2023/02/25

フランク王国の発展

http://timeway.vivian.jp/index.html

 フランク族は、さらに小さな支族集団に分かれていました。移動後、小集団がそれぞれ小さな国を建てるのですが、この小国家を統一してフランク王国を建てたのがメロヴィング家のクローヴィス(位481~511)。これをメロヴィング朝という。これがフランク王国発展の基礎を作るのですが、その秘訣は宗教なのです。

 

 ゲルマン人はキリスト教を信じているのですが、アリウス派という宗派です。これは、325年のニケーア公会議で異端とされた宗派で、ローマ帝国内で布教できないのでゲルマン人に信者を広げていたのです。ローマ人は何を信じているかというと、同じキリスト教でもアタナシウス派。つまりローマ教会の信者です。

 

 クローヴィスも他のゲルマン人と同じでアリウス派だったのですが、アタナシウス派に改宗するの。ローマ人にとってローマ帝国が無くなったあと、頼りになったのはローマの行政区ごとに作られた教会だった。元老院議員を出したような有力な家柄のものが、教会の聖職者としてローマ人の指導者的立場にあったりするわけだ。

 

 フランクの王が、その同じ教会の信者になるというのは、ローマ人にとっては「おおっ!」という頼もしさ。この王様を助けましょう、と思う。というわけで、ガリア地方、今のフランスにあたる地域ですが、のローマ人たちはクローヴィスを支持した。また、教会はローマ帝国時代から引き継いでいる行政上の色々なテクニック、学問、技術を持っているからフランク王国は、これらのものを手に入れることもできたわけだ。こういうわけで、フランク王国は他のゲルマン国家と違い安定して発展することができたのです。

 

 フランク族は分割相続の習慣があって、王国はクローヴィスの息子たちに分けられて、それぞれで内紛や貴族の権力闘争で王たちは次第に力を失っていきました。代わりに、フランク族のまとめ役になったのが宮宰(きゅうさい)。総理大臣みたいなものと思ってください。行政の最高職です。

 

 この宮宰職について、強大な権力を握ったのがカロリング家のカール=マルテル。彼は全分国の宮宰となって、フランク王国の実権を握った。彼を有名にしたのが、732年のトゥール・ポワティエ間の戦い。ピレネー山脈を越えて進撃してきたイスラム軍を撃退した。実際に戦いの様子がどんなだったかは情報不足でわからないのですが、とにかくこの戦い以後、イスラム軍の進撃が止まった。この結果、カール=マルテルの評判はうなぎ登りです。名声を確立した。

 

 その息子がピピン3世。宮宰職を継ぐのですが、彼は父親が残した実績と名声を引継ぎ、メロヴィング家の王を追い751年に王位に就いた。これがカロリング朝の始まりです。

 

 ピピン3世が即位するにあたっては、ローマ教皇が彼の王位を認めました。宗教的権威をもって認めるので、教会の信者にとっては正統性を持つことになるわけだ。ピピン3世は、代わりにランゴバルド王国の領土を奪って教皇に寄進した。これを「ピピンの寄進」という。教皇領の始まりです。これ以後ローマ教会は信者から領地を寄進されて、大きな教皇領を持つようになるのです。これ以後、フランク王国とローマ教会は一層緊密な関係になります。

 

カトリック教会と西欧のキリスト教化

 ローマ教会のことを再確認しておきます。ローマ教会は、コンスタンティノープル教会やその他の教会と同じようにローマ帝国の中で発展してきましたが、西ローマ帝国滅亡によって国家の保護がなくなる。ただ、東ローマ帝国との連絡はあって、皇帝の指導下にあります。ユスティニアヌス帝が東ゴート族からイタリアを奪還した時には、ローマ教皇はローマ地域の行政長官に任命されていて、ランゴバルド族の侵入で東ローマ帝国が撤退した後も、ローマ周辺の統治権を握っていた。そういう意味では、単なる宗教指導者ではなかったわけです。

 

 だから、ビザンツ皇帝の皇帝教皇主義には反対した。ローマ教会の独立性を主張する。そのためにも、ランゴバルド王国の北方で勢力を拡大しつつあったフランク王国と協力関係を結んでいって、政治上の庇護者にしようとしたのです。

 

 726年、ビザンツ皇帝レオン3世による聖像崇拝禁止令は、ローマ教会とビザンツ帝国の対立を生み、東のコンスタンティノープル教会とローマ教会はその後分裂して発展していきます。コンスタンティノープル教会がギリシア正教会に、ローマ教会がローマ=カトリック教会として別々の宗派になっていきます。

0 件のコメント:

コメントを投稿