出典http://www.pref.tochigi.lg.jp/index.html
「栃木」の地名の語源は、はっきり分かっていないが、次のような説があります。
十千木(とおちぎ)説・・・栃木町(現在の栃木市)内に神明宮という神社があり、社殿の屋根にある2組の千木(ちぎ)と8本の鰹木(かつおぎ)が、遠くから見ると10本に見えたことから、神社の辺りを「十千木(とおちぎ)」と呼ぶようになったという説。
トチノキ説・・・県内を流れているうずま川には昔、河原や湿地があり栃の木が多く茂っていた。住民はこの栃の実を食料とし、採取にでかける時に「とちのき」に行くといっていた。これが自然に地名になったといわれている。
遠津木(とおつき)説・・・「古事記」に登場する崇仁天皇の皇子の豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)が、命を受け今の栃木県を治めていたが、見知らぬ土地でホームシックにかかり、故郷の紀国(きのくに)の風景を大平山の山にだぶらせ『遠津紀国(遠く離れた故郷の紀国のようだ)』と呟いた言葉が「とほつきのくに」→「とほつ木」→「とつ木」→「とち木」と変化していった。木(毛)の国(現在の栃木県)と木(紀)の国(現在の和歌山県)を区別するため「遠く離れた木の国」という意味で「遠津木(とおつき)」と命名したものが「トチギ」に転訛したという説。
崩壊地形説・・・栃木町(現在の栃木市)内を流れる巴波川は、かつてたびたび氾濫を起こしたことから、千切れた地形(浸食された地形)の動詞「チギ(る)」に接頭語の「ト」が付いたという説。
県名に「栃」の字が使われるようになった経緯
今後、常用漢字に追加される予定の「栃」の字は、中国でできた漢字ではなく、日本でできた国字です。ちなみに、中国の漢字では「橡」と書きます。本県の県名に、なぜ「栃」の字が使われるようになったかについては、色々と分からない点も多いのですが、次のような経緯があります。
近世・・・地名では殆どが「杤」の字を使用していましたが、まれに「橡」や「栃」の字の使用もありました。なお「杤」の字も日本でできた国字ですが、読み方「とち」の「と」が数字の十、「ち」が数字の千で、10×1000が「万」になることから「万」の字に「木へん」を組み合わせたものとの説があります。
明治4年(1871)・・・7月 廃藩置県により下野国に多くの県が成立しました。11月、県の統合により「栃木県」と「宇都宮県」が成立しましたが「栃」を使った明確な理由ははっきりしません。またその後も、実際の使用例では「栃」、「杤」、「橡」など不統一でした。
明治5年(1872)・・・10月、表記が一定しないのは体裁が悪いことから、県名文字「栃」の統一を図るため、県庁構内に張り出し広報しました。
明治6年(1873)・・・6月、「栃木県」と「宇都宮県」が統一され、ほぼ現在の形の栃木県が成立しましたが、漢字の表記については、その後も「杤」の字が多く使用され不統一な時期が続きました。
明治12年(1879)・・・4月、県名文字を統一するため「栃」の使用を県が正式決定し、その後数年を経て実際の使用表記も「栃」に統一されていきました。
『栃』という文字についての由来は、神社の屋根にある『千木』が十本集まり、すなわち『万』となることから出来た、言わばこじつけの会意文字である。表記も、当初は『杤』という字を使用していたという。
そしてもう一つ『橡』という字も、トチと読ませることがある。普通のワープロでも、ちゃんと変換できる漢字である。江戸時代はトチというと、もっぱらこの字が使用されたらしい。
芭蕉の俳句にも『木曽の橡 浮世の人の土産かな』とあり、また一茶も『橡の実や 幾日ころげて 麓まで』と詠んでいる。
しかしながら、橡の正確な読み方は『つるばみ』であり、これは現在のクヌギの古名だと云う。いつの時点で『橡』が『栃』になったのだろうか。種明かしをすれば、江戸時代の橡は中国で作られた漢字なのである。中国では「ショウ」と発音し、ドングリのような木の実を意味していた。
では、なぜ木篇に象で木の実なのか?
これから先は推論になるが、木の実が落ちていても森の中では果して、どの樹木から落ちた実なのか分からない。それゆえ得体の知れない象のように、頭の中で想像したので『橡』になったのではないか。
『栃』は、日本で造られた国字だ。それも明治12年に本県で「この文字!」と統一したのが、全国に広まったふるさと文字なのである。2009年1月、『栃』はようやく「常用漢字」の仲間入りを果たした。
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