2007/08/30

2007世界陸上観戦記(前編)

 地元開催でいつも以上に活躍が期待された、男子ハンマー投げの室伏、男子200mの末續、400m障害の為末が相次いで「敗退」した。勿論、勝負の世界だから勝ち負けは付き物だが、地元開催という有利な条件で期待が大きかっただけに、個人的にはレース後のインタビューで、口を揃えて「一生懸命、頑張りました・・・」と言うのが、どうにも気に食わない。

 

一生懸命に頑張ったのは、どの選手も同じ事である。そんな事くらいは、小学生でも観ていれば解りきっているのだから、今更強調しても意味がない。

 

「一生懸命、頑張ったから悔いはない」で終わらせてしまっては、この先の進歩も望むべくもない

 

一生懸命頑張ったのに何故、期待通りの結果を残せなかったか?」の自己分析を期待しているのだが「一生懸命、頑張りました・・・」で俯いてしまったり「悔いはない」と開き直られたのでは、サッパリ意思が伝わって来ないのである(競技直後のインタビューで、そこまでの分析を求めるのが酷かもしれないが)

 

大きな期待を背負いながら、それに応えられなかった現実を真摯に受け止め、課題にしっかりと向き合っているのだろうか?

と思えてしまうのだ。

 

しかしながら考えてみれば、マスコミの論調では「日本、惨敗」と言う事になっているが、本当にそうなのか?

 

元々、期待が大き過ぎたのだ」という側面も、否定できない気がする。その背景には確かに、それぞれ室伏の2004年アテネ五輪「金」、為末の2001年世界選手権「銅」、末續の2003年世界選手権「銅」といった実績はあったとはいえ、正直言ってどれもが出来過ぎだったり、他の有力選手が不調だったりという幸運によって齎されたものであり、誰一人としてコンスタントにメダルを期待できるような、トップに位置しているとは言い難いのが現実である。

 

現に「金メダル」を期待された室伏などは、決して不調だったのではなく、自己最高記録を叩き出しているのだ。それでも結果は6位なのだから、そういった意味では寧ろ彼らには「実力通りの妥当な結果」なのだ・・・と言えるのかもしれない。

 

ましてや女子走り幅跳びの池田や、男子走り高跳びの醍醐などは、それぞれ2006アジア大会で「金」と「銅」を獲得したとはいえ、元々現状では「アジアレベルの選手」に過ぎず、世界のトップとはまだまだ勝負にもならない実力にして、マスコミが無駄に騒ぎすぎるのである。

 

余談ながら「あり得ないですねー」を連発する、TV解説者のボキャ貧ぶりには呆れた。勝負事において「あり得ない」などというセリフは、全盛期のC・ルイスやF・ジョイナーのような圧倒的な実力を備えた怪物が予選落ちしたり、熱さにトチ狂って逆走したような場合のみに限定して、使用されるべき言葉である。

 

そんな中で、10年以上に渡って日本の陸上界を黙々と引っ張ってきたばかりでなく「アジアの希望の星」として輝き続けてきた男子100mの朝原の号泣は、どんな言葉にも勝る千金の重みがあったと言えよう。

 

 それにしても毎度の事だが、スタジオのサルと元バカアナのオバサンは、何のために存在しているのか?

 

特に「陸上オタク」のサルに至っては、ホスト役の立場を忘れて一人でポーズばかり取ったりはしゃいでいるのは、煩いばかりでなく見るにも耐えない。録画を録って、平日は深夜に観戦していたワタクシは、言うまでもなくスタジオ映像の部分は、まとめて早送りである。

 

そろそろTV局も少しは頭を使って、番組の構成を見直してはどうなのか。何度も繰り返すが「スタジオ映像」などは、まったく無用の長物なのだ。

 

世界陸上」の中継なのだから、スタジオの無駄な中年コンビのド素人解説などを垂れ流している暇があるのなら、意味もなくカットしている他の競技の中継をすべきだ。我々視聴者が期待しているのは、このような「くだらないスタジオ映像」などではなく、世界を代表するトップアスリートたちの戦いなのである。

 

毎度、売れないタレントに依存するくらいしか脳のないTV局は、足りない脳みそを使って無駄な構成を考える必要はまったくない。ただただ、漫然と競技を映し続けていた方が、よほど視聴者のニーズに合っているし、それはTV中継の権利を獲って代表放送をしている立場にあるものが、果たさなければならない義務なのだ。観ていればわかるように、女子棒高跳びのイシンバエワは別格だとしても、世界のトップアスリートたちは下手なタレント風情なんぞよりは、遥かに絵になる人々なのである。

 

