2026/01/30

菅原道真(9)

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死後と神格化

菅原道真が大宰府で没した直後から、都では天変地異が相次ぎ、災害、関係者の非業の死などが重なった。まず追放した張本人の藤原時平が若くして急死し、その後も皇族や貴族が相次いで急死する。当時は、政争に敗れて非業の死を遂げた人物が「御霊」=怨霊となって祟りをなすという「御霊信仰」が浸透していたため、道真が怨霊となって祟りを成したと恐れた朝廷は、道真の罪を許して右大臣に戻し、正二位を贈った。

 

しかし異変は止まらず、ついに延長8年(930年)、天皇が政務を執る宮殿である清涼殿に落雷が起こり、稲妻が柱を直撃、隣の紫宸殿にも電撃が走った(清涼殿落雷事件)。大納言・藤原清貫をはじめとして清涼殿だけで2名死亡、紫宸殿でも5名が死亡する大惨事となった。当時の天皇・醍醐天皇は被害を免れたものの、このすさまじい光景(文献によれば、藤原清貫は衣類に火がついた上に胸を裂かれて即死、近くにいたとされる平希世も顔面を焼かれて虫の息と、まさに地獄絵図であった)に衝撃の余り体調を崩され、3ヶ月後に崩御した。

 

余談だが、この時道真の領地であった桑原町(現在の京都市中京区、丸太町通の京都地裁前の一部区間に相当)は落雷の被害を免れたとの言い伝えもあり、雷除けに唱えられる「くわばらくわばら」という呪文は、これに由来するという説もある。

 

この事件と、死亡した藤原清貫が左遷後の道真の監視役であったことなどから、ただでさえ怨霊の仕業だとして震えていた朝廷や人々の恐怖は頂点に達した。このため、人々により雷神=天神に結びつけられ、「天神様」として神格化の上祀られることとなった。また朝廷でも事件から約60年後に正一位と左大臣とし、さらに太政大臣と次々に贈位して、道真の魂を鎮めることに必死となった。

 

これには、時平が早世して子孫が振るわなかった事と、道真と同じく宇多天皇寄りであったうえに、妻の源順子(宇多天皇の養女)が道真の姪であった可能性もある藤原忠平(時平の弟)の子孫が繁栄した事もあるとされる。

 

さらに『将門記』には、道真が八幡神に取り次いで平将門を新皇にさせたという。それほどまでに「道真=怨霊」のイメージは強かった。もっとも、大宰府にいた本人は左遷されたことや醍醐天皇・時平に対して、恨み辛みを述べてはいなかったという。

 

その後、御霊信仰が次第に衰退するにつれて、道真の本来の性格の方が重視されて学問の神として信仰されるようになり、現在に至っている。

 

祟りが恐れられた菅原道真の霊をやすめるため、都の北野の地に社殿が造営されたのであるが、後世それが発展し現在の「北野天満宮」となっているのである。その他各地の天満宮、天神社に祭られている。

 

神号は天満大自在天神、日本太政威徳天、火雷天神など。

 

また「学問の神」としてのみならず、古来道真は天子(天皇)に対する忠義の心によって、多くの人々に慕われているのである。

 

道真が赴任した讃岐すなわち現在の香川県には、道真が善政の一環として行った雨乞いの儀式を元とした滝宮の念仏踊りが今も残り、現地には「滝宮天満宮」が建てられた。道真の訃報に接した讃岐の民は、その死を悼み魂を送り天地の神となってもらうため、泣きながらこの念仏踊りを踊り狂ったと伝わる。この踊りは(他地域の地踊りと合同ではあるが)2023年にユネスコの無形文化遺産に選定登録された。

 

また、文の菅原道真、武の坂上田村麻呂として、文武のシンボル的存在としても名を知られる。

 

文芸作品

詩歌・文章に秀でていただけに、和歌・漢詩・漢文ともに極めて多い。著書に自分の作品をまとめた『菅家文草』『菅家後集』がある。

 

また学者であるため史書のまとめや編纂にも関わり、史書のテキストをそのまま引用して分類した『類聚国史』を編纂している。この中には、かなり散佚してしまった『日本後紀』の文章も数多く引用されており、同書の復元に大きな力を貸している。また日本で編纂された6冊の史書・六国史の最後を飾る『日本三代実録』も編纂したが、完成が左遷直後だったため名前が外されてしまった。

 

一般的には、百人一首の24番に

 

此の度は 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神の随に

 

が選ばれているのがよく知られている。

 

伝説

『飛梅伝説』の主人公が菅原道真であり、梅の花は主である菅原道真に忠実な花であると伝えられている。

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