2023/03/06

ユスチニアヌス帝

ユスティニアヌス1世(ラテン語: Justinianus I, 482年もしくは483511 - 5651114日)は、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝(在位:527 - 565年)。正式名は、フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス(Flavius Petrus Sabbatius Iustinianus)。

 

概要

後世「大帝」とも呼ばれたように、古代末期における最も重要な人物の一人である。その治世は東ローマ帝国史における画期的な時代をなし、当時の帝国の版図を押し広げた。これは、野心的だが最終的には失敗した「帝国の再建」(renovatio imperii)に特徴づけられる。この野望はローマを含む西ローマ帝国の領土を部分的に回復したことに表される。しかしその栄光の時代も、543年の黒死病(ユスティニアヌスのペス)が終わりの印となった。帝国は領土的縮小の時代に入り、9世紀まで回復することはなかった。

 

ユスティニアヌスの遺産の重要な側面は、ローマ法を統合して書き直した『ローマ法大全』(Corpus Iuris Civilis)であり、これは多くの現代国家の大陸法の基礎であり続けている。彼の治世は、また初期ビザンティン文化の興隆にも印され、彼の建築事業はハギア・ソフィア大聖堂のような傑作を生みだし、これは800年以上にわたって東方正教会の中心となった。

 

東方正教会では聖者と見なされており、ルーテル教会の一部からも祝福されている。反対に同時代のプロコピオスは、ユスティニアヌスを「残忍で強欲そして無能な統治者」として見ていた。

 

ユスティニアヌス1世の治世に関する主な史料は、歴史家プロコピオスが提供している。散逸したシリア語によるエフェソスのヨハネスの年代記は後代の年代記の史料となり、多くの付加的な詳細を知ることに貢献している。この2人の歴史家は、ユスティニアヌスと皇后テオドラに対して非常に辛辣である。また、プロコピオスは『秘史』(Anekdota)を著しており、ここではユスティニアヌスの宮廷における様々なスキャンダルが述べられている。

出典Wikipedia

 

ユスチニアヌス帝

https://www.vivonet.co.jp/rekisi/index.html#xad15_inca

 6世紀にユスチニアヌスが即位すると増税に対する不満からニカの乱が起き、反乱軍は聖ソフィア教会を焼き払い宮殿に迫ってきた(532)。皇帝は逃亡を決意、港には脱出用の船が用意された。それを見て踊り子上がりの皇妃テオドラは叫んだ。「今は逃げる時ではありません。帝衣は最高の死装束です」。我に返った皇帝は、軍隊に鎮圧を命じ3万人の市民を虐殺した。

 

 国内の危機を乗り切ったユスチニアヌスは、かってのローマ帝国の栄光を復活させようと、ゲルマン人が支配する旧ローマ帝国領に進出した。まず、533年に北アフリカのヴァンダル王国を滅ぼしてカルタゴを奪還、535年にはイタリアの東ゴート王国をシチリアから攻め、20年かかって滅ぼした。こうしてイタリアは再びローマ帝国領となった。また、イベリアを支配していた西ゴート王国を攻め、半島東南部に拠点を築いた。

 

 ユスチニアヌスは、歴代皇帝の勅令集を集大成したローマ法大全を編纂した。これはヨーロッパ法律学の礎石となった。また、建築事業にも熱心で、聖ソフィア大聖堂を再建した。

 

混迷する帝国

ユスチニアヌス帝の没後、帝国は外敵の攻撃に悩まされた。613年、ヘラクレイオス帝は、シリアでササン朝ペルシアに敗れ、エジプトを失いエルサレムも占領された。エルサレムにあった聖十字架(キリストが磔になった十字架)が持ち去られた。

 

 また北イタリアでは、ランゴバルド族が侵入した。ポー川流域は、ロンゴバルド人の土地と言う意味で、ロンバルディアと呼ばれるようになった。更にイスラム勢力の侵攻が始まり、636年のヤルムーク河畔の戦いで惨敗し、シリア、パレスチナ、エジプトを失った。655年には小アジア南岸のリュキア沖の海戦でイスラム艦隊に敗れ、地中海の制海権を失った。697年にはアフリカの最後の拠点カルタゴが占領され、首都コンスタンチノープルは、しばしばイスラム海軍に包囲されるようになった。

 

キリスト教会分裂

 バルカン半島では、遊牧民ブルガール人がブルガリアを建国した(681年)。ブルガリアはシメオン1世の時が最盛期で、ペロポネソス半島北部にまで領土を広げた(800年頃)。ブルガリアの脅威にビザンツ帝国は反撃し、1014年のクレディオン峠の戦いで勝利した。この戦いでブルガリア兵14,000人が捕虜になり、彼らは両目を潰されて送り返された。ブルガリア皇帝サミュエル(Samuel)は、ぞろぞろやってくる部下の姿を見て卒倒し死亡した。ブルガリア王国は滅亡した。

 

 この頃、ローマ教皇レオ3世はフランク王カール大帝を西ローマ皇帝として戴冠した。これにより、キリスト教会は東西に分裂した。ローマ皇帝を自認するビザンツ皇帝は、カール大帝がフランク人の皇帝と名乗ることは認めたが、西ローマ皇帝とは認めなかった。

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