2018/11/30
原始仏教の教理(釈迦の思想10)
孝昭天皇
孝昭天皇(こうしょうてんのう、懿徳天皇5年 - 孝昭天皇83年8月5日)は、日本の第5代天皇(在位:孝昭天皇元年1月9日 - 孝昭天皇83年8月5日)。
和風諡号は、『日本書紀』では「観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)」、『古事記』では「御真津日子訶恵志泥命」。
『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。
漢風諡号である「孝昭」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。
和風諡号である「みまつひこ-かえしね」のうち、「みまつひこ」は後世に付加された美称、末尾の「ね」は神名の末尾に付く「ね」と同義と見られる。このことから、孝昭天皇の原像は「かえしね(香殖稲/訶恵志泥)」という名の古い神であって、これが天皇に作り変えられたと推測されている。
系譜
(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)
父は第4代懿徳天皇。母の記載は記紀で異なり、『日本書紀』では息石耳命の娘の天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)、『古事記』では師木県主の祖の賦登麻和訶比売命(ふとまわかひめ)とする。
兄弟として、同母弟に武石彦奇友背命(多芸志比古命)がいる。
妻子は次の通り。
皇后:世襲足媛尊(よそたらしひめのみこと、余曽多本毘売命)
『日本書紀』本文・『古事記』による。尾張連祖の瀛津世襲(奥津余曽)の妹。
ただし、同書第1の一書では磯城県主葉江の娘の渟名城津媛、第2の一書では倭国豊秋狭太媛の女の大井媛とする。
第一皇子:天足彦国押人命 (あめたらしひこくにおしひとのみこと、天押帯日子命) - 和珥臣・春日氏・小野氏等諸氏族の祖。
第二皇子:日本足彦国押人尊 (やまとたらしひこくにおしひとのみこと、大倭帯日子国押人命) - 第6代孝安天皇。
『日本書紀』『古事記』とも事績に関する記載はない。
『日本書紀』によると、懿徳天皇22年2月12日に立太子。懿徳天皇34年9月8日の父天皇の崩御を受け、崩御の翌年(孝昭天皇元年)1月9日に即位。そして孝昭天皇元年7月に宮を掖上池心宮に遷した。
その後、孝昭天皇83年8月5日に在位83年にして崩御した。時に『日本書紀』では113歳、『古事記』では93歳という。孝安天皇38年8月14日、遺骸は「掖上博多山上陵」に葬られた。
宮
宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では掖上池心宮(わきのかみのいけごころのみや)、『古事記』では葛城掖上宮。
宮の伝説地は、現在の奈良県御所市池之内周辺と伝承される。同地には「掖上池心宮阯」碑が建てられている。この説は、『日本書紀』推古天皇21年(613年)11月条に造られた「掖上池」の所在地を付近に想定したことによる。実際に掖上池が「掖上池心宮」の宮名の由来であったとすれば、宮の語り出しが推古朝の造池以後になると指摘される。
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、奈良県御所市大字三室にある掖上博多山上陵(わきのかみのはかたのやまのえのみささぎ、位置)に治定されている。公式形式は山形。俗称「博多山」(山形墳)。
陵について『日本書紀』では前述のように「掖上博多山上陵」、『古事記』では「掖上博多山上」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「掖上博多山上陵」として兆域は東西6町・南北6町、守戸5烟で遠陵としている。しかし後世に所伝は失われ、元禄の探陵で現陵に治定された。
また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において、他の歴代天皇・皇族とともに孝昭天皇の霊が祀られている。
2018/11/29
12神以外の主要神(ギリシャ神話45)
2018/11/23
境岡の宮の巻【懿徳天皇】
口語訳:大倭日子鉏友命は軽の境岡の宮で天下を治めた。この天皇が師木の縣主の祖、賦登麻和訶比賣命、またの名は飯日比賣命を娶って生んだ子は、御眞津日子訶惠志泥命、次に多藝志比古命である。<二柱>
この天皇の漢風諡号は懿徳天皇である
口語訳:御眞津日子訶惠志泥命は天下を治めた。次に當藝志比古命は、<血沼之別、多遲麻之竹別、葦井之稻置の先祖である。>
天皇御年肆拾伍歳。御陵在2畝火山之眞名子谷上1也。
訓読:このスメラミコトみとしヨソヂマリイツツ。みはかはウネビヤマのマナゴダニのえにあり。
口語訳:この天皇は崩じたとき、四十五歳だった。御陵は畝傍山の眞名子谷の付近にある。
御年肆拾伍歳(みとしヨソヂマリイツツ)。書紀には「三十四年秋九月甲子朔辛未、天皇は崩御した」とあるだけで、年齢は記されていない。【ただし父の天皇の十一年、皇太子は年十六】とあるのによると、七十七歳になる。
2018/11/22
アレクサンドロス3世(2)
出典 Wikipedia