がある。イブン・トゥファイルとイブン・ルシュドは、哲学の違いにも拘わらず友情を結んだ。
1169年、イブン・トゥファイルはイブン・ルシュドをカリフ・アブー・ヤアクーブ・ユースフに紹介した。歴史家アブドゥルワヒード・アル・マラケシュが伝えるところでは、カリフはイブン・ルシュドに天界は無始に存在していたのか、それとも始まりがあったかを尋ねた。この質問はイスラーム教理的に物議を醸すものであり、安易な答えは危険をもたらすものであることを知っていたので、イブン・ルシュドはそれについて答えなかった。その後、カリフはイブン・トゥファイルとプラトン、アリストテレス、イスラームの哲学者たちの見解について話し合った。このことはイブン・ルシュドを安心させ、イブン・ルシュドは自身の見解をカリフに説明し感銘を与えた。
この会見後、1184年カリフの死まで、イブン・ルシュドはアブー・ヤアクーブの支持を得た。カリフがアリストテレスの難解さに不平を言い、その註解をイブン・ルシュドにするように勧めた。これはイブン・ルシュドのアリストテレスの膨大な注釈の始まりであり、1169年にその最初の作品が書かれた。
同年、イブン・ルシュドはセビリアの裁判官(カーディー)に任命された。1171年には、コルドバの裁判官となった。彼はシャリーア(イスラーム法)に基づいて事件を裁決し、ファトワー(法的見解)を出した。このような責務や移転にもかかわらず、執筆の割合は増加した。また、この移転から天文学研究を行う機会を得た。1169年から1179年の間に制作された彼の著作の多くは、コルドバではなくセビリアで書かれたものである。1179年に彼は再びセビリアの裁判官に任命された。1182年に彼の友人イブン・トゥファイルの後を継ぎ一時的に宮廷医となり、同年、かつて祖父が保持していたコルドバのマーリク派最高判事(大カーディー)に任命された。
イブン・ルシュドの失寵
1184年、カリフ・アブー・ヤアクーブ・ユースフが死去し、アブー・ユースフ・ヤアクーブ・アル・マンスールが後を継いだ。当初、イブン・ルシュドはカリフの支持を得ていたが、1195年にはそれを失った。彼に対して様々な告訴が行われ、コルドバの法廷で裁判にかけられた。法廷は彼の教説を非難し、その著作の焼却を命じ、イブン・ルシュドをルセーナに追放した。初期の伝記作家は、その理由を彼の著作にカリフへの侮辱の可能性を含んでいたとするが、現代の学者はむしろ政治的な理由であるとしている。
イスラーム百科事典によれば、カリフはキリスト教国との戦争のためにイブン・ルシュドから離れ、彼に反対していた正統派ウラマーの支持を得たという。イスラーム哲学史家マジド・ファクリーは、伝統的なマーリク学派の法学者による圧力が、その役割を果たしたと述べている。
約二年の後、イブン・ルシュドはマラケシュの宮廷に復帰し、再びカリフの信頼を得た。その後、まもなく1198年12月11日に死んだ。彼は当初、北アフリカに埋葬されたが、後に彼の遺体は別の葬儀のためにコルドバに移された。そこには、将来のスーフィー神秘主義の大家である哲学者イブン・アラビーも参列していた。彼は後に、この時の様子を書いている。
「遺体を入れた棺が荷馬の片側に載せられており、釣合いを保つために彼の著作が反対側に積まれた。私は身じろぎもせずに立ち尽くしていた。そのとき私と共に、サイイド・アブーサイードの秘書で、法律家、学者であるアブ・ル・フサインとアブ・ル・ハカムが居合わせた。……」
息子にアブド・アッラー・イブン・ルシュドがおり、『肉体の中にある素材的知性は作用的知性と結合するか?』という論文を書いた。
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