2009/12/12

大文字の謎(3)

出典http://kyoto.nan.co.jp/

 


もうひとつの代表的なものに「室町時代中期に足利義政が始めた」というものがあります。その理由は「大文字の送り火の正面は、足利将軍家の旧室町幕府跡に向いている」というものです。また大文字山の麓には、足利家ゆかりの銀閣寺もあります。旧室町幕府は現在の烏丸今出川の北側、同志社大学と相国寺の西側にあったとされ、確かに室町幕府跡と大文字を結ぶ線上に、ちょうど出町柳の三角州があります。この賀茂川と高野川が合流し、鴨川となる出町柳の三角州あたりは、今でも大文字が一番綺麗に見える場所として人気があります。

 

ではいよいよ、肝心の「大の字の謎」に迫ろう。

 



大文字の送り火では、なぜ「」の字なのかも実は謎のままです。諸説としては

1)      元々、大という字は星を象ったものであり、仏教でいう悪魔退治の五芳星の意味があったのではないか。

2)      一年を通して位置の変わらぬ北極星(北辰)は神の化身とみなされており、その北極星を象った大の字を同じく動かぬ山に灯したのが、そもそもの大文字送り火の起源ではないか。

3)      弘法大師は、大の字型に護摩壇を組んでいたところから、大の字にしたのではないか。

などがあります。

 

なお京都では、男の子が生まれるとその子の額に大の字を書き、宮参りをするという風習が残っております。

 

現在では「大文字」、「妙法」、「船形」、「左大文字」、「鳥居形」の五山で執り行われている送り火ですが、明治以前にはこの他に「い」、「一」、「竹の先に鈴(竿に鈴)」、「蛇」、「長刀」の、合わせて十山で行われていました。明治になり、急速に近代国家を目指した日本では、祖先の霊「大文字」や疫病神「祇園祭」を迷信とし、明治初年から10年間、祇園祭と大文字を禁止しました。その後、再開はされましたが古式伝統に目を向けなくなっていた当時では、公的、私的な援助を受けるのが難しく、資金難に陥った送り火は昭和初期(第二次世界大戦前)までに次々となくなり、現在の五山になりました。戦後、文化財や伝統保護の気運が再び高まるまでは、大文字と祇園祭にとって苦難の時代だったと言えるでしょう。



五つの送り火と点火時刻

816日の夜午後8時、京都市内のネオンが一斉に消されると左京区東山如意ヶ嶽の「大文字送り火」に火が灯ります。その後、同10分 左京区松ヶ崎の「妙法送り火」、同15分 北区西賀茂の「船型万燈籠送り火」、同15分 北区大北山の「左大文字送り火」、同20分 右京区鳥居本の「鳥居形松明送り火」、と、京都の町をぐるりと取り囲む山々に反時計回り(左回り)に次々と火が灯っていきます。

 

それぞれの送り火が燃えている時間は、約30分と昔から変わらないそうです。これらの五つの送り火を総称して「五山の送り火」とも言われていますが、江戸末期頃は全部で十の山々で送り火が灯されていたそうです。明治から昭和初期にかけて、現在の五山になりました。現在では点火されなくなってしまった五つの送り火ですが、その場所は「い」は市原、「一」は鳴滝、「蛇」は北嵯峨、「長刀」は観空寺村にあったとされています。しかし「竿に鈴」は大正初期まで点火されていたにもかかわらず、その場所が一乗寺だったのか静原だったのか西山(松尾山)だったのか、もうすでに明確でなくなってきています。この三ケ所は方角がまったく違いますし、当然、距離もだいぶ離れております。

 

近代にはいってもなお、大文字についてはなぜこのような事が起こるのか、非常に不思議です。

 

このように謎がいっぱいの大文字、もしかすると静かに暮らす黄泉の国の霊達が  「騒がしい現世の人達にその場所を知られたくなくて、あえて記録を消している」のではないか、とさえ思えてきます。夏の夜空にまるで幻のように浮かぶ、大の字、妙法、船、鳥居。その吸い込まれるような不思議さは、現世の煩わしさをひと時忘れさせてくれます。

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