2023/08/19

聖徳太子(7)

『日本書紀』における聖徳太子像

大山説は藤原不比等と長屋王の意向を受けて、僧道慈(在唐17年の後、718年に帰国)が創作したとする。しかし、森博達は「推古紀」を含む『日本書紀』巻22は中国音による表記の巻(渡来唐人の述作)α群ではなく、日本音の表記の巻(日本人新羅留学僧らの述作)β群に属するとする。「推古紀」は漢字、漢文の意味及び用法の誤用が多く、「推古紀」の作者を17年の間唐で学んだ道慈とする大山説には批判がある[?]。森博達は文武天皇朝(697-707年)に文章博士の山田史御方がβ群の述作を開始したとする。

 

『勝鬘経義疏』

『勝鬘経』の注釈書である『勝鬘経義疏』について藤枝晃は、敦煌より出土した『勝鬘義疏本義』と七割が同文であり、6世紀後半の中国北朝で作られたもので、大山はこれが筆写されたものとしている。

 

『法華経義疏』巻頭の題箋(貼り紙)について、大山は僧侶行信が太子親饌であることを誇示するために貼り付けたものとする。

 

安本美典は題箋の撰号「此是大委国上宮王私集非海彼本」中の文字(是・非など)の筆跡が本文のそれと一致しており、題箋と本文は同一人物によって記されたとして、後から太子親饌とする題箋を付けたとする説を否定している。また、題箋に「大委国」とあることから、海外で作られたとする説も否定している。

 

王勇 (歴史学者)は『三経義疏』について「集団的成果は支配者の名によって世に出されることが多い」としながらも、幾つかの根拠をもとに聖徳太子の著作とする。ただし、『法華経義疏』の題箋の撰号については、書体と筆法が本文と異なるとして後人の補記であるとする。また花山信勝は『法華経義疏』行間の書込み、訂正について、最晩年まで聖徳太子が草稿の推敲を続けていたと推定している。

 

『上宮聖徳法王帝説』の系譜

『上宮聖徳法王帝説』巻頭に記述されている聖徳太子の系譜について、家永三郎は「おそくとも大宝(701-704年)までは下らぬ時期に成立した」として、記紀成立よりも古い資料によるとしている。

 

天寿国繡帳

天寿国繡帳について大山は天皇号、和風諡号などから推古朝成立を否定している。また、金沢英之は天寿国繡帳の銘文に現れる干支が、日本では持統天皇4年(690年)に採用された儀鳳暦(麟徳暦)のものであるとして、制作時期を690年以降とする。一方、大橋一章は図中の服制など、幾つかの理由から推古朝のものとしている。義江明子は、1989年に天寿国繡帳の銘文を推古朝成立とみてよいとする。石田尚豊は、技法などから8世紀につくるのは不可能とする。

 

法隆寺釈迦三尊像光背銘文

法隆寺釈迦三尊像光背銘文について、大山説が援用する福山敏男説では後世の追刻ではないかとする。一方、1979年に志水正司は「信用してよいとするのが今日の大方の形勢」とする。

 

道後湯岡碑銘文

道後湯岡碑(伊予湯岡碑文)については、これまで推古天皇四年に建てたものとされてきた(牧野謙次郎,1938年)。

 

大山は、道後湯岡碑銘文における法興6年という年号について、法興は『日本書紀』に現れない年号(逸年号、私年号)であり、法隆寺釈迦三尊像光背銘文にも記されていると指摘している。

 

また大山は仙覚『万葉集註釈』(文永年間(1264-1275年)頃)と『釈日本紀』(文永11-正安3年頃(1274-1301年頃))の引用(伊予国風土記逸文)が初出であるとして、鎌倉時代に捏造されたものとする。一方、荊木美行は伊予国風土記逸文を風土記(和銅6年(713年)官命で編纂)の一部としている。

 

法起寺塔露盤銘

慶雲3年(706年)に彫られたとされる法起寺塔露盤銘に「上宮太子聖徳皇」とあることについて、大山説では露盤銘が暦仁元年(1238年)頃に顕真が著した『聖徳太子伝私記』にしか見出せないことなどから偽作とする。

 

但し、大橋一章の研究(2003年)の研究では、嘉禄三年(1227年)に[四天王寺東僧坊の中明が著した『太子伝古今目録抄(四天王寺本)』には「法起寺塔露盤銘云上宮太子聖徳皇壬午年二月廿二日崩云云」と記されている。

 

また直木孝次郎は『万葉集』と飛鳥・平城京跡の出土木簡における用例の検討から「露盤銘の全文については、筆写上の誤りを含めて疑問点はあるであろうが、『聖徳皇』は鎌倉時代の偽作ではない」と述べている。また「日本書紀が成立する14年前に作られた法起寺の塔露盤銘には聖徳皇という言葉があり、書紀で聖徳太子を創作したとする点は疑問。露銘板を偽作とする大山氏の説は推測に頼る所が多く、論証不十分。」と批判している。

 

『播磨国風土記』の記述

『播磨国風土記』(713-717年頃の成立とされる)印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述に「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 厩戸 弓削大連 守屋 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とある。

 

「弓削大連」は物部守屋、「聖徳王」は厩戸皇子と考えるなら、『播磨国風土記』は物部守屋が大連であった時代を、「聖徳の王(厩戸皇子)の御世」と表現していることになる。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を「聖徳王」としたとある。

 

教育における扱い

一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては、長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし、上記のように存命中の呼称ではないという理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年(平成14年)度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更されたが、この方針に対して脱・皇国史観の行き過ぎという批判がある。

 

2013年(平成25年)327日付『朝日新聞』によれば、清水書院の高校日本史教科書では、2014年(平成26年)度版から歴史研究者によって指摘されるようになってきた聖徳太子虚構説(従来、聖徳太子として語られてきた人物像はあくまで虚構、つまりフィクションである、とする説)をとりあげた。歴史家らから(厩戸皇子の存在はともかくとして)「聖徳太子」という呼称の人物像の虚構性を指摘されることは増え、学問的には疑問視されるようになっているので、中学や高校の教科書では「厩戸皇子(聖徳太子)」について、そもそも一切記述しないものが優勢になっている。(わずかに記述される場合でも、少なくとも「聖徳太子」という呼称はカッコの中でしか記述されない)

 

なお「厩戸王」などとした表記について、「表記が変わると教えづらい」という声があることから、2020年度に小学校へ、2021年度に中学校へ導入される予定の学習指導要領案最終版では、文部科学省は「聖徳太子」に修正するよう検討していたことが報道された。

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