西行(さいぎょう、元永元年〈1118年〉- 建久元年2月16日〈1190年3月30日〉)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての日本の武士であり、僧侶、歌人。西行法師と呼ばれ、俗名は佐藤 義清(さとう のりきよ)。憲清、則清、範清とも記される。西行は号であり僧名は円位。後に大本房、大宝房、大法房とも称す。
和歌は約2,300首が伝わる。勅撰集では『詞花集』に初出(1首)。『千載集』に18首、『新古今集』に94首(入撰数第1位)をはじめとして、二十一代集に計265首が入撰。家集に『山家集』(六家集の一)、『山家心中集』(自撰)、『聞書集』。その逸話や伝説を集めた説話集に『撰集抄』『西行物語』があり、『撰集抄』については作者と注目される事もある。
生涯
誕生は元永元年(1118年)。父は左衛門尉・佐藤康清、母は監物・源清経女である。
父系は藤原魚名(藤原北家の藤原房前の子)を祖とする魚名流藤原氏。佐藤氏は義清の曽祖父・公清の代より称す。祖父の佐藤季清も父の康清も衛府に仕え、紀伊国田仲荘(和歌山県紀の川市、旧那賀郡打田町竹房)を知行地としていた。母系についてはよくわかっていないが、源清経については考証があり文武に秀でた人物だったとされている。
祖父の代から徳大寺家に仕えており、『古今著聞集』の記述から自らも15〜16歳頃には徳大寺実能に出仕していた。『長秋記』によると、保延元年(1135年)に左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、さらに鳥羽院に下北面武士としても奉仕していた(同時期の北面武士に平清盛がいる)。この頃、徳大寺公重の菊の会に招かれ、藤原宗輔が献上した菊の歌を詠んでおり、既に歌人としての評価を得ていたとされる。
保延6年(1140年)10月、出家して西行法師と号した(『百錬抄』第六)。出家後は東山、嵯峨、鞍馬など諸所に草庵を営んだ。30歳頃に陸奥に最初の長旅に出る。その後、久安5年(1149年)前後に高野山(和歌山県高野町)に入った。
仁安3年(1168年)には、崇徳院の白峯陵を訪ねるため四国へ旅した(仁安2年とする説もある)。これは江戸時代に上田秋成によって『雨月物語』中の一篇「白峯」に仕立てられている。また、この旅は弘法大師の遺跡巡礼も兼ねていたようである。
高野山に戻り、治承4年(1180年)頃に伊勢国に移った。文治2年(1186年)、東大寺再建の勧進のため2度目の陸奥行きを行い藤原秀衡と面会。この途次に鎌倉で源頼朝に面会し、歌道や武道の話をしたことが『吾妻鏡』に記されている。
伊勢国に数年住まった後、河内国石川郡弘川(中世以降の同郡弘川村、現在の大阪府南河内郡河南町弘川)にある弘川寺(龍池山瑠璃光院弘川寺)に庵居し、建久元年(1190年)にこの地で入寂した。享年73。かつて
「願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ」
と詠んだ願いに違わなかったとして、その生きざまが藤原定家や慈円の感動と共感を呼び、当時名声を博した。
生誕の地
西行の生誕地は、佐藤氏の支配した紀伊国田仲荘(紀の川市)であるとする説と、佐藤氏の生活の基盤は京都にあり京都が生誕地であるという説がある。
出家の動機
友人の急死説
『西行物語絵巻』(作者不明、2巻現存。徳川美術館収蔵)では、親しい友の死を理由に北面を辞したと記されている。
失恋説
『源平盛衰記』に、高貴な上臈女房と逢瀬を持ったが「あこぎの歌」を詠みかけられて失恋したとある。この恋の相手の女性は待賢門院璋子であるという。
近世初期成立の『西行の物かたり』(高山市歓喜寺蔵)には、御簾の間から垣間見えた女院の姿に恋をして苦悩から死にそうになり、女院が情けをかけて1度だけ逢ったが、「あこぎ」と言われて出家したとある。
瀬戸内寂聴は、自著『白道』(1995年)の中で待賢門院への失恋説をとっているが、美福門院説もあるとしている。
五味文彦『院政期社会の研究』(1984年)では、恋の相手を上西門院に擬している。
妻子・兄弟
妻子の存在については否定説と肯定説がある。『尊卑分脈』では「権律師隆聖」という男子があるとする。また『西行物語絵巻』では、女子があるとする(西行の娘を参照)。『発心集』には九条民部卿(藤原顕頼)の娘・冷泉殿が、西行の娘の母に「ゆかり(血縁関係か)」があったと記されており、『撰集抄』では冷泉殿は「(西行の娘の)ははかたのをば」とされ、『撰集抄』が事実であるとするならば西行は藤原顕頼の娘を娶っていたことになる。
さらに『尊卑分脈』には、兄弟に仲清がみえるが西行の兄とする説と弟とする説がある。
『地下家伝』では、山形左衛門尉を称した俊宗という子がいたとされており、子孫は日野家に仕えた山形氏である。
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