2009/04/22

枚方

 「ひらかた」という地名が、史書に初めて登場するのは『日本書紀』の継体天皇24(530)10月の条に記された、近江臣毛野(おうみのおみ・けな)の妻が読んだ歌だそうだ。もっとも当時使用されていたのは万葉仮名であり、今日用いられている「枚方」ではない。

「枚方」という表記の例は、霊亀元年(715)頃完成したとされる『播磨国風土記』の揖保郡枚方里の条に「河内国茨田郡枚方里の漢人(あやひと)が到来」  したと記しているのが最も古いとのことだ。

枚方ゆ 笛吹きのぼる 近江のや 毛野(けな)の稚子(わくご)い 笛吹きのぼる

川上に向かう小舟に積まれた近江臣毛野の柩に、身を投げるように縋りついているのは彼の妻である。愛しい夫を失って泣き崩れていたが、涙も枯れ果てて放心したような虚ろな目で舳先を見やった。舳先では、我が子が葬送の笛を吹いていた。その姿をぼんやりと見ている、哀れな姿が想い描かれる悲しい歌だ。

毛野は筑紫の磐井の乱の後、継体23年に兵を率いて半島に渡るが、彼の執政を讒言する者があり、継体大王は彼の召還を命じた。帰国の途中、彼は対馬で病死する。讒言した者たちが、その口を封じるために毒殺したとの噂もあった。

彼の棺は、枚方の津で外海用の大船から川舟に移し変えられ、故郷の近江に向かった。その途中で、詠まれた歌とされている。

地名の起源は「日本書紀」に記載されてある「白肩(しらかた)之津」に拠るといわれている。「白肩」は「白潟」のあて字で、この辺りは白波が立ち寄せる岸であったことに起因している。上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多いことから「ひらかた」と転じて「枚方」となった説が有力だ。

枚方丘陵の西に位置する枚方の地が、淀川水系を媒体とする水陸交通の要地を占めることが、古代史の重要な舞台となった理由であるとされた。当時は下れば河内湖や住吉津・難波津に繋がり、遡れば木津川・宇治川・鴨川・桂川と結ばれる淀川水系の枚方は、まさに水陸の便に恵まれた要衝の地だった。そのため男大迹王が、茨田郡の北の樟葉の地を新しい王城の地と定めて即位されたと推測される。

 山背から河内の茨田郡にかけて盤踞していた渡来系の茨田連(まんだのむらじ)や、生駒山の西麓から茨田郡を本拠とした河内馬飼(こうちのうまかい)の集団が居住していたことも、宮地撰定の大きな要素だったと考えられるようだ。

茨田連小望(まむたのむらじこもち)の娘(または妹)・関媛は継体大王の妃になっている。河内馬飼首荒籠(こうちのうまかいのおびと・あらこ)は、以前からヤマト政権の内情を継体大王に伝え、また継体大王が登極を逡巡していると知って、使者を送り即位を促した人物として知られている。こうした渡来系集団が居住していた枚方周辺は、交通の要衝に加えて当時の先進文化地帯でもあった。

ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源
出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
枚方市は大阪府北東端の市で、淀川東岸の沖積地と枚方丘陵、交野(かたの)台地からなっています。日本へ『論語』、『千字文』を伝えた王仁の子孫の百済系渡来人の本拠地です。

江戸時代には、京都と大阪を結ぶ京街道と大和へ抜ける磐船街道が交差する宿場町で、淀川を往来する三十石船の河港としても栄えました。市域の中央を天野川が流れ、大きく口を開けています。

この地名は『続日本紀』の宝亀2771)年213日の条に「比羅加駄」と見えています。また『播磨国風土記』に揖保郡枚方里は、河内国茨田(まむた)郡枚方里の漢人が開拓した、とあります。

この「ひらかた」は、平たい台地の意とする説があります。この「ひらかた」は、マオリ語の「ヒラ・カタ」、HIRA-KATA(hira=great,important,widespread;kata=opening of shellfish)、「大きな、貝が口を開けたような地形(潟)の場所」の転訛と解します。

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