縁起(えんぎ、梵: pratītya-samutpāda, プラティーティヤ・サムトパーダ、巴: paṭicca-samuppāda,
パティッチャ・サムッパーダ)とは、仏教の根幹をなす発想の一つで「原因に縁って結果が起きる」という因果論を指す。
開祖である釈迦は
「此(煩悩)があれば彼(苦)があり、此(煩悩)がなければ彼(苦)がない、此(煩悩)が生ずれば彼(苦)が生じ、此(煩悩)が滅すれば彼(苦)が滅す」
という、煩悩と苦の認知的・心理的な因果関係としての此縁性縁起(しえんしょうえんぎ)を説いたが、部派仏教・大乗仏教へと変遷して行くに伴い、その解釈が拡大・多様化・複雑化して行き、様々な縁起説が唱えられるようになった。
仏教の縁起は、釈迦が説いたとされる
「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」
「此があれば彼があり、此がなければ彼がない、此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す」
という命題に始まる。
これは上記したように、煩悩と苦の因果関係としての此縁性縁起(しえんしょうえんぎ)であり、それをより明確に説明するために、十二因縁(十二支縁起)や四諦・八正道等も併せて述べられている。
部派仏教の時代になると、膨大なアビダルマ(論書)を伴う分析的教学の発達に伴い、衆生(有情、生物)の惑業苦・輪廻の連関を説く業感縁起(ごうかんえんぎ)や、現象・事物の生成変化である有為法(ういほう)としての縁起説が発達した。
大乗仏教においては、中観派の祖である龍樹によって、説一切有部等による「縁起の法」の形式化・固定化を牽制する格好で、徹底した相互依存性を説く相依性縁起(そうえしょうえんぎ)が生み出される一方、中期以降は唯識派の教学が加わりつつ、再び衆生(有情、生物)の内部(すなわち、「仏性・如来蔵」、「阿頼耶識・種子」の類)に原因を求める縁起説が発達していく。
7世紀に入り密教(金剛乗)の段階になると、曼荼羅に象徴されるように、多様化・複雑化した教学や諸如来・菩薩を、宇宙本体としての大日如来を中心に据える形で再編し、個別性と全体性の調和がはかられていった。
初期仏教
経典によれば、釈迦は縁起について
私の悟った縁起の法は、甚深微妙にして一般の人々の知り難く悟り難いものである。
— 『南伝大蔵経』12巻、234頁
と述べた。
また、この縁起の法は
わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。如来(釈迦)の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。如来(釈迦)は、この法を自ら覚し、等正覚(とうしょうがく)を成じ、諸の衆生のために分別し演説し開発(かいほつ)顕示するのみなり
と述べ、縁起はこの世の自然の法則であり、自らはそれを識知しただけであるという。
縁起を表現する有名な詩句として、『自説経』では
此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。
— 小部経典『自説経』(1, 1-3菩提品)
と説かれる。
この此縁性縁起(しえんしょうえんぎ)の命題は、「彼」が「此」によって生じていることを示しており、この独特の言い回しは、修辞学的な装飾や文学的な表現ではなく、前後の小命題が論理的に結び付けられていて「此があれば彼があり」の証明・確認が、続く「此がなければ彼がない」によって、「此が生ずれば彼が生じ」の証明・確認が「此が滅すれば彼が滅す」によって、それぞれ成される格好になっている。
既述の通り、この「此」と「彼」とは煩悩と苦を指しており、その因果関係は十二因縁等や四諦としても表現されている。
また、この因果関係に則り、煩悩を発見し滅することで苦を滅する実践法(道諦)として、八正道や戒・定・慧の三学等が、説かれている。
また、上記した人間の内面、心理的・認知的側面に焦点を当てた此縁性の他に
およそ生ずる性質のものは、全て滅する性質のものである
といった、後に部派仏教で(「不相応行法」を含む)有為法(ういほう)として分析対象となったり、大乗仏教で諸行無常の拡張的な意味として理解されるような、より広い意味での縁起も、初転法輪から『大般涅槃経』に至るまで、繰り返し述べられていることも、憶えておく必要がある。
(したがって、分別的に言えば、仏教には元々「縁起(現象)的現実」全般を表現する「有為法的な大きな縁起」と、人間(有情)の認知的・心理的な「煩悩と苦の因果関係としての此縁性的な小さな縁起」という、大きく分けて2種類の縁起説があるとも表現できるが、両者は「人間の認知的・心理的な縁起」も「縁起(現象)的現実」の一部・一環である」とか「「縁起(現象)的現実」も人間の認知的・心理的な縁起によって形作られたものに過ぎない」といったように、それぞれ一方が他方を包含・吸収できる関係にあるため、両者の区別は必ずしも自明ではない。実際、特に後世の大乗仏教においては、両者の区別は極めて曖昧になる。)
以上の初期仏教の内容をまとめると、ありのままの縁起(現象)的現実に対する無明(無知)に端を発する、煩悩や習慣を背景とした特定の事物・概念への愛着・執着(という本来的には誤認的・錯誤的な態度)によって、それが得られなかったり失われたりする(と錯覚した)自己原因的な苦しみ(苦)を繰り返す自縄自縛状態から抜け出すために、戒律によって習慣的態度を改め、禅定・観想を通して「自分の認知的なあり方」や縁起(現象)的現実に対する理解・知見(智慧)を深め、無明(無知)という根本的原因を克服し、自縄自縛の苦しみ(苦)の連鎖を断ち、そこから脱することの推奨ということになる。
特定の概念的認識への囚われから脱して、ありのままの縁起(現象)的現実を感得することが悟りであり、それによって生死・有無といった二辺の迷い・境涯を超えた解脱(再生の遮断)の境地に至った段階が、修行完成形態としての阿羅漢(果)と呼ばれる。
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