2014/08/13

逢坂

忍熊王は第十四代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇子様、武内宿禰は大和朝廷初期の5帝に大臣として仕えた「伝説の英雄」であった。

 

さて、仲哀天皇には神功皇后(じんぐうこうごう)という第一夫人がおられ、この人が出兵先の新羅で皇子をお生みになり、その子を連れて帰国された。忍熊王は、皇子様とは言え第二夫人の子だったから、皇位継承権は神功皇后の子が優位になる。神功皇后が皇子を出産し、(仲哀天皇は、すでに亡くなっていた)この子が次の天皇になることが確実になると、忍熊王はこれに反発する。神功皇后と赤ちゃんを秘かに亡きものにしようと謀るわけだが、これを知った神功皇后は忍熊王を討つよう武内宿禰に命じた。

 

こうして武内・忍熊は軍を交えて戦うことになったが、武内宿禰は三韓征伐にも功を成したともいわれる海千山千のツワモノだから、若い忍熊王が敵うはずもなく奈良から京都へと敗走した。そして近江への峠を越える逢坂山で、武内宿禰に追いつかれて「逢う」ことになった。さらにその後、忍熊王は近江まで追いつめられ、琵琶湖に身を投げたとも斬られたとも言われる。

 

他に逢坂の名の由来は、逢坂の関に準えたとも、聖徳太子と物部守屋の二人が信じる方法を比べ合わせた言われた「合法四会」に近いことにより「合坂(オウサカ)」と名付けられた、など諸説ある。

 

昔、小野美作吾という人が武蔵守となり、この地に来た時、美しい娘と恋仲になった。後に都に帰って没したが、娘の夢によりこの坂で再び逢ったという伝説に因み「逢坂」とよばれるようになった。

 

出典http://kojiki.kokugakuin.ac.jp/chimei/ousaka/

滋賀県大津市と京都府京都市との境に位置する逢坂山の地。香坂王・忍熊王の反乱の時に、忍熊王の軍が神功皇后の軍に追い詰められて逃げ退いた地とされる。『日本書紀』神功皇后条、摂政元年三月に、反乱を起こした忍熊王の討伐に向かった武内宿禰が、この地で忍熊王に出会ってその軍勢を打ち破ったことから逢坂と呼ばれるようになったという地名起源伝承が見える。

 

また、孝徳天皇条大化二年正月朔にて出された改新の詔の中で、「合坂山(=逢坂山)」が畿内と畿外の北境として定められたことが見える。この点から、古代より都と東国・北国を結ぶ交通の要衝の地であったとされる。『万葉集』巻十三、「逢坂を うち出でて見れば 近江の海 白木綿花に 波打ち渡る」(3238番歌)を始めとして、歌の中にもよく詠まれる地である。

 平安期、逢坂山には逢坂関が置かれた。先に存在した愛発・不破・鈴鹿などの関が東方への備えという意味をもつのに対し、逢坂関は明確に平安京の防衛を目的とするものとして作られたとされる。

 

 逢坂の語義について、記紀ともに上記の忍熊王の軍との戦いの最終激戦地となっていることから、逢坂の地名を構成する「逢ふ」という語の背景に、単に人が出会うという意味だけではなく、「戦う、争う」という内容をあらわす「あふ」の意が存在するのではないかとする説がある。また、山城国側からも近江国側からも急な坂道を登らなければならないことから由来した名称とする説、二つの坂が出会う場所=峠の語義とする説もある。

 

 本項で地図上に示している場所には国道1号沿いに立てられた「逢坂山関跡」の記念碑がある。しかし、この記念碑の場所が関のあった場所と確定されているわけではなく、大谷町から琵琶湖方面に向かって下りてきた谷口である逢坂一丁目の蝉丸神社下社を北限、京都大学防災研究所附属地震予知研究センター逢坂山観測所を南限とする安養寺付近の空間を逢坂関の候補地とする説もある。

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