2014/05/13

諏訪

諏訪大社縁起

諏訪大社成立の由来については諸説あるが、ここでは「古事記」と「甲賀三郎譚」由縁のものを紹介する。どちらも、外来のものが如何にして諏訪に入ったのかを示している。

 

古事記由縁の由来

諏訪大社の由来としては、一番良く知られたものである。これは古事記内の出雲神話に依る。昔、日本は葦原の中つ国と呼ばれ、国王は大国主命であった。高天原の天照大神は葦原の中つ国を手に入れるため、径津主命・武甕槌命を派遣し大国主命に国譲りを迫り、大国主命の息子である建御名方命がこれに対抗した。武甕槌命と力勝負を行ったが負けて、科野の国に逃げ込むことになった。天竜川で洩矢の神と対陣し、交渉の結果力比べをすることになった。この力比べで建御名方命が勝利し、以来諏訪の地で国作りを行ったといわれる。

 

甲賀三郎譚所縁の由来(南北朝時代の説話集「神道集」より)

中世に語り継がれた諏訪大社の由来。諏訪大明神が竜蛇神とされる理由のひとつ。甲賀三郎は、大和の国主となり春日姫と結婚した。三郎が兄たちと伊吹山で狩りをしている時、春日姫が攫われた。全国を探し求め、信州蓼科岳の人穴の中で春日姫を発見し、救い出したが春日姫に恋する兄によって三郎は穴から出られなくなる。三郎は穴の中を進み、維縵国に至り国王の娘と結婚する。13年間暮らすが、春日姫恋しさから再び地底探索開始し、国王は鹿の肝で作った餅を与え道中の難所の克服法を教えた。千日かけ三郎は信州浅間岳に到着。しかし自身の体が蛇になっていた事に気づき、老僧の言う通り池の水を飲み呪文を唱えると、元に戻った。兵主神に導かれ三笠山で春日姫と再会し、平城国で神道の法を授かり帰国。三郎は諏訪大明神として上社に、春日姫は下社に出現した。

 

ポリネシア語による解釈

出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/

古代からの郡名で、赤石山脈、立科山脈、八ヶ岳連峰によって囲まれ、糸魚川静岡構造線上の断層盆地で、天竜川の水源である諏訪湖がある諏訪盆地に位置し、おおむね現在の岡谷市、諏訪市、茅野市、諏訪郡の地域です。

 

『古事記』には、建御名方神が追われて科野国の州羽海に至ったとあります。なお、諏方大明神画詞(正平111356)年成立)は、駒ヶ根市大田切川以北の伊那郡北部を「外諏方郡」と称しています。『和名抄』は「須波(すは)」と訓じます。郡名は「すぶ(隘)まったところ」(本居宣長)から「スワ(谷、湿地)」の意、「ソハ(阻)」の転で「山地の崖、山の斜面」の意、「住庭(すみにわ)」の転などの説があります。

 

この「すは」は「ツワ(ツハ)」、TUWHA(=tuha=spit,expectorate)、「(神が)唾(つば)を吐く(厳冬期に御神渡(おみわたり)ができる。湖。その湖がある地域)」の転訛と解します。

 

なお、全国の他の「スハ」地名は

(1)「ツワ(ツハ)」、TUWHA(=tuha=spit,expectorate)、「唾(つば)を吐いたような(沼、湿地)」

(2)「ツ・ハエ」、TU-HAE(tu=stand,settle;hae=slit,split,cut,tear)、「溝、崖など」の転

(3)「ツハハ」、TUHAHA(standing alone,isolated)、「孤立した(地形)」の転

上記いずれかであろうと考えます。

 

・ 昔、朝廷は諏訪神社の建御名方神(たけみなかたのかみ)の神威を恐れて諏訪神領の自治を認めていた。そのため諏訪氏は一つの独立国のように振る舞えた。

 

・ 諏訪の地名の由来は、長野県の方言の「すわ」に由来し、「すわ」とは、谷や湿地のこと。

 

・ 古事記では「洲羽」との地名で出てくる。「すわ」に「諏訪」をあてたのは意外に新しく、江戸時代末期。古事記(洲羽)、続日本紀(諏方)、その他「須波」「須芳」とも書いた。

 

・ 信濃国諏訪郡など。

 

・ 「スワ」は「サワ」と同義語で、山から流出する川の水が山地や盆地を潤して湿地や湖を形成している様子を表す。

 

・ 「諏訪」は「」から転じた。山菜や川魚の恵みをもたらす沢の神が諏訪の神で縄文時代に始まる。

 

・ 諏訪は「スハ」という。古代語の母音は発声方法が現在と違い、「は」は唇を合わせて発音した。つまり「は=ほぁ」となり、諏訪は「すほぁ」と発音された。この「すほぁ」の発音は、諏訪大社の建御名方神に縁のある周防(すおう、すは)と通じる。また古代朝鮮では首都のことを「そほり(金城=ソウル)」と言った。最後の「ラ行」は脱落する傾向があり「そほり=そほ」が転訛して「すほ」から「すわ」になったとも言う。諏訪は古事記では「州羽」、続日本紀では「諏方」と書いた。他にも「須波」「須芳」などの表記もある。「州」と「須」はほぼ同義で「砂浜」のこと。中世から近世では「諏方」が主に使われたが、天保5年(1834年)に高島藩が「諏訪」と書くように藩命を出した。【長野「地理・地名・地図」の謎 実業之日本社】

 

・ 「す(砂)」+「わ(端)」で、「砂地の湖岸」という説も考えられる。【市町村名語源辞典 溝手理太郎 東京堂出版】

 

・ 諏訪の地名は諏訪信仰から広まった。「すわ」は「沢(さわ)」から転じたもの。山菜や川魚の恵みをもたらす「沢の神」が「諏訪の神」。諏訪神社は信濃国から越後国にかけて多い(約4割)。【地名でわかるオモシロ日本史 武光誠 角川ソフィア文庫】

 

・ 本居宣長は「スブ(隘)まった」という意味としている。また、佐渡の方言の湿地や谷を意味する「スワ」に由来するという説もある。また、「山地の崖側・山の斜面」を意味する「ソハ(岨)」の転訛という説もある。【出典】

 

# 諏訪:「古事記」には、出雲の国譲りで力比べに敗れた建御名方神(たけみなかたのかみ)が「科野(しなの)の国の洲羽(すわ)の海」まで逃げ、住み着いたとある。「続日本紀」には「諏方」「須波」との表記も有り、どちらも「砂浜のある湖」という意味と考えられる。

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