それにしてもイシンバエワの存在感は、あらゆる意味で群を抜いていた。女優顔負けの美貌だけでなく、アスリートとして完璧に鍛え上げられたサイボーグのような美しいプロポーション、そしてあの底知れぬ実力である。彼女にとっての最大の敵は「待ち時間」であり、予選の試技の間タオルをスッポリ被って寝ているのはお馴染みの姿になったが、出番がやって来るまで2時間も待たなければいけないのだから、出番が来るまでのモチベーションを維持し続けるのは大変な事だろう。

 

勿論、実際には寝ているわけではなく、時折タオルを持ち上げて戦況を確認したり、観客の反応などを敏感に聞き取りながら状況を把握し、戦略を練っているのだと言われているが、立ち上がっただけであれだけの注目を浴びるのは、世界広しと言えども彼女くらいなもので、ブブカ以来かそれ以上の大スターである。

 

あの、女子テニスのシャラポワでさえ「ロシアでは平均レベルのルックスだから、欧米ほどの人気はない」と訊いた事があるが、確かにイシンバエワを筆頭にしたロシア女子選手団の美形揃いなのには、驚くほかはない。


※余談ながら、男子3000メートル障害決勝で表彰台を独占したケニア三選手が、みな同じような顔に見えて識別できなかったのはワタクシだけか? ( ´艸`)ムププ

2007/08/28

横審など要らん

  横綱審議委員会の委員長が、朝青龍のモンゴル帰国を容認する発言をしたという。

 

一体、この人物は正気なのか?

 

朝青龍の「モンゴル・サッカー疑惑」については、既に触れて来ているのでここでは繰り返さないが、謹慎中ながらモンゴルに帰りたがっている朝青龍本人と、なぜかは知らないが(買収されたか?)執拗にモンゴル帰国を勧める医師らに対し、帰国は断固認めないとする理事会という対立の構図が続いていた。

 

言うまでもなく、この謹慎期間中にモンゴル帰国を認めるような事は、絶対にあってはならない。そもそも「骨折」と偽って巡業を休みながら、モンゴルならバレないだろうとばかりに高を括ってサッカーをやっていたのが、この騒動のそもそもの発端なのだから、今度は「モンゴルで謹慎」と偽って、向こうでまた何をやらかすかわからないのは、自明の理である。

 

大相撲関係者は、どうしてこんなにも簡単かつ明々白々な事すら、理解できないのだろうか?

 

もし、モンゴル帰国を認めるというのなら、最低でも複数の監視員チーム(勿論、親方衆クラスの)による24時間交代の見張りをつけるなどして、日本に居る時以上に厳重な監視下に置く事が絶対条件であり、数度に渡って「親方失格」の烙印を捺されて続けて来たアサシオ豚が同行などは、もっての外である。

 

勿論、そんなバカゲタ人件費を割くよりも、そもそも「モンゴル帰国」の意図が、まったく理解できない。本当に治療をするのなら、どう考えても日本の方が遥かに適しているはずだから、日本の目を逃れて羽目を外そうと企んでいるとしか、考えられないのである。

 

それにしても報道を見る限りでは、朝青龍は今回の騒動によって想像以上に、かなりのショックを受けているようだ。身から出た錆とはいえ、ここまで来ると一人の人間としては幾らか同情する気持ちもなくはないが、正直たかだかこんな程度の事でそれほどのショックを受けているような事からして、明らかに「横綱失格」と言わざるを得ない。

 

横綱には「品格力量」が必要とされるが、それとともに「心技体」の充実がなければいけないのは、これまた言うを俟たない。今回の騒動を通して見た朝青龍は「品格」だけでなく「心(精神)」の方も、オハナシニならないくらいに横綱に相応しいレベルからはかけ離れて、非常に幼稚だった事を露呈した。

2007/08/25

皇居東御苑

皇居東御苑は、東京都千代田区の皇居の東側に付属してある広さ約21ヘクタールの庭園。宮内庁の管轄。皇宮警察がある。当地は、かつての江戸城の本丸・二の丸・三の丸跡に位置し、少し離れた場所の西の丸を含めた、この範囲のことを江戸城といった。緑豊かな雑木林に日本庭園や皇室関連の施設、江戸城の遺構などが残されている。戦後、特別史跡に指定され、1968年から一般に公開されるようになった。


 

かつての江戸城の本丸などがあった場所で、明治時代から戦前までは宮内庁や皇室関連の施設があった。戦後の1960年に閣議決定により一般公開される運びになり、1963年に特別史跡に指定、1968年から一般公開されるようになった。苑内は庭園のほか、歴史的な史跡も見ることができ、国内のみならず海外からの旅行者も多く訪れる。

