772年には、ドイツ北部にいたゲルマン人の一派ザクセン族を服属させようとし、ザクセン戦争を開始。この戦争はカールが優勢のうちに進められたものの、ザクセン族は頑強に抵抗し、遠征は10回以上にも及んだ。785年には、有力な指導者ヴィドゥキントを降伏させたものの抵抗は続き、結局完全にこれを服属させたのは戦争開始から32年後の804年のことであった。
カールは戦後、抵抗する指導者を死刑や追放に処し、ザクセン族を帝国内に分散移住させ、代わりに征服地にフランク人を移住させるなどの方法で反抗をおさえた。これによって現在のエルベ川からエムス川にかけての広大な地域が、フランク王国に服属することとなった。さらにその東に居住するスラヴ人たちも、その多くが服属した。一方、ザクセンの征服によって、その北に居住するデーン人との軍事的緊張が高まったが、カールの存命中は膠着状態が続いた。
778年、カールは後ウマイヤ朝に圧迫されたイベリア半島北部のムスリム勢力の救援依頼をイベリアへの勢力拡大の好機とみなし、イベリア北部に遠征した。サラゴサのムスリム勢力を制圧して、人質を出させたことで目的を達したと考えたカールは撤退をはじめた。その途上、ピレネー山脈越えに差し掛かった時、バスク人の襲撃を受けて大損害を受け、多数の兵士と将軍を失った(ロンスヴォーの戦い)。この戦いを題材にしたのが、後に神話化され語り継がれた『ローランの歌』である。
795年には、ピレネー南麓にスペイン辺境領をおいた。またこのとき、スペインの後背地にあたり地元勢力の強かったアキテーヌをフランク人による直接支配の下に置くことを試み、息子のルートヴィヒ1世(ルイ1世)を王としたアキテーヌ王国を創設した。ほぼ同時代史料である『ルイ敬虔帝伝』によれば、カールはアキテーヌの完全掌握を目指してアキテーヌ全土の伯、修道院長の多くをフランク人から任命したという。801年には、フランク王国の支配地はバルセロナまで広がった(バルセロナ伯)。
北のフリース族とも戦い、西ではブルターニュを鎮圧して、東方ではドナウ川上流で半独立勢力となっていたバイエルン族を攻めて、788年には大公タシロ3世を追いこれを征服するとともに、791年にはドナウ川中流のスラヴ人やパンノニア平原にいたアヴァールを討伐してアヴァール辺境領をおき、792年にはウィーンにペーター教会を建設している。アヴァールは、中央アジアに住んでいたアジア系遊牧民族でモンゴル系、もしくはテュルク系ではないかと推定される。
6世紀以降、東ローマ帝国やフランク王国をはじめとするヨーロッパ各地に侵入し、カール遠征後はマジャール人やスラヴ人に同化していったと考えられる。このときはアヴァール領の西部を制圧しただけであったが、カールは再度のアヴァール侵攻を計画し、その一環として793年にはドナウ川とライン川をつなぐ運河を計画した。796年に再度侵攻した際には、アヴァールの宮殿にまで到達して大規模な略奪を行い、これによってアヴァールは致命的な大打撃を受けて、以後は衰退するばかりとなった。またこの勝利に伴い、フランク王国は東に大きく領土を広げ、パンノニア平原の中央部付近までを服属させた。
結果としてカールの王国は現在のフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、スイス、オーストリア、スロヴェニア、モナコ、サンマリノ、バチカン市国の全土と、ドイツ、スペイン、イタリア、チェコ、スロヴァキア、ハンガリー、クロアチアの各一部に広がった。このことによって、イギリス、アイルランド、イベリア半島、イタリア南端部をのぞく西ヨーロッパ世界の政治的統一を達成し、イングランド、デンマーク、スカンジナビア半島をのぞく全ゲルマン民族を支配して、フランク王国は最盛期を迎えた。カールは、ゲルマン民族の大移動以来、混乱した西ヨーロッパ世界に安定をもたらしたのである。
カールは征服した各地に教会や修道院を建て、その付属の学校では古代ローマの学問やラテン語が研究された。また、フランク王国内の教会ではローマ式の典礼を採用し、重要な官職には聖職者をつけ、十分の一税の納入を徹底させた。さらに住民をキリスト教のアタナシウス派(カトリック教会)に改宗させて、フランク化もおこなった。メロヴィング朝はもともと、広い領土を支配するために全国を伯領に分け、それぞれの伯領に「伯」(Comes、Graf)という長官を配置し、地元有力者を任命して軍事指揮権と行政権・司法権を与えていた。カロリング家は、カール・マルテルの時代から各地の伯に自らの忠実な家臣を送り込む努力を続けていたが、カールの時代にはこれがさらに大規模化・徹底され、各地の伯にはカールの忠実な家臣が送り込まれた。
こうして伯は、地方有力者が就く職からカールの地方官僚としての性格が強くなった。また、これによって地方の独自性が薄れ、制度の平準化と地域間の人材交流が促された。こうした伯などの家臣たちは、カロリング朝の崩壊後も世襲的に勢力を蓄え、中世貴族や王族として権勢をふるうようになるものたちも多くいた。荘園経営の指針として、荘園令を出したといわれる。さらに、伯の地方行政を監査するため、定期的に巡察使(ミッシ・ドミニ)を派遣するなど、フランク王国の中央集権化を試みている。
「カール大帝は巨大な所領群を王領地に併合したばかりではなく、管理と経営を改善しようとも努めた。彼は王領地について、また教会領についても一種の検地を実施させたが、それは史料のうえでは、教会領および国庫領検地小範例集「Brevium exempla ad res ecclesiasticas e fiscales describendas」と、ロルシュおよびクーアラエティアの王国土地台帳にみいだされる。カール大帝が王国領の管理を重視したことを示すきわめて印象深い例証は、御料地令「Capiturale de villis」である。その内容は、国庫領の管理と運営に関する非常に詳細な規定と弊害除去のための方策からなっている」。
しかし征服されたとはいえ、ザクセン、バイエルンなどゲルマン諸部族には慣習的な部族法があり、カールのしばしば発した勅令にもかかわらず、王国の分権的傾向、社会の封建化の進行を完全に抑えることができなかった。カールの宮廷そのものが、1箇所に留まらずに常に国内を移動していた。主な宮廷は794年にアーヘンに築かれていたものの、アーヘンのほかインゲルハイムやネイメーヘンなどにも宮廷を築いた。それは、絶えず領内を移動して、王のカリスマ性を示し、伯の忠誠心を保つため伯との接触を確保する必要があったからであり、また、道路の整備も不充分で、各地から食糧などの生活物資を宮廷まで運ぶ輸送手段がなかったためでもあった。
父と共に遠征した南西フランスのアクイタニアでは土着貴族の勢力が強かったため、息子ルートヴィヒをその地の伝統にしたがって育て、まずはアクイタニアの王としたことにもカールが集権化に苦慮したことがあらわれている。他に道路を改修して交易を保護したり、銀を通貨とする貨幣制度を定めるなどの施策をおこなった。外交面では、東方の大国であるアッバース朝とは数度の使節を交換し、友好関係を保っている。
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