鵝湖の会
朱熹は40代の頃、著作活動に最も励んだ。39歳に『程氏遺書』の編集、40歳に周敦頤『太極図説』『通書』(50歳の時に再校定)、41歳に張載『西銘』の注解(『西銘解』、以後も改訂し59歳で刊行)、42歳に『知言疑義』、43歳に『八朝名臣言行録』『資治通鑑綱目』、44歳に『伊洛淵源録』『程氏外書』、45歳に『古今家祭礼』、46歳に『近思録』、48歳に『四書集注』とその『或問』(その後も改訂を続ける)、49歳に『詩集伝』(57歳定本)を著した。
淳熙2年(1175年)4月、同安時代から交友のあった呂祖謙とともに『近思録』の執筆に当たったのち、彼の仲介で陸象山とその兄の陸九齢と会見した。これが後に言う鵝湖の会であり、対照的な思想を唱える両者は激しい議論を交わした。結果、兄の陸九齢の思想はのちに朱熹に接近したが、陸象山の思想は変わらず、両者の調停はならなかった。ただし、両者は互いを好敵手であると認識しており、賛辞の言葉も与えている。
政治家として
乾道4年(1168年)に発生した建寧府の大飢饉に際して粟600石を貸し与えて民を救済し、その後も飢饉に応じて利息を加減しながら貸付を継続した。この社倉は「飢饉時に食を欠く者なし」と称される成功を収め、朱熹は孝宗に社倉法を献じて、これを全国で行わしめた。後にこの制度は朱子学を通じて江戸時代の日本に伝播して、各地に義倉が設けられることとなる。
淳熙5年(1178年)、朱熹49歳の時、宰相の史浩によって知南康軍の辞令を受けた。朱熹は何度も辞退したが、何度も推薦を受け、結局翌年3月に南康軍(中国語版)に赴いた。朱熹はここに二年間在職し、学校制度の整備、郷土の先覚者の顕彰、減税の請願、旱魃の対策などに奔走し、民生の安定に尽力した。特に、廬山の白鹿洞書院の復興に着手し、図書の充実を朝廷に願い、陸象山の講演を実現するなど、大きな功績を残した。なお、この頃から朱熹は脚の病に侵され、晩年に至るまで苦しんだ。
淳熙7年(1180年)、朱熹は孝宗に対して「庚子応詔封事」と呼ばれる上書を奉り、重税を省くこと、余分な軍事力を割くことを述べ、更に今の政治が皇帝によるものではなく、数人の権臣によって牛耳られていることを批判した。翌年、南康軍での手腕を認められた朱熹は、提挙江南西路常平茶塩公事(江西省の茶塩の監督官の待次差遣)に任命され、また直秘閣(宮廷図書館の責任者)を与えられた。同年に浙東で飢饉が発生したため、朱熹は改めて提挙両浙東路常平茶塩公事に任命された。ここで朱熹は絶えず管内を巡回し、飢饉対策と官吏の不正の摘発に励んだ。12月には、自身の崇安での経験に基づき「社倉事目」を奏上し、各地に社倉が設置されることになった。
淳熙9年(1182年)7月、朱熹は台州知事(台州の治所は、現在の浙江省台州市臨海市)の唐仲友が不正を働いたとして弾劾し、その罷免を朝廷に要求した。朱熹の弾劾は激しく執拗であり、朝廷がなかなか動かないのを見て、脅迫的な自身の罷免状を送り付けたほどであった。但し、唐仲友が実際にどれほど悪辣な行為があったのかは定かでなく、朱熹がここまで執拗に攻撃した理由は明らかでない。この事件によって、台州知事から江西提刑に移っていた唐仲友は罷免され、6年後の他界まで家で過ごした。この江西提刑のポストは朱熹に回されたが、朱熹はこれを辞退し郷里に帰った。
偽学の禁
53歳の時に郷里に帰った朱熹は、これから8年ほどは公務から遠ざかり、祠禄の官をもらって家で学業に励んだ。50代の著作として『易学啓蒙』『孝経刊誤』『詩集伝』『小学書』などがあり、次第に『四書』から『五経』へと研究対象が移行した。陸象山との無極太極論争や、陳亮との義利王覇論争が交わされたのも、この時期である。
淳熙16年(1189年)、孝宗が退位しその子の光宗が即位する。その翌年、朱熹は漳州知事に一年間赴任し、経界法の実施を試みたが、在地の土豪の反発を受けて上手く行かず、一年で離任する。また、紹熙4年(1193年)には潭州知事として3カ月間赴任し、張栻と縁の深い嶽麓書院を修復した。
朝廷で再任されるために知事を辞めた際、朱熹が部下に地方行政について指示した書(1194年)
紹熙5年(1194年)、寧宗が即位すると、宰相の趙汝愚の推挙もあって寧宗は朱熹に強い関心を寄せ、煥章閣待制兼侍講(政治顧問)として朱熹を抜擢する。朱熹は、皇帝への意見具申や経書の講義などを積極的に行ったが、韓侂冑の怒りを買ってわずか45日で中央政府を追われ、郷里に戻った。その帰り道で、江西の玉山にて晩年の思想の集約であるとされる「玉山講義」を行った。
慶元元年(1195年)、趙汝愚は失脚し、韓侂冑が独裁的な権限を握るようになり、「偽学の禁(慶元の党禁)」と呼ばれる弾圧が始まった。これによって道学は「偽学」として排撃され、道学者の語録は廃棄処分、科挙においても道学風の回答は拒絶された。この弾圧中には、道学派を弾劾すれば自分の官職が上がったため弾圧は激化し、朱熹も激しい弾劾に晒された。
慶元6年3月9日(1200年4月23日)、そうした不遇の中で朱熹は建陽の考亭で71歳の生涯を閉じた。朱熹の臨終の前後の様子は、蔡沈の「夢奠記」に記録されている。
朱子の業績
経書の整理
四書集注
『論語』・『孟子』・『大学』・『中庸』(『礼記』の一篇から独立させたもの)のいわゆる「四書」に注釈を施した。この四書への注釈は『四書集注』(『論語集注』『孟子集注』『大学章句』『中庸章句』)に整理され、後に科挙の科目となった四書の教科書とされて権威的な書物となった。これ以降、科挙の科目は“四書一経”となり、四書が五経よりも重視されるようになった。また、朱熹は経書を用いて科挙制度の批判を行った。朱熹は儀礼に関する研究も行っている。孔子の祭りである釈奠の儀礼を整備したり、儒服の深衣の復元などに取り組んでいた。朱熹の儀礼の研究に関する書物としては『家礼』『儀礼経伝通解』がある。
朱熹は、五経に関しても注釈を施しており、『易経(周易)』に関する注釈書『周易本義』、『書経』に関する注釈書『書集伝』、『詩経』に関する注釈書『詩集伝』などがある。
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