教化と伝道
釈迦は、ワーラーナシーの長者ヤシャスやカピラヴァストゥのプルナらを教化した。その後、ウルヴェーラ・カッサパ、ナディー・カッサパ、ガヤー・カッサパの3人(三迦葉)は、釈迦の神通力を目の当たりにして改宗した。当時、この3人はそれぞれがアグニを信仰する数百名からなる教団を率いてため、信徒ごと吸収した仏教教団は1000人を超える大きな勢力になった。
釈迦はマガダ国の都ラージャグリハに行く途中、ガヤー山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と言い、煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えた。釈迦がラージャグリハに行くと、マガダ国の王ビンビサーラも仏教に帰依し、ビンビサーラは竹林精舎を教団に寄進した。
このころシャーリプトラ、マウドゥガリヤーヤナ、倶絺羅、マハー・カッサパらが改宗した。
以上が、おおよそ釈迦成道後の2年ないし4年間の状態であったと思われる。この間は大体、ラージャグリハを中心としての伝道生活が行なわれていた。すなわちマガダ国の群臣や村長や家長、それ以外にバラモンやジャイナ教の信者が段々と帰依した。このようにして教団の構成員は徐々に増加し、ここに教団の秩序を保つため様々な戒律が設けられるようになった。
舎衛城の祇園精舎
これより後、最後の1年間まで釈迦がどのように伝道生活を送ったかは充分には明らかではない。経典をたどると、故国カピラヴァストゥの訪問によって、釈迦族の王子や子弟たちであるラーフラ、アーナンダ、アニルッダ、デーヴァダッタ
、またシュードラの出身であるウパーリが先んじて弟子となり、諸王子を差し置いてその上首となるなど、釈迦族から仏弟子となる者が続出した。
またコーサラ国を訪ね、ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばした。たとえばクル国 (kuru) のカンマーサダンマ (kammaasadamma) や、ヴァンサ国 (vaMsa) のコーサンビー (kosaambii) などである。
成道後14年目の安居は、コーサラ国のシュラーヴァスティーの祇園精舎で開かれた。このように釈迦が教化・伝道した地域をみると、ほとんどガンジス中流地域を包んでいる。アンガ (aGga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、マトゥラー (mathuraa)、コーサラ (kosala)、クル (kuru)、パンチャーラー (paJcaalaa)、ヴァンサ (vaMsa) などの諸国に及んでいる。
最晩年の記録
釈迦の伝記の中で、今日まで最も克明に記録として残されているのは、死ぬ前の1年間の事歴である。漢訳の『長阿含経』の中の「遊行経」とそれらの異訳、またパーリ所伝の『法華経、大般涅槃経』などの記録である。
シャーキャ国の滅亡
涅槃の前年の雨期は、舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。釈迦最後の伝道は、ラージャグリハの竹林精舎から始められたといわれているから、前年の安居を終わって釈迦はカピラヴァストゥに立ち寄り、コーサラ国王プラセーナジットの訪問をうけ、最後の伝道がラージャグリハから開始されることになった。このプラセーナジットの留守中、プラセーナジットの王子ヴィルーダカが挙兵して王位を簒奪した。
そこでプラセーナジットは、やむなく王女が嫁していたマガダ国のアジャータシャトルを頼って向かったが、城門に達する直前に死んだ。ヴィルーダカは即位後、即座にカピラヴァストゥの攻略に向かった。この時、釈迦は、まだカピラヴァストゥに残っていた。
釈迦は、故国を急襲する軍を道筋の樹下に座って三度阻止したが、宿因の止め難きを覚り、四度目にしてついにカピラヴァストゥは攻略された。このヴィルーダカも河で戦勝の宴の最中に、洪水または落雷によって死んだ。釈迦は、カピラヴァストゥから南下してラージャグリハに着き、しばらく留まった。
自灯明・法灯明
釈迦は多くの弟子を従え、ラージャグリハから最後の旅に出た。アンバラッティカ(パ:ambalaTThika)へ、ナーランダを通ってパータリ村(後のパータリプトラ)に着いた。ここで釈迦は、破戒の損失と持戒の利益とを説いた。釈迦は、このパータリプトラを後にして増水していたガンジス河を無事渡り、コーティ村に着いた。
次に釈迦は、ナーディカ村を訪れた。ここで亡くなった人々の運命について、アーナンダの質問に答えながら、人々に三悪趣が滅し預流果の境地に至ったか否かを知る基準となるものとして、法の鏡の説法をする。
次にヴァイシャーリーに着いた。ここはヴァッジ国の首都であり、アンバパーリーという遊女が所有するマンゴー林に滞在し、四念処や三学を説いた。やがて、ここを去ってベールヴァ(Beluva)村に進み、ここで最後の雨期を過ごすことになる。
すなわち釈迦は、ここでアーナンダなどとともに安居に入り、他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。この時、アーナンダは釈迦の病の治ったことを喜んだ後「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、心を安らかに持つことができました」と言った。
これについて釈迦は、“比丘僧伽は私に何を期待するのか。私はすでに内外の区別もなく、ことごとく法を説いた。阿難よ、如来の教法には、あるものを弟子に隠すということはない。教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。”と説き、すべての教えはすでに弟子たちに語られたことを示した。
“だから、汝らは、みずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とすることのないように”
と訓戒し、また「自らを灯明とすこと・法を灯明とすること」とは具体的にどういうことかについて、“では比丘たちが自らを灯明とし…法を灯明として…(自灯明・法灯明)ということはどのようなことか?
阿難よ、ここに比丘は、身体について、感覚について、心について、諸法について、(それらを)観察し(anupassii)、熱心に(aataapii)、明確に理解し(sampajaano)、よく気をつけていて(satimaa)、世界における欲と憂いを捨て去るべきである。”
“阿難よ、このようにして比丘はみずからを灯明とし、みずからを依処として、他人を依処とせず、法を灯明とし、法を依処として、他を依処とせずにいるのである”として、いわゆる四念処(四念住)の修行を実践するように説いた。これが有名な「自灯明・法灯明」の教えである。
出典 Wikipedia
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