2008/05/09

千日前


 江戸時代~現在の大阪市中央区の汎称地名。中央区千日前12丁目付近をいう。道頓堀川に架かる太左衛門橋から南へ延びる千日前筋と、東西に走る千日前通りが交差する辺りが中心である。大阪ミナミを代表する繁華街の一つで、戎橋筋・道頓堀筋に隣接する。

千日前」の由来は

(1)昔、千日寺と称する精舎が存在しており、その前という意味
(2)千日念仏が唱えられた事から、千日寺とも呼ばれた法善寺の前に存在する、という意味がある

江戸初期の元和元年、市中の墓地整理により大坂七墓地の一つとなり、千日墓地、ないしは千日前の火屋と呼ばれ焼場・刑場となった。道頓堀の芝居街の裏に当たり、付近は畑場八か村と称される蔬菜産地であったが、安永年間に坂町に遊郭が現れた。

寛政年間には、河原町(千日前2丁目・難波千日前付近)にあたる、溝ノ側に見世物小屋が立ちはじめた。明治期になると、墓地が阿倍野へ移転し刑場も廃止され、それ以降、千日前は盛り場へと展開することになる。溝ノ側から見世物小屋が移転してきた事により、飲食店などが増え道頓堀に接続し、阪堺鉄道(現南海鉄道本線)の難波駅開設も、地域の発展に貢献している。明治中期には、新金比羅前が大阪相撲の定場所ともなっている。

1912(明治45)年にはミナミの大火があり、坂町遊郭は移転して消滅した。 焼け跡には東西の道路が拡幅され市電上六線が開通したが、このために南北が分断されることとなった。大正初期には、千日前交差点の南西隅に出来た総合娯楽場「楽天地」が市内の名所の一つに数えられる事になり、付近には映画館が進出し映画・演劇・寄席の街へと発展した。

 この流れの中で、昭和初期には歌舞伎座が誕生し、道頓堀と肩を並べるに至る。第二次世界大戦後、歌舞伎座は移転し跡地は千日前デパートとなったが、1972(昭和47)年に死者118名にのぼるビル火災が発生した(後にプランタン→ビッグカメラ)

明治3年までの千日前は、墓地と焼場と刑場しかなかった。千日前刑場の獄門台には無残なサラシ首が置かれ、夕闇が迫ると千日六坊の「一つ鐘」が諸行無常の響きを伝え、道頓堀の角座の楽屋から獄門台のサラシ首が見物できると言われた。文字通り「墓場から歓楽地へ」と、千日前の歴史はめまぐるしいのである。

千日前の由来は、竹林寺境内にある千日の大師詣りが、訛ったのだと言われている。また一説には、千日墓地にはいくつかの寺があり、この内法善寺は最も古いといわれ、寛永年間千日の供養を施した事から千日寺の名が起こり、この寺の前の通りを略して「千日前」というようになった、とも伝えられている。

実に色々な歴史と由来がある事に驚かされるが、最後はこんな怪談めいた説も・・・

千日前通りの、やや北側にある1651年創建の古刹。この辺りが刑場や火葬場だった時代、法善寺とともに千日ごとの法要を営んだ事から「千日のお寺」と呼ばれ、千日前の名前の由来となっています。千日前という事ですが、噂話で有名なものがあります。本当かどうかは分かりませんが、昔の罪人が処刑される千日前にここに連れて来られる事から、この名が付いたと言われています。

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