元々、武士は大饗料理の催した貴族の従者で、その振舞として芋粥に預かったという話が、芥川龍之介の小説『芋粥』で、その原話は平安時代の『今昔物語集』に見える。つまり初期の武士は貴族のいわばボディガードであったが、やがて貴族の権力を凌駕し、平清盛の平氏政権や源頼朝の鎌倉幕府が成立をみて、武家が政治の表舞台へと躍り出ていくこととなる。これに呼応する形で、武家も独自の料理様式を模索したが、その完成にはかなり長い時間を要した。
鎌倉時代には、将軍によって垸飯という料理が振る舞われたが、これは貴族の大饗料理の一部を切り取ったに過ぎず、武家の文化は貴族の文化の後追いでしかなかった。なお鎌倉幕府は、初めは関東を中心とした地方政権とも見なすべきもので、南北朝期に後醍醐天皇が一時政権を奪取したが、基本的には南北朝を統一した室町幕府によって、武家が実質的な全国の支配者になったと考えて良い。まさに武家の料理文化も、この室町時代に新たな様式としての本膳料理が登場をみることになる。
この本膳料理は、大饗料理の儀式的要素と精進料理の技術的要素とが組み合わされたもので、ここに本格的な料理様式が成立をみた。しかも膳を用いて、七五三という奇数の膳組を基本とするところから、極めて日本的な要素が高いとみなすことができる。すなわち中国では、大饗料理のように卓に料理が盛られて、その皿数は偶数であったが、本膳料理では銘々に膳が用いられ、奇数の料理を据えて箸のみが使われるようになった。膳は朝鮮半島・沖縄で使用されており、椅子を伴わない座居の文化を基礎とする地域に広まった。
本膳料理の構成は、酒を中心とした献部と食事を主とする膳部とからなり、膳には汁が伴っている点が注目される。そして儀礼的要素が強い式三献に始まり、初献・二献・三献と続いた献部のあと、七五三の膳という膳部に移り、与(四)献以後、一七献あるいは二一献という献部が再び続いて全てが終了する。こうした本膳料理が供される御成などの饗宴では、後半の献部ごとに能が演じられ、全体が終わるまでには夜を徹することになる。
室町時代以降の非常に盛大な饗宴には、こうした本膳料理が供されたが、これは大饗料理と同様に前々から作りおかれた。従って儀式料理としての性格が強く、膳や皿の一部には金銀での装飾も施され、華々しい雰囲気のなかで食事が楽しまれた。まさに新しい日本料理が出現したことになるが、奇数の膳形式に限らず、料理内容についても日本料理の原型が完成をみた。つまり本膳料理に伴う汁に象徴されるように、その出汁の基本にカツオと昆布が用いられている点に注目する必要がある。こうした出汁の完成は、三陸以北とくに北海道で取れる昆布を前提とするもので、非常に広域な商品の流通網が、この時期に成立していたことを示している。またカツオ節の登場も室町時代のことで、まさに今日の日本料理の基礎が、本膳料理によって確立したことになる。
こうした料理発展に伴い、その技術を伝承し磨きをかける料理の家が成立をみた。つまり武家料理流派の誕生で、旧来の公家系のそれを伝えた四条流に加えて、大草流・進士流・山内流など武家の料理流派の家々であった。そこでは故実や作法を含む料理技術が追求され、それを秘事口伝という形で伝えたが、その一部がそれぞれの流派内で料理書として残った。
先にも述べたように、本膳料理は儀式用であり作り置きが当然であったため、料理そのものは豪華でも冷めた状態で食べなければならなかった。これは真に美味しい料理を味わうというよりは、儀式の中で、それぞれの身分に応じた料理を食することに意味があった。すなわち本膳料理が供されるような儀式の場では、身分秩序が重要な要素を占め、振る舞われる料理数や座席の位置関係が大きく作用した。身分により料理内容が異なるのは大饗料理ではより著しく、それは自らの社会的位置関係を物語るものであった。
こうした堅苦しく延々と続く本膳料理ではなく、その一部の美味しい部分を自由に楽しもうとして発展をみたのが懐石料理である。従って懐石料理は本膳料理の一部を切り取ったようなものであったが、基本的には料理を楽しむということに力点が置かれている。さらに懐石料理は茶の湯の発達に伴うもので、茶会でお茶を最も美味しく楽しもうとする精神から生まれた点が重要であろう。とくに茶の湯は禅院の茶礼と関係が深く、精進料理の系譜にも繋がっており、味覚面のみならず精神面も重視された。
元々、茶会では闘茶、すなわち賭け茶が流行するとともに、茶そのものよりも酒が優先される場合も少なくなかった。そこに精神面を重んじた珠光や武野紹鴎らが出て、茶の湯の形が整えられていったが、戦国時代後期に千利休が、茶会の最後に行われる酒宴の場である後段を切り捨てることで完成をみた。一汁三菜程度の料理を基本としたが、茶の湯では一期一会という精神が強調されたことから、その場その場での出会いを大切にするという精神が、料理そのものの内容にも大きな影響を与えた。懐石料理で季節性を重んじて旬の素材に拘るのは、そうした理由からであった。
さらに、その茶会の一時を大切にするため、食器にも心を配り盛り付けにも気を使った。こうして季節感のみならず色鮮やかな料理や食器の配置、合理化された作法によるもてなしのほか、料理を味わう空間のしつらえにも最善を尽くした。もちろん暖かいものを暖かいうちに戴けるように、料理を出すタイミングにも充分な計算が施されている。こうして、世界的にも評価の高い懐石料理が生まれたのである。
なお懐石の語は、利休の時代には用語としては使われず、むしろ会席の方が一般的であった。ところが近世後期になると、後にみるように大都市には高級料理屋が出現し、そこで会席料理が供されるようになる。しかし、この会席料理は茶の湯とは無関係であった。より正確にいうなら、戦国時代に成立した懐石料理から茶の湯の要素を切り捨てたのが、近世の会席料理とみなしてよい。つまり数人が料理屋に出かけて注文し、会席という形で酒を飲み歓談しながら味わう料理が、会席料理であったということになる。
懐石の故事とは、禅の修行僧が温石を懐にして身体を暖め空腹を凌いだという逸話に由来するもので、茶事で供される軽い食事を懐石と称したことに因む。これは江戸も元禄期に入って広く読まれた『南方録』に見える語で、しかも利休が語ったことを記したとされる同書は、現在では偽書であったことが指摘されている。やや紛らわしい話ではあるが、戦国時代に生まれた茶の湯に伴う料理様式を「懐石料理」とし、近世後期に出現した料理屋で供されるものを「会席料理」と呼ぶこととしたい。
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