そもそも、男体山をなぜ二荒山と呼んだのかは、補陀洛(ふだらく)に由来し、観音菩薩の浄土であるポータカラ(梵語)を漢字にあてたもので、補陀洛山からフタラ山(二荒山)の名が生まれたのが有力説である。
ほかに日光連山の山中にはクマザサが多い事から、アイヌ語のフトラ(熊笹)がフタラとなったという説と、馬返(いろは坂下り道右手)の岩壁の洞穴から、春と秋に風神が吹き荒れるとされていたことから、二荒となったという説などがある。
社名「二荒山(ふたらさん)」の名の由来には諸説がある。
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「補陀洛山」説 - 観音菩薩が住むとされる「補陀洛山(ふだらくさん)」が訛ったものといわれ、後に弘法大師空海がこの地を訪れた際に「二荒」を「にこう」と読み、「日光」の字を当てこの地の名前にしたとする。ただし、空海の来訪は伝承の域を出ない。
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男体山・女峰山2神の二神二現説
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暴風雨説
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アイヌ語の「熊笹 = フトラ」説
なお、男体山山頂遺跡の出土品から、鎌倉時代初期には「二荒」と「日光」が併用されていたことがわかっている。
出典Wikipedia
日光の歴史の始まりは、奈良時代にさかのぼる。開祖である勝道上人は、735(天平7)年に下野芳賀郡(現在の栃木県真岡市南高岡)に生まれ、7歳のある夜、明星天子が夢に現れ「仏の道を学び、日光山を開け」とのお告げに導かれ、10人の弟子と766(天平神護2)年、大谷川(現在の神橋/当時はもちろん橋はない:山菅の蛇橋伝説)を渡り、四本竜寺(現在の本宮神社・三重塔付近)を建立したのが日光山の起源だ。
一行は、主に日光山中(現在の世界遺産日光の社寺エリア)で16年余の修行を経て、782(天応2)年に二荒山(男体山)山頂を極め日光(二荒山)開山を成し遂げた。
「日光」という地名は、俗説として二荒山と二荒神(宇都宮二荒山神社)の「二荒」(ふたあら)を「にこう」と読み「日光」を当て字したものと云われる。これは、820年(弘仁11年)に現在の日光を訪れた空海が初めて「日光」の字を当てたと言われるものであるが、記録上で「日光」が見られるのは鎌倉時代頃以降で、記紀六国史は総て「二荒神」と記述されている。
現在、空海が一夜で彫ったとの伝承が残る大谷磨崖仏や佐貫石仏は、平安時代後期から鎌倉時代前期の作と推定されており、これらの時代は日光菩薩像が下野国下にも多く造立され、禅宗の伝来とともに日光山等の山号が国内の寺院に付されるようになった時期と重なる。
俗説として「ふたらさん」の読みは、観音菩薩が住むとされる「補陀洛山(ふだらくさん)」が訛ったもの、と云われる。古語的には「ふたあら」、「うつのみや」は、何れも「山(小高い丘)の崩落部」の意を起源とする、と解されている。
男体山は大己貴命(おおなむちのみこと)が祀(まつ)られ、古くから信仰の対象でした。大己貴命は別名を大国主命(おおくにぬしのみこと=だいこく様)と言い、古事記にも出てくる神様です。
天平神護2年(766年)、この山に勝道上人(しょうどうしょうにん)が修行に訪れます。
勝道上人は神秘的で美しい山を見て、この山は神霊のいる山と信じ「二荒山(ふたらさん)」と名付けました。二荒山は「補陀洛山(ふだらくさん)」から取った、とされています。
「西域記(さいいきき)」には「山頂に池あり、その水鏡にして大河を流出す」と書かれているといいます。男体山、中禅寺湖、大谷川(だいやがわ)を、それに見立てたと言われています。中禅寺湖は、人造湖を除く広さ4平方キロメートル以上の湖としては、日本一高い湖です。まさに、西域記にある通りの光景だったのでしょう。
その後、弘仁11年(820年)に弘法大師空海が入山し「日光」と改称したとされています。この時に反対もあったということですが、空海大師は「二荒」を音読みにすると「にこう」と読めると半ば強引に改称した、という話を聞いたことがあります。
空海大師が改称したのではなく「二荒」を「にこう」と音読みにする人が自然と多くなり、だんだん「にっこう」に変化し、それに「日光」という漢字を当てたという説もあるのですが、ちょっと無理があるような気がします。
江戸時代に入り日光街道がつくられ、日光という呼称が全国に広がり確定したと言われています。
ポリネシア語による解釈
栃木県北西部、日光市を中心とする地域を日光と通称し、日光火山群の南部、大治(だいや)川の上・中流地域で、華厳の滝より上流の奥日光、下流の表日光に分けられます。また、鬼怒川上流の塩谷郡栗山村を裏日光(奥鬼怒)、足尾山地北部を前日光とも呼びます。
日光は雄大な自然に恵まれた地域で、古くからの男体山を中心とする山岳信仰の聖地でした。男体山(2484m)は、中禅寺湖の北東に聳える成層火山で、二荒山、日光山、黒髪山ともいい、北東には大真名子(おおまなこ)山(2375m)、小真名子山(2323m)、女峰山(2464m)、北西には太郎山(2368m)、山王帽子山(2085m)が連なり、戦場ケ原、湯ノ湖を隔てて白根山(日光 白根山、2578m)などとともに「日光火山群」を形成しています。このうち男体、女峰、太郎の三峰は「日光三山」と呼ばれます。
日光には「日光山の神が大蛇となり、ムカデと化した赤城山の神と死闘を演じ、猟師猿丸の援助で勝利した」という伝説が残されています。
この「にこう(にっこう)」、「ふたら」は、男体山を指した言葉で、マオリ語の「ヌイ・コウ」、NUI-KOU(nui=large,many;kou=knob,stump)、「巨大なこぶ(のような山)」 または「ニコ・ウ」、NIKO-U(niko=take a turn of a rope round anything,tie;u=breast of a
female,bite,be fixed)、「(日光山の神である)大蛇が巻き付いている・乳房のように膨らんだ(山)」、「フ・タラ」、HU-TARA(hu=promontry,hill;tara=peak)、「尖つた山」、または「プタ・ラ」、PUTA-RA(puta=opening,hole,pass through;ra=wed)、「(大きな穴のような)湖が・そばにくっついている(山)」(「プタ」のP音がF音を経てH音に変化して「フタ」となった)の転訛と解します。
出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
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