第10代:崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖天皇)
「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とも称され、この別名は神武天皇の別名と同訓である。崇神天皇は、三輪氏に大物主大神を祀らせた。日本書紀によれば四道将軍を派遣したとされ、この将軍派遣記事が初の本格的な日本統一運動である。
第11代:垂仁天皇(活目入彦五十狭茅天皇)
相撲と埴輪の起原は、垂仁天皇の時代にあるとされる。
第12代:景行天皇(大足彦忍代別天皇)
景行天皇は九州の征伐に赴き、皇子日本武尊は東国へ遠征を行ったとされる。
第13代:成務天皇(稚足彦天皇)
父と日本武尊の遠征・平定を受け、この時代に東北から九州までの諸国に国造と県主を設置した。これは4世紀代後半までに東北から九州南部にかけて、古墳(前方後円墳、前方後方墳)が築造されたことに符合する。
第14代:仲哀天皇(足仲彦天皇)
皇后の神功皇后は仲哀天皇崩御後に熊襲征伐や三韓征伐を行い、その後即位せずに政務をとったとされる。
第15代:応神天皇(誉田天皇)
第16代:仁徳天皇(大鷦鷯天皇)
「聖帝」と称され、河内平野の開拓にいそしみ、人家の竈から炊煙が立ち上がらないことを知って租税を免除するなど、仁政を施した逸話で知られる。
第17代:履中天皇(大兄去来穂別天皇)
第18代:反正天皇(瑞歯別天皇)
第19代:允恭天皇(雄朝津間稚子宿禰天皇)
この時代に、中央豪族や各地の豪族に対して姓を与えたとされる。
第20代:安康天皇(穴穂天皇)
第21代:雄略天皇(大泊瀬幼武天皇)
倭の五王の最後として『宋書』倭国伝に記された「倭王武」であるとされる。また、埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣(金錯銘鉄剣)の辛亥年(471年)の紀年銘、および熊本県の江田船山古墳出土の鉄刀銘には、雄略天皇の名と一致する人名がみられる。
以後、
第22代:清寧天皇(白髪武広国押稚日本根子天皇)
第23代:顕宗天皇(弘計天皇)
第24代:仁賢天皇(億計天皇)
第25代:武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯天皇)
と続く。
古墳時代
武烈天皇には子がなく、大伴金村らは近江国高島郡で生まれ越前国で育った応神天皇5世孫の男大迹王を推挙し、王は即位した(第26代天皇の継体天皇)。ここに皇統の断絶があったとする見解もある。
以後、
第27代:安閑天皇(広国押武金日天皇)
第28代:宣化天皇(武小広国押盾天皇)
第29代:欽明天皇(天国排開広庭天皇)
第30代:敏達天皇(渟中倉太珠敷天皇)
第31代:用明天皇(橘豊日天皇)
第32代:崇峻天皇(泊瀬部天皇)
と続く。
崇峻天皇は蘇我馬子の命により暗殺され、初の女帝となる推古天皇(豊御食炊屋姫天皇)が継いで、第33代天皇となった。
神話伝承を根拠とする諸事
皇紀と建国記念の日
神武天皇の橿原宮での即位は「辛酉年」正月であることから、『日本書紀』の編年から遡って紀元前660年に相当し、それを紀元とする紀年法が「皇紀」(神武天皇即位紀元)である。西暦1940年(昭和15年)は皇紀2600年にあたり、日中戦争の戦時下にあったためもあり、「紀元二千六百年記念行事」が国を挙げて奉祝された。この年に生産が開始された零式艦上戦闘機(いわゆる「ゼロ戦」)は皇紀の下2桁が「00」にあたるところからの命名である。
また、神武天皇の即位日は『日本書紀』によれば「辛酉年春正月、庚辰朔」であり(中国で665年につくられ、日本で692年から用いられた『儀鳳暦(麟徳暦)』によっている)、これは旧暦の1月1日ということであるが、明治政府は太陽暦の採用にあたり、1873年(明治6年)の「太政官布告」第344号で新暦2月11日を即位日として定めた。根拠は、西暦紀元前660年の立春に最も近い庚辰の日が新暦2月11日に相当するとされたためであった。