 


ü  三の丸尚蔵館…宮内庁所管の美術品、絵画など貴重な品々を展示している。1993年開館。入館料は無料。

ü  宮内庁書陵部庁舎…40万点に及ぶ皇室の古文書と、全国に存在する陵墓の管理を行っている。

 

ü  宮内庁楽部庁舎

ü  桃華楽堂…香淳皇后の還暦を祝い、1966年に建てられた音楽堂。

ü  同心番所…同心が江戸城へ登城する大名の供を監視した。以前は、この番所の前に橋があり、御三家を除くすべての大名・役人は、ここで乗り物から降りて徒歩で本丸へ登った。

ü  百人番所…本丸・二の丸へ続く大手三之門を警護していた門。鉄砲百人組と呼ばれる甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組の同心100人が、昼夜交代で警護に当たった。

ü  大番所…本丸へと通じる中之門警備のための詰所。大番が詰めていた。

 

ü  諏訪の茶屋

ü  富士見櫓…現在のものは明暦の大火の後(1659年)に再建されたもの。江戸城の天守は、明暦の大火で焼失した後に再建されることがなかったので、それ以後、江戸城のほぼ中央に位置していた、この富士見櫓を天守の代わりにした。

 

ü  松の廊下跡

ü  天守台(江戸城天守跡)…本丸の北端に位置している。最初の天守は1607年に完成し、このときの天守台は少し北にあった。3代将軍家光が大改修を行い、最終的な完成をみたのは1638年。このとき、現在の天守台ができた。天守は、外観5層、内部6階建てで、天守台を含めた高さが58mであり、天気が良ければ房総半島からでも見ることができたという。しかし、明暦の大火で焼失してしまい、再建策もあったが、家光の弟である保科正之(会津松平家藩主)の反対により再建は延期され、それ以後天守は建設されなかった。

2007/08/22

野球はやっぱり面白い


 高校野球の決勝戦が行われた。

大会前のドロー(組み合わせ)を見てズバリ、密かに決勝の顔合わせを「帝京vs広陵」と予想していたワタクシにとって、広陵(広島)の勝ち上がりは予想通りだったが、対する佐賀北はまったく予想外のノーマークだった(恐らくは、ワタクシだけではなかったろう)

ともに一回戦から登場した両チームであるが、過去センバツでは3度の優勝、全国大会でも2度の準優勝の名門・広陵が、初戦で昨年まで三年連続で決勝を戦った強豪・駒大苫小牧(北北海道)を九回の逆転劇で破ると、二回戦から準々決勝までの3試合に大勝を重ね、準決勝では春夏連覇を狙う常葉菊川(静岡)を接戦の末に下すなど、優勝候補に相応しい堂々たる勝ち上がりっぷりだった。

一方、佐賀北の方は過去の実績だけでなく、大会前の評判も殆どゼロというところからスタートしたが、開会式直後の第一試合に勝つと二回戦では宇治山田商と、延長15回引き分けの末に再試合を戦った。実のところ「佐賀北」の名が、一気に浸透したのはここからであったろう。

その勢いに乗ったか、準々決勝では優勝候補の一角・帝京(東東京)と延長13回を戦って、大方の予想を覆す勝利を飾った勢いで、決勝まで駒を進める。

そうして、迎えた決勝。佐賀北に勢いは感じたものの、実力的にはやはり広陵が上であろうというのが、ワタクシ(のみでなく、恐らくは殆ど)の見方であった。

その決勝は予想通りの展開で、7回を終わった時点で-というスコアだけでなく、佐賀北は僅かに1安打しか打てずにチャンスらしいチャンスすら、まったく作れない。

(広陵が最も苦しんだ初戦の駒大苫小牧戦や、準決勝の常葉菊川との戦いが、事実上の決勝戦だったんだろうな・・・)

と思ったとしても無理はないような、力の差を感じさせるた展開だ。

これで終わっていれば、捻くれもののワタクシがわざわざここで「白球の青春」を採り上げるべくもないが、そのワタクシも(そして、恐らくは誰もが)まったく予想していないドラマが、ここから待ちうけていた。

2007/08/01

隅田川

隅田川は、東京都北区の新岩淵水門で荒川から分岐し、新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流河川を合わせ、東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川である。

 

現在「隅田川」と呼ばれている川は、元々は入間川の下流部であり、1683年(貞享3年)、また一説によれば寛永年間(1622-1643年)までは下総国と武蔵国の国境であった。1629年(寛永6年)の荒川瀬替えにより荒川の本流となったが、洪水を防ぐ為に明治末期から昭和初期にかけて岩淵水門から河口までの荒川放水路が建設され、こちらが現在「荒川」と呼ばれている。1965324日に出された政令によって荒川放水路が荒川の本流となり、分岐点である岩淵水門より下流は俗称であった「隅田川」に改称された。

