中世までは、これまで述べてきたような料理様式を楽しむ場所が限定されていた。すなわち大饗料理は高級貴族、精進料理は寺院の僧侶、本膳料理は武士の間で、それぞれ儀式の際に味わうに過ぎなかった。また懐石料理にしても、決められた日時に定まった武将や豪商などの茶人が食しただけで、いつでも自由に料理が楽しめたわけではない。さらに言えば「自由」という言葉自体、中世までは勝手すぎるというマイナスの意味で用いられていた。
ところが、戦国の時代が終わると安定的な社会が訪れた。天下を統一して、近世の入り口を創り上げた豊臣秀吉は、全国に「平和令」を発布し大名のみならず村レベルでの争いを停止させ、海賊行為をも強く禁じた。秀吉の前に、織田信長が出した楽市楽座令のおかげもあって、商業の自由化が著しく進行した。これに加えて徳川家康が開いた江戸幕府が、五街道や東西航路の整備を図ったことで、全国の流通網が確立をみた。
こうした物資の自由な流通条件という社会的背景の整備とともに、いつでも料理を自由に楽しむことのできる料理屋が発展をみた。中世までは、寺社の門前などでの一服一銭程度の飲食物の販売はあったが、外で料理を口にしうるような施設はなかった。先にも述べたように、あくまでも儀式や茶会の際に、それが供されるだけであった。金銭を代償に料理を味わうための料理屋は、中世には存在しなかった。
ところが江戸時代に入ると、飲食を楽しむ料理屋が出現をみることになる。それは初めからの専業施設ではなく、京都東山の時宗寺院などで、代金を取ってその一室を貸し出し、そこで料理を提供するようになった。料理人たちが寺院の庫裡で腕をふるい、貸し出された特別な部屋で、金を出して集まった人々が料理を楽しんだのである。
また、料理界でも大きな革新が進んだ。中世以来の料理流派の知識や技術は、近世の将軍家や大名家などの料理人の間にも伝えられたが、そうした知識が一般に公開されるようになった。それは料理書の出版というシステムによるもので、江戸時代に入ると実に様々な書籍が刊行された。寛永20(1643)年、『料理物語』という料理書が、初めて出版されるところとなった。これにより、料理の家に秘伝された料理の知識と技術が、誰でも代金さえ払えば自由に手に入れることが可能となった。
この料理書は、すでに慶長年間に成立しており、原題には『料理秘伝抄』という書名が付されていたが、まさに秘伝を出版してしまったところに大きな意義があった。しかも、そのあとがきには「庖丁きりかたの式法によらず」とあり、それまで様々な約束事が多かった料理流派の世界から離れ、全く自由に料理を楽しもうとする心意気が感じられる。この『料理物語』とほぼ同時期に刊行された『料理切方秘伝抄』は、実は天皇家・公家の庖丁を司った四条流の料理書で、もっとも権威あるとされた秘伝書まで出版されるようになった。
そして近世に入ると、全国規模における物資の流通が盛んになり、様々な食材が手に入るようになった。このため全国各地の名産物なども、書物などを通じて知られるようになり、食品や料理の幅が急速に広まった。こうして近世には、料理屋の料理にしても料理技術にしても、金銭を媒介とすれば自由に楽しめる時代が来たのである。
こうして近世における自由な料理の指標となったのが料理書と料理屋であったが、これらは都市の料理文化を象徴するものでもあった。それゆえ、それぞれの発展過程をみることで、近世の都市における料理文化の特質を窺うことができる。先の『料理物語』に代表されるように、寛永期頃から料理書の出版が始まったが、元禄期頃になると非常にボリュームのあるものが出版されるようになる。これらは、いわば料理百科全書ともいうべき性格を有し、季節の素材から月々の献立、さらには取り合わせや料理法など、料理を様々な視点から解説したもので、料理に関するあらゆる知識を提供するものであった。ただ、これらの読者は一般の人々ではありえず、やはり料理のセミプロ的な人間と考えるべきだろう。そして彼らは、豪商に雇われたりするなど民間で腕をふるって、料理屋以外の場でも自由な料理の提供に大きな役割を果たした。ただ近世前期の料理書は、あくまでも知識・技術の伝達書で専門的な性格が強かったが、近世後期になると料理書よりは「料理本」とでも呼ぶべき性格が強くなる。つまり読んで楽しむ料理本として、ハンディで気軽な読み物であることが意識されるようになった。
またセミプロではなく、一般の人々が手軽に料理を楽しむという傾向が著しくなる。その代表格が、18世紀後半の宝暦~天明年間に刊行された『豆腐百珍』に代表される百珍物であった。『豆腐百珍』は、それまでの料理書とは全く発想が異なって素材を豆腐のみに限り、代わりに100種類の豆腐料理を伝えるほか、豆腐に関する和漢の文献を引いて料理に関する知識も提供している。さらに19世紀に入ると、文化・文政年間の『素人庖丁』、『料理早指南』あるいは『料理通』など、実に様々な料理本が刊行されている。
『素人庖丁』、『料理早指南』などは、題名から想像されるように一般人に料理を教えるもので、この時期には庶民自らが料理を作って楽しむ文化が根付きつつあったことが窺われる。また『料理通』は、後にも述べるように文化・文政年間に江戸一番の名声が高かった料理屋・八百善の料理を中心に記したもので、当代一流の文人たちが詩文や書画を寄せている。ちなみに同書自体が江戸土産として、地方の人々が持ち帰えられている。一方、料理屋については、近世初期にも煮売・焼売程度のものであれば、寺社の門前のほか盛り場や交通の要所で商売が行われていた。先にも述べたように、初めは京都の寺院で料理の提供が始まり、やがて町中にも料理茶屋が誕生したものと思われる。これにやや遅れて、江戸でも元禄年間になると市中の各所に料理茶屋が出現した。江戸最大の盛り場であった浅草の金龍山浅草寺の門前に、綺麗な器を用いて奈良茶漬けを食べさせる店が生まれて、大評判を呼んだ旨が諸書に記されている。
やがて浅草に限らず江戸市中の盛り場に、そうした料理茶屋が立ち並ぶようになっていった。ただ、それが本格化するのは江戸後期のことで、とくに料理本の刊行が盛んになり始める宝暦~天明年間になると、高級料亭さえ現れるようになった。さらに料理文化が最も発達をみた文化・文政年間には、先の『料理通』を執筆した栗山善四郎の営む高級料理屋・八百善が、江戸で大繁盛を極めるに至った。ここには人気を誇る文人や画家のほか、幕府の高級役人から地方の富裕層までがしばしば訪れ、大いに料理を楽しんでいた。八百善は値段が高いのも並外れていたが、さすがに評判も高く『料理通』の出版との相乗効果もあり、高級料亭として人気を博した。まさに多くの客が自ら代価を払って自由に料理を楽しむという食文化が、18世紀後半から19世紀前半にかけて全盛を迎え、最高潮に達していたのである。
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