この布告にもとづき、戦前は2月11日が紀元節として祝日とされていた。紀元節は、大日本帝国憲法発布の日(1889年(明治22年)2月11日)、広田弘毅発案による文化勲章の制定日(1937年(昭和12年)2月11日)にも選ばれ、昭和天皇即位後は四方拝(1月1日)、天長節(4月29日)、明治節(11月3日、明治天皇誕生日)とならび「四大節」とされる祝祭日であった。
紀元節は太平洋戦争(大東亜戦争)終結後1948年に廃止された。「建国記念日」を設置する案は度々提出されたが、神武天皇の実在の真偽などから成立には至らず、1966年に妥協案として「の」を入れた「建国記念の日」が成立した。国民の祝日に関する法律(祝日法)第2条では、「建国記念の日」の趣旨を「建国をしのび、国を愛する心を養う」と規定しており、1966年(昭和41年)の祝日法改正では「国民の祝日」に加えられ、今日に至っている。
『日本書紀』は雄略紀以降、元嘉暦(中国で443年に作られ、日本で691年まで単独使用された(翌年から697年までは儀鳳暦と併用))で暦日を記しているが、允恭紀以前は『日本書紀』編纂当時の現行暦である儀鳳暦に拠っている。船山の大刀銘が「大王世」と記す一方、稲荷山の鉄剣名が「辛亥年」と記すことから、まさに雄略朝に元嘉暦は始用され、それ以前には、まだ日本では中国暦による暦日は用いられていなかったと考えられている。むろん7世紀につくられた儀鳳暦が用いられていたはずもなく、神武即位日を新暦に換算することは不可能である。
神宝と皇室行事
皇室に伝わる神宝は「三種の神器」と呼称され、天孫降臨の際に天照大神から授けられたとする鏡(八咫鏡)、剣(天叢雲剣)、玉(八尺瓊勾玉)を指す。
大和時代に起源をもち、今日まで伝わる行事としては上述「四大節」のうちの「四方拝」のほか10月17日の「神嘗祭」や11月23日の「新嘗祭」がある。「大祓」もまた、大宝令で初めて明文化された古い宮中祭祀である。また、『日本書紀』顕宗紀には顕宗朝に何度か「曲水宴」(めぐりみずのとよあかり)の行事がおこなわれたとの記事がある。
なお八咫鏡と大きさが同じ直径46cmで、その図象が「伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記」の八咫鏡の記述「八頭花崎八葉形」と類似する大型内行花文鏡が福岡県糸島市の平原遺跡から5枚出土しており、三種の神器との関連が考えられている。
関連神社
伊勢神宮
皇室の祖先神である天照坐皇大御神を主祭神とする神社。垂仁天皇の第4皇女倭姫命が、天照大神を祭る土地を東に求めて大和、近江、美濃を経て、神託により伊勢に大神が鎮坐する祠を立てたのが、この神宮の起源であるという。
大神神社
大和朝廷発祥の地とされる、奈良盆地南東部に所在する神社である。神武東征前の先住支配者であった三輪氏の氏神。主祭神は大物主大神であり、三輪山を神体山とする。大己貴神が自らの幸魂奇魂である大三輪の神を日本国の三諸山(三輪山)に宮をつくって住ませたのが、この神社の起源であるという。今日でも本殿をもたず、拝殿から三輪山を神体として仰ぎみる古神道(原始神道)の形態を残している。また、山を神体としないものの、大神神社と同じく本殿を持たない諏訪大社は、三輪氏と同族であった諏訪氏が奉斎した。
熱田社
三種の神器のひとつ草薙神剣(草薙剣、天叢雲剣)を神体とし、熱田大神を主祭神とする。日本武尊は、東国遠征ののち尾張国造の娘・宮簀媛を娶り、能褒野で崩じたという。
石上神宮
神武天皇の時代から仕える有力豪族の物部氏の氏神。崇神天皇の時代に創建された。垂仁天皇が五十瓊敷命と大足彦命(のちの景行天皇)の兄弟に対し、それぞれが欲するものを尋ねた際、兄の五十瓊が弓矢、弟が皇位を望んだとされ、五十瓊敷が大刀一千口を作り石上神宮に蔵したのを契機として、守護神として崇敬されるようになった。