穴切神社には、次のような言い伝えがあるという。
<昔、大半が湖だった甲府の地を大己貴命(おおなむちのみこと)が切り開いて水を通し、耕作ができる土地にした。その後、大己貴命は穴切大神と呼ばれるようになった。穴切神社には、大己貴命が祀られている。
「湖水を落として盆地を開拓した話は全国各地にあり、甲府盆地のこの説話もその代表的な説話の一つ」とある。周りを囲まれていた土地の一部を切り開いたために、穴切となったというわけだ>
<甲府の穴切も、その地名は地形の特徴に由来すると考えられる。山に囲まれた盆地で一方が切れている事から、穴切という地名がついたのではないか。
他にも、穴切という地名があるか調べてみた。
『新日本地名索引 五十音篇』をめくってみる。『新日本地名索引』は「国土地理院発行の2万5千分の1地形図に現れる地名の位置を経緯度で示した索引」
である。
この資料によると、穴切という地名は全国に4つある。桐生市の穴切の他には福島県会津若松市、静岡県東伊豆町、群馬県月夜野町にある。これらはあくまで、国土地理院の地形図に記載されているものを拾っただけで、おそらく他にもあるだろう。それぞれの穴切の地形を地形図で調べてみた(東伊豆の穴切は、穴切湾としての記載だったので未確認)
会津若松市の穴切については、地形図を見ただけでは地名の由来まではわからない。山に囲まれた、盆地状の土地の一部である事は確かである。一方の月夜野町の方は、地名の由来がその地形から発生しているのが、よくわかる。三方を山に囲まれた地形で南側の一方だけが、ちょうど口が開いたように切れている。
山塊の一部がちょっとだけつまみ取られ、穴が開いた様な形状になっている。「あなぎれ」という、地名のイメージそのまま地形である>
<以上、穴切という地名について色々みてきたが、結論を言うと穴切とは地形を表す言葉である。地名の起源は、その地形を由来とするものが最も多い。昔の人々は、かなり詳細な地形の特徴まで捉えて、特定の場所を言い表した。地形の特徴をいえば、その地域の人々全てがその場所を特定しうるような名前をつけた。それが後年、地名として定着するのである。
「穴切」という地名も、その地形の特徴に由来したものである。桐生の穴切は地形図を見れば明らかなように、細長い穴状の地形から発生している>
<梅田四丁目の一角に「穴切」と呼ばれる地域があります。ここは、昔「穴切れ」と呼ばれていた事もあります。「穴切れ」とは変わった地名ですが、それは次の事に由来するのです。
昔の事でした。とある合戦に敗れ、下野(栃木県)の山野を追っ手の目を気にしながら命懸けで逃げ回り、さ迷い続けた一人の落人(おちうど・合戦に敗れた武士)が、やっとの思いで貝沢(現在の梅田町4丁目皆沢)に辿り着きました。
春の盛りもすでに過ぎ去った、初夏のころでした。貝沢に辿り着きはしたものの、落人にはそこがどこのなんという土地であるのかは、知る由もありませんでした。ただただ、もう追っ手に脅える心配がなくなったことを知り、安堵するのみでした。
その安堵感は反面、落人の体の内に長い間に渡った疲労と心労とを、ドッと噴き出させました。それでも、その場に身を投げ出した気だるさの中で、落人はこれからの我が身の振り方を案じ続けました。
とにかく
「ここは、どこなのか。なんとか上野の国(群馬県)へ、逃れる術はないか」ということが、気がかりでした。
そんな思案を巡らせながら、何気なく見つめた目の前のガサヤブを落人は凝視してしまいました。なんと、けもの道(けものたちの通り道)らしい小道が、雑木の間を奥へ奥へと向かっていたからです。しかも木々の緑の重なりが、あたかも洞穴の入口のように口を広げ、まるで落人を招き入れるかの様相を呈しているのです。
「この道の先が、あるいは上野の国?」落人は、ふと、そう思いました。でも行く手に、どんな危険が待ち受けているのかは、落人自身にも想像さえつきません。が、敗戦で一度は死を覚悟したほどの落人です。
「この道の先が、どこであろうとかまわない。上野の国であることを信じて、とにかく辿ってみよう」
落人はすぐさま、ケモノ道をたどる決意をしました。疲れた体内に、活力・気力が戻るのを感じた落人は、躊躇う事なくケモノ道の通じる樹間に足を踏み入れました。消しながら、歩を進めることしばし・・・・・突然、眼前が明るく開けて長閑な農村の風景が、落人の目に飛び込んで来たのです。
幸運にも、そこはまさしく逃亡の日々、落人が願望し続けて来た上野の国だったのです。ガサヤブの中のケモノ道が、夢にまで見た上野の国へと落人を導いてくれたのです。まさに神仏の加護以外の、なにものでもありませんでした。
樹間の穴、緑のトンネルが突然に切れて、敗戦の地「下野」から安息の地「上野」へ・・・・・この落人の話によって、この土地はやがて『穴切れ』の名で呼ばれるようになりました。そして、幾星霜の後に『穴切』という、現在の地名に改められたのです>
<かつては、長閑な農村地帯だった穴切地区。菱村から、この穴切の地へと雑草を生い茂らせて続いていた細い生活の道は先年、広い舗装道路に拡幅改良されました。
桐生川を跨いでいた郷愁の木橋「穴切橋」も、デラックスな永久橋に架け替えられました。この穴切地区の変容の蔭に、地名の由来を伝える素晴らしい「落人伝説」は、残念ながら遥か歴史の彼方へと押しやられてしまいました。
今は里人のお茶飲み話にさえ登場するチャンスが、本当に少なくなってしまったようです。が、幸いな事に『ふるさと創生運動』の一環として先年、地区内の小道に「穴切通り」の愛称が贈られました。この愛称が、あるいは「落人伝説と地名の由来」を、子々孫々へ伝える掛け橋になってくれるのでは・・・そんな仄かな期待が、寄せられ始めて来ているのです。>
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