生没年
まず釈迦の没年の確定についてアショーカ王の即位年を基準とするが、仏滅後何年がアショーカ王即位年であるかについて、異なる二系統の伝承のいずれが正確かを確認する術がない。
釈迦に限らず、インドの古代史の年代確定は難しい。
日本の宇井伯寿や中村元は漢訳仏典の資料に基づき(北伝)、タイやスリランカなど東南アジア・南アジアの仏教国はパーリ語聖典に基づいて(南伝)釈迦の年代を考え、欧米の学者も多くは南伝を採用するが、両者には百年以上の差がある。なお『大般涅槃経』等の記述から、釈迦は80歳で入滅したことになっているので、没年を設定すれば自動的に生年も導けることになる。
主な推定生没年は、
紀元前624年 - 紀元前544年 : 南伝(上座部仏教)説
紀元前566年 - 紀元前486年 : 北伝「衆聖点記」説
紀元前466年 - 紀元前386年 : 宇井説
紀元前463年 - 紀元前383年 : 中村説
等があるが、他にも様々な説がある。
誕生から青年期
釈迦の父であるガウタマ氏のシュッドーダナは、コーサラ国の属国であるシャーキャのラージャで、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーである。2人の間に生まれた釈迦は、シッダールタと名付けられた。母のマーヤーは、出産のための里帰りの旅行中にルンビニで釈迦を生み、産褥熱でその7日後に死んだ。
誕生に関して「釈迦はマーヤーの脇の下から生まれた」という話と「生まれてすぐに7歩だけ歩いて、右手で天を、左手で地を指し『天上天下唯我独尊』と唱えた」という伝説とがある。シャーキャの都カピラヴァストゥにて、釈迦はマーヤーの妹プラジャーパティーによって育てられた。当時は姉妹婚の風習があったことから、プラジャーパティーもシュッドーダナの妻だった可能性がある。
釈迦はシュッドーダナらの期待を一身に集め、二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、教養と体力を身につけた、多感でしかも聡明な立派な青年として育った。
16歳で母方の従妹のヤショーダラーと結婚し、一子、ラーフラ をもうけた。なお妃の名前は、他にマノーダラー(摩奴陀羅)、ゴーピカー(喬比迦)、ムリガジャー(密里我惹)なども見受けられ、それらの妃との間にスナカッタやウパヴァーナを生んだという説もある。[要出典]
出家
当時のインドでは、後にジャイナ教の始祖となったマハーヴィーラを輩出するニガンタ派をはじめとして、順世派などのヴェーダの権威を認めないナースティカが、バラモンを頂点とする既存の枠組みを否定する思想を展開していた。釈迦が出家を志すに至る過程を説明する伝説に「四門出遊」の故事がある。
ある時、釈迦がカピラヴァストゥの東門から出る時老人に会い、南門より出る時病人に会い、西門を出る時死者に会い、この身には老いも病も死もある、と生の苦しみを感じた(四苦)。
北門から出た時に一人の沙門に出会い、世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、出家の意志を持つようになった。長男のラーフラが生まれた後、29歳の時に夜半に王宮を抜け出て、かねてよりの念願の出家を果たした。
出家してまずバッカバ仙人を訪れ、その苦行を観察するも、バッカバは死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。
次にアーラーラ・カーラーマのもとを訪れると、彼が空無辺処(あるいは無所有処)が最高の悟りだと思い込んでいるが、それでは人の煩悩を救う事は出来ないことを悟った。
次にウッダカラーマ・プッタを訪れたが、それも非想非非想処を得るだけで、真の悟りを得る道ではないことを覚った。この三人の師は、釈迦が優れたる資質であることを知り後継者としたいと願うも、釈迦自身はすべて悟りを得る道ではないとして辞した。
五比丘
そしてウルヴェーラー(ヒンディー語版)の林へ入ると、父のシュッドーダナは釈迦の警護も兼ねて5人の沙門(五比丘)を同行させた。そして出家して6年の間、苦行を積んだ。減食、断食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、心身を極度に消耗するのみで、人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。
その際、五比丘は釈迦が苦行に耐えられず修行を放棄したと思い、釈迦をおいてワーラーナシーのサールナートへ去った。
悟り
そこで35歳の釈迦は、全く新たな独自の道を歩むこととする。ガヤー地区のほとりを流れるリラジャン川で沐浴したあと、村娘のスジャータから乳糜の布施を受け気力の回復を図って、インドボダイジュの木の下で「今、悟りを得られなければ、生きてこの座をたたない」という固い決意で瞑想した。すると、釈迦の心を乱そうとマーラが現れ妨害が丸1日続いたが、釈迦はついにこれを退け(降魔)、悟りを開いた(正覚)。
仏教では、これを「降魔成道」といい、この日を記念して「成道会」を行うようになった。また、ガヤー地区は、釈迦が悟ってブッダになったことから、ブッダガヤと呼ばれて巡礼の対象となった。
この後、7日目まで釈迦はそこに座わったまま、動かずに悟りの楽しみを味わい、さらに縁起と十二因縁を悟った。
8日目に尼抱盧陀樹(ニグローダじゅ)の下に行き7日間、さらに羅闍耶多那樹(ラージャヤタナじゅ)の下で7日間、座って解脱の楽しみを味わった。
22日目になり再び尼抱盧陀樹の下に戻り、悟りの内容を世間の人々に語り伝えるべきかどうかを、その後28日間にわたって考えた。その結果「法 (仏教)を説いても、世間の人々は悟りの境地を知ることはできないだろうから、語ったところで徒労に終わるだけだろう」との結論に至った。
ところが梵天が現れ、衆生に説くよう繰り返し強く請われた(梵天勧請)。3度の勧請の末、自らの悟りへの確信を求めるためにも、ともに苦行をしていた五比丘に説こうと座を立った。
釈迦は彼らの住むワーラーナシーまで、自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。ワーラーナシーのサールナートに着くと、釈迦は五比丘に対して法の方法論、四諦と八正道を彼らに実践的に説いた。これを初転法輪という。
この五比丘は、当初は釈迦は苦行を止めたとして蔑んでいたが、説法を聞くうちコンダンニャがすぐに悟りを得たので、釈迦は喜んだ。法を説き終えて、釈迦は「世に6人の阿羅漢あり。その1人は自分である。」と言い、ともに同じ悟りを得た者と言った。
出典 Wikipedia
出典 Wikipedia
右手で天をさし左手で地をさし、私はアルファでありオメガであるとイエスは言ったが、煩悩を断てなどもまったく同じ思想なのでどちらかが影響を受けているような
返信削除修行中に悪魔の誘惑をうけて打ち勝つところも同じですね
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