九州
古代では、九州本島は「筑紫島・筑紫洲(つくしのしま)」(古事記・日本書紀)と呼ばれていた。3世紀には『魏志』倭人伝に書かれているように小国(伊都国・奴国など)に分立していた。それらの国々は4-5世紀頃まで継承され、後の郡の広さに近い政治地域を支配する豪族に成長していった。
倭政権からは、県主(あがたぬし)に任ぜられていた。記紀などの史料には、九州各地に県・県主がみられる。5、6世紀のヤマト政権には、筑紫国(北部)・豊国(東部)・肥国(中部)・熊襲国(南部)の四区分に観念されていた。それは九州成立以前の政治的区分であった。
続日本紀によると、ヤマト政権が律令制を取り入れるにあたって西海道の一部となり、筑紫は筑前国・筑後国、豊国は豊前国・豊後国、肥国は肥前国・肥後国に分割され、日向国の7国と島嶼部の壱岐国・対馬国の2国が成立(ただし、日本書紀では律令制以前の推古17年(609年)の記事に肥後國の記載あり)、824年以後は大隅国・薩摩国を加えた本土9国、島嶼部2国となったとある。また斉明天皇の時に、百済復興の戦に備えるために筑紫国朝倉宮に遷都し、ごく短期間であるが九州に初めて朝廷が置かれた。
その後、現在の太宰府市には西海道を統轄し、対外的な窓口と大陸からの防衛任務を兼ねて大宰府が設置された。また、663年の白村江の戦い以降に筑紫に水城や大野城を置き、日本の防衛の最前線の役割を担った。なお古代九州には、7世紀末までヤマト政権とは独立した王権があったとする説(九州王朝説)もある。
佐渡島
出典https://www.dai3gen.net/taniguku.htm
「佐渡」は「さど」と読み慣わして疑念を持たないところであるが、これは「さわたる」ではないのか。つまり「佐渡島」は、神代または古事記編纂時に国境として認識されていたのではないか、つまり「さわたる極み」、国の極み、国の果て、であるから「佐渡島」と呼んだ、という可能性が指摘される。傍証としては「儺の祭の詞」(祝詞)に「四方之堺 東方陸奥 西方遠値嘉 南方土佐 北方佐渡」とあり、佐渡は北の境界として認識されている。
倭名抄に「佐渡国 国府在 雑太郡 ・・・雑太(佐波太)」とあり、「サハタ」なる地名が確認される(今の「佐和田町」であろう)。佐渡一ノ宮「度津神社」の「度津」は「ワタツ」と読む。「わたり<さわたり」が変化してきたものであろうか。「さわたり」という地名(現在地名)の分布、を見ると(中には本当に「沢を渡る」というものや「猿が渡った」というものもあろうが)、「国の果て」、とも言えそうな分布状態ではある(時代によっての異なりとか、地域ごとでの認識とか)
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