 

古くは835年(承和2年)の太政官符に「住田河」として記されており、「宮戸川」などとも呼称されていた。

 

江戸時代に入ると、吾妻橋周辺より下流は大川とも呼ばれていた。今でも古典落語などでは「大川」が出てくる。また、大川右岸、特に吾妻橋周辺から新大橋周辺までを大川端(おおかわばた)と称する。

 

古隅田川

元荒川沿いの埼玉県さいたま市岩槻区南平野から、ゆるやかに蛇行しつつ春日部市梅田で古利根川に合流する河川と、東京都足立区中川付近で中川から分かれ葛飾区小菅で綾瀬川に合流する河川(現在は多くの区間が暗渠化されている)が、古隅田川(ふるすみだがわ)と呼ばれている。東京都の古隅田川は足立区と葛飾区の境界となっており、古くは現在の「隅田川」区間とともに、武蔵国と下総国の境界の一部を構成していた。埼玉県の古隅田川も併せて考えると、「隅田川」とは古くは現在よりも長い区間にわたって荒川を合わせた後の利根川、あるいはその分流の下流部を指す呼称であったらしい。

 

橋梁

江戸期において、防備上の視点から架橋が制限されたこともあり、明治期ごろまでは多くの渡しによって両岸が結ばれていたが、交通量の増加に伴い次第に木橋などで架橋が進んだ。後の関東大震災でその多くが被害を受けたために鉄橋に架け替えられ、また自動車時代の幕開けと供に、より多くの橋の建設が行われた。

 

それぞれが特徴のあるデザインとなっている(#画像参照)。近年では災害対策連絡橋を主とした橋や遊歩道的な歩行者専用橋なども架けられ、よりバリエーションが豊かになっている。

 

隅田川花火大会は、隅田川沿い(浅草、向島周辺)の河川敷において毎年7月最終土曜日に行われる花火大会である。毎年8月に開催される東京湾大華火祭や神宮外苑花火大会とともに、東京三大花火大会の一つに数えられる。

 

この大会は、1732年(享保十七年)に発生した大飢饉とコレラの死者を弔うため、1733年(享保十八年)旧暦五月二十八日、両国の川開きに花火を催したのが始まりとされる。この当時は20発前後の花火で、かなりのんびりとしたものであった。

 

打ち上げは最初期は鍵屋が担当したが、1810年に鍵屋の分家の玉屋(創業者は玉屋清吉、のちの玉屋市兵衛)が創業し、2業者体制となり双方が腕を競いあっていた。鍵屋と玉屋は異なる打ち揚げ場所から交互に花火を揚げたため、観客は双方の花火が上がったところで、よいと感じた業者の名を呼んだ。これが、花火見物でおなじみの「たまやー」「かぎやー」の掛け声の由来といわれる。

 

当時、評判がよかったのは玉屋のほうで、「玉やだと又またぬかすわと鍵や云ひ」と川柳にあるように、玉屋の掛け声ばかりで鍵屋の名を呼ぶものがいない、といわれた時代もある。ただし、玉屋は1843年(天保14年)に火災を起こし、江戸処払いを命じられ、1代限りで断絶した。その後も江戸のすぐ近くで細々と営業していたという説もある。

 

両国川開きの花火は、明治維新や第二次世界大戦などにより数度中断した。1961年(昭和36年)から1977年まで、交通事情の悪化等により中断するが、1978年(昭和53年)に現在の名称として復活し、以後毎年続けられている。

 

毎年100万人近い人出が見込まれるこの大会は、桜橋下流から言問橋上流までの第1会場と、駒形橋下流から厩橋上流の第2会場合計で2万発の花火が打ち上がり、同時に花火コンクールが行われる。なお、この模様はテレビ東京だけで放送される。

 

2007年(平成19年、728日開催)は30周年を記念し、22千発と通常より2千発も多い花火を打ち上げた(なお、2007年は当日開催のみで、当日雨天や強風の場合の順延はなし(事実上中止)だったが、これは翌日が第21回参議院議員通常選挙のため、投票所が花火大会会場内にあるため安全上の理由によるものであった)。

 

なお、2008年は726日(土曜日)に開催された。

 

花火コンクール

両国ゆかりの花火業者7社と、全国花火競技大会などで優秀な成績を押さえた3社の合計10社が、花火の美しさと技を競う。なお、表彰式はコンクール終了後に行われる。