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背教者ユリアヌス
そもそもユリアヌスは、ギリシア古典ばかりを勉強していた哲人であった。将来の夢もその道であったが、伯父のコンスタンティウス2世の要望で、無理やりに副帝とさせられたのである。しかし彼は意外な才能を発揮し、異民族撃退に大きく貢献した。ローマ帝国にとって、それはあまりに大きな副産物であろう。
いつしかユリアヌスは、正帝コンスタンティウス2世よりも兵士から信頼されていた。361年、ついに兵士たちはユリアヌスを「正帝」と宣言し担ぎ揚げた。が、コンスタンティウス2世が病死したため、内乱は起こらない。正帝の座は、藪から棒にユリアヌスへと移ったのである。
当時、ローマ帝国ではキリスト教化が本格化していたが、ユリアヌスは即位後、自身の著書でキリスト教を批判し、ローマの神々に対する信仰を取り戻そうと試みた。「背教者」誕生である。もっとも、ユリアヌスは急速に変わりゆくローマ帝国に対し、どこか悲しんでいただけなのかもしれない。
コンスタンティウス2世の病死により、中断されたペルシャ遠征。敵の王はシャープール2世。ユリアヌスはこれを引き継ぎ、60,000の大軍を二手に分け挙兵した。大軍は、ティグリス河とユーフラテス河に沿って進む。そして、タイミング良く合流する予定だった。しかし363年、作戦は失敗し、ユリアヌスは志半ばで戦死してしまう。伝承によると、彼はこう言い残したという。
「ガリラヤ人よ、汝は勝てり」
コンスタンティヌス朝も、そこで断絶した。
それにしても、キリスト教徒の皇帝に始まる王朝の最後が、アンチ・キリスト教の皇帝とは、なんとも皮肉な話である。
ウァレンティニアヌス朝 (A.D. 363 - A.D. 392)
ユリアヌス帝が没すると、将校ヨウィアヌスが新皇帝に選出された。ヨウィアヌスのもと、ローマ帝国とササン朝ペルシャ帝国との間には平和条約が締結されるが、それはローマ側がティグリス以東の領土と、幾つかの主要都市を割譲するという屈辱にほかならないものだった。ユリアヌス帝の努力が報われぬ結果となったが、それでもローマ帝国には502年までの東方の平和がもたらされた。
ゲルマン人の大移動
ヨウィアヌスがわずか在位8ヶ月で亡くなると、将校団の推戴によりウァレンティニアヌスが新帝となった。彼はゲルマン人と本腰を入れて戦うべく、首都をアウグスタ・トレウェロルム(現トリーア)とした。ウァレンティニアヌスも例に漏れず、帝国統治を複数人で行おうと考える。そこで彼は、弟のウァレンスを共治帝として東方を任せた。また18歳の息子グラティアヌスを、自身の統べる西方の副帝とした。
そこまでなら何も問題はなかったのだが、375年にウァレンティニアヌスが死去すると、トラキア軍がたった4歳の彼の息子ウァレンティニアヌス2世を皇帝と宣言したのだった。
これでまた、ローマ帝国は3人の皇帝が治める国家となったが、奇しくもこの時代、ゲルマン人の大移動が始まろうとしていた。376年、西進するフン族の波に押され、西ゴート族がドナウ河付近に現れ、ローマ帝国へ保護を求めた。西ゴート族は、武器の引き渡しを条件に渡河を許された。
腐敗と失態
しかし、ローマ帝国の役人たちは腐りきっていた。役人は、フン族から避難してきた西ゴート族に対し、約束していた食糧などを勝手に横領、さらには高額で押し売った。
さすがの西ゴート族も、そこで堪忍袋の緒が切れて武器を再び手に取り蜂起する。これに周辺の小作農や奴隷、脱獄兵らが加わり、またアラン族など他のゲルマン人も同調し、乱が雪だるま式に膨らんでいく。東帝ウァレンスは慌てて鎮圧に向かい、西帝グラティアヌスも、救援のため急いで駆け付ける。
しかし、西ゴート族の指導者フリティゲルが講和を申し出たにもかかわらず、東帝ウァレンスはこれを破棄。しかも西帝グラティアヌスの合流も待たず、単独で反乱の鎮圧に当たろうとしていた。
ハドリアノポリスの大敗
378年8月、東方正帝ウァレンスの軍は、ハドリアノポリス(アドリアノープル)近郊で西ゴート軍を発見した。
馬車を並べ円陣を組むゴート歩兵へ向けて、ウァレンスの軍は攻撃を始める。しかしウァレンスの指揮能力の無さが露見し、不意打ちには失敗、ウァレンス軍は時間を大きく損失してしまう。その隙にゴート側に主力の騎兵が戻り、ウァレンス軍の側面に大打撃を加えた。ウァレンス軍の騎兵と後衛部隊は四散し、残された軍は西ゴート軍に包囲された。まもなく、ウァレンス軍は四方八方から攻められ壊滅、兵数が3分の2にまで減少した。そして、最後にウァレンスが逃亡するが、その先の小屋で火をかけられ焼死したのだった。まさしく惨敗である。
不意打ちを仕掛けて、この大敗。これを機にローマ正規軍は壊滅的損失を被り、ローマ帝国の没落はいよいよ決定的となった。
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