2014/09/29
高天原『古事記傳』
2014/09/08
天地初發の段
「天地開闢」であって「天地創造」ではない。
ここが、日本神話の重要ポイントである。
ユダヤ教・キリスト教の聖典である旧約聖書『創世記』では、まず最初に「神」が存在し、この絶対神が天地を始めすべてを創世していく。
これに対し日本神話では、まず天地が開闢してそこから神々が誕生する。
「天地(あめつち)」が始まりであり、神々もこの天地から生まれる。
これが山や川などの自然や自然現象を敬い、それらに八百万の神を見いだす「神道」の自然信仰である。
●本居宣長訳
天地(あめつち)は「阿米都知(あめつち)」を漢の文字で書いたもので、天は「あめ」である。なぜ「あめ」というのか、その意味は分からない。そもそもいろいろな言葉の起こりを突きとめることは極めて困難であり、それを強いて解釈しようとすると、必ずおかしな解釈が出てくるものである(略)
しかしながら、全く解釈しないで済ませるわけにも行かない。考えつく限りのことは、試みに言ってみてもいい。その中には、たまに当たっていることもあるはずだ。私にも、こうだろうかと思っていることはあり、それを述べてみる。
天(あめ)は空の上にあって、神々のおられる国である。【この他に理屈で細々と論じ立て、あるいはその形までもあれこれと推し測って言うのは、みな外国で言うようなことで、いにしえの伝えではないので問題にならない。】
地は「つち」だ。名前の由来には、思い当たることがある。後述する。「つち」と言うのは、元々泥土(ひじ)が固まって国土(くに)になったから言う名前で、小さいのも大きいのも同じように呼ぶ。小さいのはひとつまみの土も「つち」と言い、広く海に対して陸地も「つち」と言うのだが、天に対して「あめつち」と呼ぶときは海も含まれる。【新撰姓氏録で、海神(わだつみ)の子孫も地祇に入れているのは、地(つち)は海をふくむからだ(略)
「くに」は限りの意味だというのは、天照大御神と月読命は天の昼と夜を分けてお治めになるが、須佐之男命が天に上がったとき、天照大御神が「我が国を奪おうとしている」と言ったこと、皇祖神は「月読命は夜食国(よるのオスクニ)を治めよ」と言ったこと、また須佐之男命には「海原を治めよ」と命じたが「その命じられた国を治めなかった」とあり、万葉集巻二の人麻呂の挽歌(167)に「天皇之敷座國等、天原石門乎開、神上上座奴(スメロギのシキマスくにと、アマノハラいわとをヒラキ、かむあがりアガリマシヌ)」とあるなど、みな範囲を限って治めるところを、天でも「くに」と言う。これらを考えると「くに」は、本来「あめ」の対語ではなかった。だが天つ神、地つ祇、また神名に天の某、国の某とあるのは、地はある限りすべてが天孫の治める領土であるため、自ずから天に対して「つち」と言うべきところも「くに」と呼ぶことになった。天つ神、国つ神というのも、神名なども天孫が地上を治められるようになってから名付けられたからである。
2014/09/03
割主烹従(世界遺産登録記念・日本料理の魅力)(6)
季節感は日本料理の重要な要素である。旬の食材は美味しく、また市場に豊富に出回り値段も安く栄養価も高くなる傾向にあるため、生命力に溢れた素材そのものの味を楽しむ好機と考えられている。
七草粥のように雑草特有の自然な灰汁の強さや苦味も、生命力を涵養する滋味として喜ばれてきた。また初鰹のような季節を先取りする「走り」、落ち鮎のような翌年まで食べられなくなる直前の「名残」など、旬よりは味が落ちるが素材の扱いを変えるなど、同じ食材でも「走り」、「旬」、「名残」と三度の季節感が楽しまれることもある。
割主烹従
彩りを出し素材の持ち味を引き出すために、味付け前の下処理に手間をかける。日本料理の調理場を「板場」、料理人や料理長を「板前」、「花板」と俎板と関連付けて呼ぶ事から分かる通り、食材を切ること自体を煮炊きから独立した調理の一過程として非常に重視しており、切り方、盛り方、色組み合わせ(三真)にも注意が払われる。これは、あらかじめ食べやすい大きさに切り揃えられた素材に、ナイフを使わず箸を使って食べるという食文化や、平安時代の包丁式に見られる文化的バックグラウンドや、加熱調理は誰でも出来るという考えから来たものである。
