本膳料理とは、日本料理の正式な膳立てである。
「食事を摂る」という行為自体に儀式的な意味合いを持たせているのが特徴で、室町時代に確立された武家の礼法から始まり江戸時代に発展した形式だ。しかし明治時代以降は殆ど廃れてしまい、現在では冠婚葬祭などの儀礼的な料理に、その面影が残されている程度である(婚礼の際の三々九度など)
更に、肝心の料理店自体が、用語の使い方を誤っている例がしばしば見られる(単なる婚礼や法事の会席料理や、仕出し弁当に「本膳料理」という名前を付けている例がある)
鎌倉時代、武家の間には「椀飯」という、正月に御家人から将軍に料理を献上する儀式があった。当初は鯉一匹など簡単な物であったが、室町時代になり武家の経済的政治的優位が確立し、幕府政治の本拠地も公家文化の影響が深い京に移るに至って料理の品数も増え、料理自体にも派手な工夫が凝らされるようになった。
特に室町幕府の将軍を接待する「御成」が盛んになってからは、次第に宴会料理の形式が整えられていった。ここに本膳料理が成立したと考えられる。
形式
式三献、雑煮、本膳、二の膳、三の膳、硯蓋からなり、大規模な饗宴では七の膳まであったとの記録もある。ただし、特徴的なのはこうした膳の多くが「見る料理」であり、実際に食べる事ができる料理は決して多くは無かった。
この本膳料理は少なからず儀礼的な物であり、この後に能や狂言などの演技が行われつつ、後段と呼ばれるうどんや素麺といった軽食類や酒肴が出され、ここで本来の意味での酒宴になった。中には、三日近く行われた宴もあったようだ。
献立としては一汁三菜、一汁五菜、二汁五菜、二汁七菜、三汁五菜、三汁七菜、三汁十一菜などがあったとされる。もっとも基本的な形は、本膳に七菜(七種の料理)、二の膳には五菜(五種の料理)、三の膳には三菜(三種の料理)を配膳するものである。
配膳
配膳の順序は、本膳、二の膳、三の膳、四の膳、五の膳の順にし、上座の客を先に順次、下座の客に及ぶようにし、最後に主人に配膳する。膳は料理に呼気がかからないように両腕を伸ばし、身体から離して高めに捧げ持つ。持ち方は膳を先方に向け、左右の両縁にそれぞれ両手を掛けて、客の前、適当な位置に進める。本膳は客の正面に、二の膳は客から向かって本膳の右に、三の膳は同じく左に、四の膳は、本膳の向こう側、本膳と二の膳との間に、五の膳は同じく本膳と四の膳との間にかけて置く。
本膳料理の「家元」
室町時代の中期頃には、複雑になった本膳料理を専門に調理する料理流派が成立した。「大草流」、「進士流」が有名で『大草殿より相伝之聞書』など、師匠から弟子へ一子相伝の料理の”秘法”を伝えていた。一方、礼法家の立場からは、本膳料理の食事作法を定めるようになり、小笠原流の『食物服用之巻』などのハウツー本が生まれた。
硯蓋
硯蓋(すずりぶた)は、江戸時代に出現したもので、卓袱料理や砂糖の普及とも絡んでいると思われる特異な献立である。当初は文字通り、硯の蓋に供されたともいわれる。硯蓋に出される料理はきんとん、羊羹、寒天菓子等の甘味類(料理の一品として出されるため料理菓子、口取り菓子とも呼ばれる)、あるいは蒲鉾、牛蒡や小魚の佃煮といった保存の効く食物が多く、これらは賓客が持ち帰る慣わしであった。ちなみに、御節料理としてお馴染みの伊達巻も硯蓋でよく出された料理といわれ、長崎では食感や製法の類似性から「カステラかまぼこ」とも呼ばれており、この三つの関連性は高いと思われる。
懐石料理における八寸に似ているが、八寸がその場で食べて(これを食い切りという)、料理も酒肴に近い物が供されるが、硯蓋は前記のように菓子類や保存性の高い食品が盛られる。関西では硯蓋の料理を口取りといい、内容は似ているがその場で食べる慣わしであった。現在は、コストや慣習の問題から廃れている。
本膳料理の基礎は、一汁三菜にある。「菜(さい)」は「な」のことであり、副食物のことを指す。一汁三菜の内容は、飯、汁、香の物、なます、煮物、焼物であり、飯と香の物は数えない。こうして見ると、料理の品数が「4品」ということになる。
「4」 という文字について、これが「死」と同じ音であることから忌み嫌い、一汁三菜という分割した呼び方にしている。また、菜の数は必ず奇数である。 このことは日本において奇数を陽とし、偶数を陰とする思想があり、奇数をめでたいものとすることによる。
一汁三菜、一汁五菜、二汁五菜、三汁七菜など、三汁十五菜まであるが、一汁四菜(偶数の菜)はない。
膳には、高さ40cm高足(たかあし)膳を用いる。膳の配置は、まず本膳 (一番目に出す膳) を膝前に置き、二の膳 (二番目に出す膳) を右側に置き、三の膳 (三番目に出す膳) を左側に置く。昔は、すでに盛りつけた料理を目八分目の高さに捧げて、客前に出していた。それぞれの膳には、何をどこに置くかという約束がある。これを、「膳組み」と呼ぶ。
本膳料理という名称は室町時代に始まったが、現在、明治・大正時代に完成された膳組みを用いている。膳組みは、江戸前期のころ一の膳、二の膳、三の膳として分けていたが、天保のころから最初に出す膳を「一」と書かずに「本膳」と書くようになった。二番目に出す膳は、本膳より小型で、この膳は「汁」のない場合がある。これを
「引落(ひきおとし)」 と呼んで、正確には二番目に出す膳ではあるが 「二の膳」 と呼ばない。引落の配置は二の膳と同じであるが、高さは二の膳よりも低い。つまり「二の汁」がつく膳が「二の膳」であるということで、これに「焼物」が別の膳でつくものを「焼物膳」と呼び、これは脇膳のひとつである。
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