○建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)。御雷(みかづち)を書紀では甕槌(みかづち)と書いてある。どちらも借字で、「みか」は「いか」に通う。「いか」は「厳矛」【舒明紀に「いかしほこ」と読む、とある。】
「重日」【皇極紀に「いかしび」と読む、とある。】「伊賀志御世(いかしみよ)」【祝詞】、また「いかめし(厳めしい)」、「いかし(厳し)」など【源氏物語葵の巻に「たけくいかきひたぶる心いできて」、また手習の巻に「いかきさまを人に見せむとおもひて」などがある。】の「いか」である。それが「みか」とも通じるというのは、遷却祟神(たたりガミをウツシやる)の祝詞にこの神を「建雷(たけいかづち)の命」と言っているのが一例である。【「みかづち」は「いかづち」と通う例である。】
また「厳(いか)」が「みか」と通じる例としては、書紀の仁徳の巻の歌に「瀰箇始報、破利摩波揶摩智(みかしお、ハリマはやまち)云々」とあるが、この「みかしお」は「速待(はやまち)」の枕詞であって「厳めしい潮の速い」、と意味が連結するのである。【これを「三日潮」とする説があるが、それは間違っている。】
書紀に出る「甕星(みかほし)」も「厳星」の意で【天津甕星は悪神で、天孫降臨の障害となったので、最初に殺されたということから、厳めしい神であったと分かる。】「甕栗(みかくり)」も「厳栗(いかくり)」である。この甕速日以外も、神名や人名に「甕」と言う場合はみな「厳」の意味と考えるべきである。「つち」は既に野椎命のところで述べた。【「雷」の字の意味にとらわれて考えると、思い違いをしてしまう。】
○建布津神(たけふつのかみ)、豊布津神(とよふつのかみ)。布津(ふつ)については、白檮の宮(神武天皇)の段【伝十八の五十一葉】で述べる。延喜式神名帳には、阿波国阿波郡に建布津神社が掲載されている。
○このくだりは、書紀に異伝がある。一書に「剣の刃から滴った血が天安河辺(あめのやすかわら)の五百箇(いおつ)の石の群になり、これが經津主(ふつぬし)神の先祖である」、また「その甕速日神は武甕槌(たけみかづち)神の先祖である」、また一書には「磐裂神、次に根裂神、その子磐筒男神、磐筒女神、その子經津主神」【神代下巻の本文にも「磐筒男神と磐筒女神が生んだ子、経津主神」】ともあり、下巻【神代】の本文にも甕速日神の子「熯速日(ひはやび)神」、その子武甕槌神、と書いてある。これらの伝承は、大体のところは似ているが、経津主と武甕槌を別神とした点で大きく異なる内容である。後の段で、高天の原からこの御国に天孫を言向け降ろす際にも、書紀では経津主と武甕槌を二柱として書く。【遷却祟神の祝詞も書紀と同じ。】
古事記には、そのところでも建御雷一柱だけで、その他に経津主という神は登場しない。それは、ここで建御雷のまたの名を建布津、豊布津とも言っており、その経津主は建御雷そのものだからである。さらにその証拠を挙げるなら、その【書紀の】神武の巻、高倉下(たかくらじ)の夢のくだりで、天照大神が武甕槌神に神武を援助しに行くよう命じたところ、武甕槌神は「私の剣は韴霊(ふつのみたま)という」云々とある。もし書紀神代巻の通り、武甕槌と経津主が別の神だったら、夢には二柱の神が見えていたはずなのに、そういうわけでもない。また、この剣の名を韴霊(ふつのみたま)と言うからには、経津主の神の剣ということで、その神こそ夢に現れるはずが、そうでなく武甕雷が「わが剣」と言って授けたというのは、武甕雷がすなわち経津主だったということではないのか。【ということは、書紀は神代巻と神武の巻とで言っていることが合わないわけだ。神武の巻の話は、この記と合致する。経津主という名前は、この刀から出た。旧事紀は、この剣の名を「布津主神の魂の刀」と書く。旧事紀は信ずるに足りない書物だが、この名については、他によりどころがあるなら採用できる。】
また出雲国造の神賀詞(かむよごと)には「天夷鳥命爾布都怒志命乎副天、天降遣天(あめヒナトリのミコトにフツヌシのミコトをそえて、アメクダシつかわして)」とあって、建御雷の名が見えないのも、一つの神だからであろう。ところが古語拾遺では、これらの神を書紀と同じように別の神としてあり「經津主神は下総国の香取の神である」と言い「武甕雷神は常陸国の鹿嶋の神だ」と言う。【これは書紀に「斎主神(いわいぬしのかみ)、今在2乎東國楫取之地1也(いまアズマのクニかとりのトコロにイマス)」とあるのに依ったのだろう。ここでは斎主という神が経津主神なのか武甕雷神なのか書かれておらず、どちらとも取れるのに、このように定めたのは何か根拠があるのだろうか。続日本後紀五や、春日祭の祝詞などにも、鹿嶋を建御賀豆智(たけみかづち)神、香取を伊波比主(いわいぬし)神とだけ言って、経津主神が登場しない。もっとも、ここに経津主神が出て来ても、建御雷の別名とするのに支障はない。】
宝亀八年に、この二つの宮に神階を授けたが鹿嶋は正三位、香取は正四位上であった。これは、これらの神が本来一つの神だったが、鹿嶋はその全体を祭り【神号も建御雷と言い伝えて】位も高く、香取は別にその斎主という御魂を祭るので【神号も伊波比主命と言い伝えて】位がやや低いのであろう。これが別の神であったら、書紀の記載によると、まるで経津主神が将軍、建御雷が副将軍のように書かれているので、鹿嶋・香取二社の位の高低と一致しない。
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