『焼く』という意味が由来のフランス語で、台所や料理法を意味する『キュイジーヌ』(cuisine)とは対照的である。このような「切る」ことを重視する日本料理の姿勢は「割主烹従(かっしゅほうじゅう)」と呼ばれ、包丁を使って「割く(切る)」ことが第一で「烹る(火を使った調理。煮る、焼く)」ことが、これに続くとされる。
これに関連し、日本料理はしばしば「割烹」と呼ばれ、この言葉は江戸後期に関西から広まり高級料理店などで用いられるようになったとされる。また、食材の鮮度に応じても調理法が選択され、例えば鮮魚は鮮度が下がっていくに従い生(刺身)、焼き物(焼き魚)、煮物(煮付け)・揚げ物(天ぷら)といったように、調理法が使い分けられてきた。
焼き物の場合、下処理の済んだ食材に塩を振り、炭火で焼き上げるものが多い。煮物、蒸し物の場合、出汁を基本に味噌や醤油を用いて味付けが行われることが多い。香辛料の類は、あまり使われない。香味野菜を刻んだり、擦りおろした物を好んで使用する(「薬味」もしくは「かやく」と呼ばれる)
このような日本料理の考え方が色濃く現れるのは椀物(吸い物)と刺身であり、合わせて「椀刺」(四条流などでは「椀差」と記述)と呼ばれる。会席料理における酒肴のメインディッシュとみなされており、その出来栄えによって、その店の料理人の腕前を確かめられるともいわれる。
会席料理での刺身は7切れ・5切れ・3切れを遠中近の山景に見立てて並べ、これにけん・つま・かいしきと辛味を添える。刺身にあしらわれる千切り大根を『つま』と思っている人が多いが、あれは『つま(妻)』ではなく『けん』と言う(広義には「つま」の範疇なので、必ずしも間違いという事ではない)
けん、つま、辛み、この三種の「あしらい」を総称して「つま」という事もあるが「つま」とは「端」や「ふち」、「へり」を意味する。刺身に寄り添う形であるから【妻】という字の代わりに【褄】と書いてもよい。
一方「けん」とは「剣」であり、鋭く細長いの意だ。「三寸」長さに切って食べやすくし、また彩りや造り身の脇役としても欠かせない。大根のけんは【白髪】と献立に書く。大根以外にも、ウド、カボチャ、ジャガイモ、キュウリ、ニンジン、カブラなども使い、極千切りにして刺身の横に剣のように立てて盛る(刺身の下に敷く場合は「敷きづま」と言う)
『つま』は刺身の横や手前にあしらうもので、海藻類ならトサカ、ワカメ、ノリ、オゴ、イギスなどがよく使用され、野菜類はムラメ、葉付き胡瓜、浜防風、イワタケ、花穂、タバ穂、ツクシ、ハナマル、菊、桜、梅、ランの花、メカンゾウ、バクダイカイ、ミョウガなどが使われる。
『けん』も『つま』も食べるものであり、また毒消しの意味も持つ。刺身のつまにも色々あるという訳ですが、やはり最も多用するのは大根のけんで、次に胡瓜や人参である。基本的に「かつらむきに」してから、けんを作る。大根にはアクがあるため、打ったけんはすぐに水に放ち、アクがぬけてパリっとするまで水で晒しアクが抜けたけんは、よく水切りして使用する。
吸い物は一般的な煮物椀に比べて出汁などを薄くしたり、出汁をまったく使わず潮汁として椀種の味と季節感を強調し、これに木の芽やゆずなどでアクセントが加えられる。新鮮な獣や鳥の肉・魚肉を切り取って生のまま食べることは人類の歴史とともに始まったと言ってよいが、人類の住むそれぞれの環境に応じて生食の習慣は或いは残り、或いは廃れていった。
日本は四方を海に囲まれ、新鮮な魚介類をいつでも手に入れられるという恵まれた環境にあったため、魚介類を生食する習慣が残った。即ち「なます(漢字では「膾」、または「鱠」と書く)」である。
「なます」は、新鮮な魚肉や獣肉を細切りにして調味料を合わせた料理で「なます」の語源は不明だが「なましし(生肉)」、「なますき(生切)」から転じたという説がある。一般には「生酢」と解されているが、それは調味料としてもっぱら酢を使用するようになったことによる付会の説であり、古くは調味料は必ずしも酢とは限らなかった。この伝統的な「なます」が発展したものが刺身である。なお「鱠」は、あくまでも文献上は古代中国の膾が先行するが、元々原始的で単純な料理でもある上、中国では海を化外の地(けがいのち)と呼び、忌み嫌う価値観が存在することと、肉や野菜を生食する習慣は疫病の流行などで早くに廃れたので、日本の「なます」は独自に発生、発達したと見るのが自然である。