2020/09/20

コンスタンティヌス朝 ~ ローマ帝国(13)

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コンスタンティヌス朝 (A.D. 324 - A.D. 363)

アウグストゥスから五賢帝の時代にかけて、輝かしい姿を見せていたローマ帝国。しかし、セウェルス朝末期に元首政の限界を露呈し、軍人皇帝の時代に決定的に弱体化、テトラルキアの時期には、東方的色彩に染まってしまう。

 

元首政はまだ共和制の延長線上に存在したが、この頃のローマ帝国にはもはや、中央集権化された専制君主制がしっかりと根付いていた。帝国の変質は続くのだが、その決定打となるのが、この第五王朝たるコンスタンティヌス朝である。ローマ帝国幾度目の内乱、それを制したコンスタンティヌスにより、ローマ帝国はどんどん新しくなっていく。

 

帝国再編

全ローマ皇帝となったコンスタンティヌス1世(324 - 337年)により、再び1つの王朝による時代が幕を開けた。

 

コンスタンティヌス帝は、ディオクレティアヌスの改革路線を継承し、専制君主制をより強固なものとした。

 

その結果、ローマ帝国は4道、12管区、多数の属州という行政区に再編され、改めて軍政と民政が分離された。軍は、皇帝直属の軍(コミタテンセス)と国境軍(リミタネイ)に二分された。この頃ゲルマン人の入隊者が増加していたが、彼らは次第に指揮系統の頂点にある軍務長官(マギステル・ミリトゥム)に就くようになる。

 

キリスト教公認とその背景

しかし何もかもが、ディオクレティアヌス治世期と同じというわけではない。特にキリスト教徒への待遇がそれである。

 

この頃、帝国各地の街道では無償で手当てをしてくれる施設、キリスト教の教会が増えていた。見返りもなく治療をしてくれるキリスト教の教会は話題となり、そこに立ち寄った者や、その話を聞き訪れた者の多くは、感謝からキリスト教徒へと改宗していった。

 

そうした背景もあり、コンスタンティヌス帝は国内秩序を安定させるために、313年、ミラノ勅令でキリスト教を公認した。さらに、キリスト教の教会に多くの免許状を与え、財政上でも援助し、ローマ帝国のキリスト教化を推し進めた。

 

余談だが、これらの教会への特権付与が後々、キリスト教の総主教区である五本山(アンティオキア・アレクサンドリア・ローマ・イェルサレム・コンスタンティノポリス)の主教権拡大に繋がり、さらにはローマ教皇とコンスタンティノポリス総主教の対立にも結び付く。

 

このキリスト教化こそが、とくに非キリスト教圏で物議を醸す点である。様々な意見があるだろうが、ここではキリスト教化のメリットを挙げておく。

 

一神教と皇帝権を結びつけることで、専制君主制の安定化が期待できる

非常に重要。従来、ローマ皇帝は神格化された存在であるため、唯一神以外を神としないキリスト教徒の支持を得られなかった。したがって、皇帝権がその唯一神の認めるところとなれば、キリスト教徒であっても支持するだろうという打算は、当然ながらコンスタンティヌス帝にはあったはずである。

 

司教を目指すことで、軍務で出世できなくなった有力者にもチャンスが与えられる

上述したように、この頃の軍人はゲルマン人が主流となっていったため、軍の雇用・出世状況はあまり芳しくなかった。そのため、一種の社会保障といえるだろう。

 

キリスト教が帝国公認の教えとなった以上、秩序のためにもその教義は統一された方が望ましい。そういった事情から、コンスタンティヌス帝は325年にニカイア公会議で教義を再確認し、「神は子と聖霊の性質も併せ持つ」という、三位一体説のアタナシウス派を正統とした。否定されたアリウス派については、もはや何も言うまい。

 

コンスタンティヌス帝がキリスト教を帝国の公認宗教とし、地中海およびヨーロッパ世界でその居場所を確立したことは、後世のヨーロッパ史がキリスト教徒の側から記録されることを意味する。したがって、当然ながら彼はキリスト教徒の間では、コンスタンティヌス大帝と称される(宗派により、呼称はやや異なるが省略)。

 

遷都「新たなローマ」

トルコのアヤ・ソフィアコンスタンティヌス帝はまた、バルカン半島の東端であり、黒海と地中海を、そしてアジアとヨーロッパを繋ぐゆえ、貿易がおいしい都市ビザンティウムを新たなローマとし、遷都した(330年。もちろん帝国の中心が、東方へと偏っていたためである)。

 

その都市の名称は自分の名前にしたかったので、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル)と改名した。コンスタンティノポリスは、キリスト教公認後の新都市であったため、必然的にキリスト教の最初の都市ともなる。

 

キリスト教化に遷都、とローマ帝国を完全に別物へと変えたコンスタンティヌス1世。

専制君主制、キリスト教の公認、そしてコンスタンティノポリスへの遷都という3つの要素が完全に出揃ったことから、この時代からの東方を中心としたローマ帝国を、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)と呼ぶことができる。

 

再び分割へ

337年にコンスタンティヌス1世が亡くなると、ローマ帝国は彼の息子3人に分割統治された。

 

しかしそれも長続きせず、長男コンスタンティヌス2世は、三男コンスタンス1世に殺される。350年にはガリア将軍の反乱が起こり、三男コンスタンス1世も殺害される。351年、最後に残った次男コンスタンティウス2世は、弟の敵討ちとしてその反乱を鎮圧し、件のガリア将軍を自決に追い込んだ。

 

単独皇帝となったコンスタンティウス2世は、例の如く帝国の単独統治に限界を感じ、甥のフラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス(通称ユリアヌス)を副帝(カエサル)に任命、西方の統治を任せた。

 

異民族撃滅戦

357年、副帝ユリアヌスは、ゲルマン人の一派であるアラマンニ族討伐のため、ガリア軍を率いて東進した。目指すは現ドイツ、ゲルマニア。ユリアヌスはイタリア軍と連携をとり、自身が動かすガリア軍でゲルマニアを西から、イタリア軍を北上させ南から、つまり挟み撃ちを仕掛ける腹積もりであった。

 

しかしイタリア軍は途中で敗北し、ユリアヌスのガリア軍と合流できなかった。これで30,000ものアラマンニ族に対し、ユリアヌスは13,000のガリア軍で戦わなければならなくなった。

 

357年の8月、ユリアヌスのガリア軍は、現シュトラスブールのアルゲントラトゥムにて、アラマンニ族と激突した。

 

戦闘開始とともに、ローマ軍の右翼、騎兵部隊が敵のゲルマン騎兵に撃退される。またローマ軍中央は楔形陣形のアラマンニ族歩兵にやられ、歩兵の第一戦列を喪失した。だがローマ軍の第二戦列は盾を構え奮闘、アラマンニ族歩兵の突撃を耐えた。一瞬の時間を許されたユリアヌスは、開幕早々バラバラになった右翼騎兵隊を再編成し、反撃を指揮。騎兵をそのまま、ローマ軍左翼が発見した敵の伏兵へと送り込み、撃退に成功する。アラマンニ族が敗走を始めると、ローマ軍の追撃が逃亡する彼らを、ライン河へと突き落としていった。

 

3世紀以降、ローマ帝国では騎兵が重視されてきたが、この圧倒的な勝利は歩兵によるものだった。

 

副帝ユリアヌスは、その後もフランク族の平定に成功し、ローマの同盟軍(フォエデラティ)としてライン地方に定住させた。これは軍事力の強化以外にも、農耕の開拓を推進するためであった。これにて一旦、ライン河方面の平安が約束されたのである。

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