信州には海がないため塩を生産することができず、かつては日本海から塩売りがやってきていた。各地を回って売り歩いていると、ちょうどこの近辺で品切れになるため「塩尻」という名前がついたと言われている。
また、日本海側と太平洋側からそれぞれ塩が運ばれてくると、この辺りで両者が合流することから、塩の道の終点=塩尻という説もある。この説に沿う地名として小県郡塩尻村(現:上田市)がある。
なお塩尻市の見解は、定説はないとしつつも上杉氏が武田氏に塩を送った義塩伝説、食塩を由来とする説、地質・地形からなる説の三つを挙げている。
かつては、塩の旧字である鹽を用いて「鹽尻(しおじり)」とされた。江戸時代は塩尻宿や洗馬宿などが、中山道や北国西街道の宿場町として栄えた。明治時代、塩尻宿から約2km西方線が交わる交通の要衝であった。
塩尻市の地名の由来
塩尻の地名については「食塩」の流通に由来する説と「地質」に由来する説等がある。
1.伝説
かつてこの地を支配した武田信玄が、敵対する今川氏などから塩の輸送を止められた際、越後の上杉謙信が塩を送ったという「義塩伝説」に基づくもの。(越後:糸魚川→(千国街道)松本→塩尻)
2.食塩を由来とする説(1)
「食塩移入路の終点」の意。塩尻市は、糸魚川から送られてくる日本海産の塩(北塩)の供給路の終点で、松本藩の塩留番所があり、塩尻から塩尻峠を越した南の地域へは、北塩は供給されていなかった。
2.食塩を由来とする説(2)
「伊勢物語」東下りの一説に、富士山が塩尻(塩田で潮水の水分を蒸発させ、砂を丸く高く積み上げた形。又は塩の山の上を摘んで取った形)のようだということから、富士山の見える所を塩尻と呼んだという説。中山道を歩いて京から江戸へ向かう旅人が、峠から見た富士山の姿が塩尻に似ていたことから、ふもとの集落を塩尻と呼ぶようになった。
3.地質地形からの説(1)
「シオ」の字のつく所は、一般に粘土質や赤土ローム層の所が多く、乾くと表面に白い粉状のものがつき、これをシオコビなどとも言う。塩尻とは、シオとも呼ぶ赤いローム層に覆われた桔梗ヶ原台地の終末点なので、塩尻と名づけられた。
3.地質地形からの説(2)
青粘土などの粘土質の底土をシホといい、周辺の粘土質は窪地へ流入して堆積し、青粘土ができます。「シホ」とは窪地をさし、窪地の端なので塩尻という説。いずれにしても、塩尻市は日本海側からは北塩が、太平洋側からは南塩が運ばれ、沿線のまちとの交流が古くからあった「塩の道」沿いのまちであった。
4.海から離れた信州へ入る塩は、日本海岸からの北塩と太平洋岸からの南塩があり、牛や馬の背により分水嶺や峠を越えて運ばれる。この北と南の塩の出会った地が塩尻とする説。
ポリネシア語による解釈
塩尻市と岡谷市の境に、かつて中山道が通っていた塩尻(しおじり)峠(999m)があり、信濃川水系と天竜川水系の分水嶺となっています。峠名は太平洋岸から運ばれる表塩と、日本海岸から運ばれる裏塩の終点にあたることによるとされます。また塩尻市の南部に、伊那郡辰野町へ抜ける三州街道の善知鳥(うとう)峠(856m)があります。
塩尻市の西部には、江戸時代に中山道から北国西街道(善光寺街道)が分岐する洗馬(せば)宿がありました。
「チオ・チリ」、TIO-TIRI(tio=cry,call;tiri=throw or place one by one,scatter)、「(あまりの険しさに)悲鳴を・上げる(峠。その峠がある地域)」
の転訛と解します。
0 件のコメント:
コメントを投稿