<かつては「ひんがしのとい」と、発音していたようである。
「洞院」とは天皇が退位した後の住居を意味するが、この大路にはその名称に相応しい院や内裏が堂々と構えられていた。高陽院・花山院・小一条院・大炊内裏・二条殿・小二条殿・東三条内裏・六条内裏・東八条院・八条院と、北から南へ時代に若干のずれはあるが、陸続として建てられてその偉容を誇った。しかし中世に入ると、少しばかり変化を見せ始める。相変わらず院御所も存在したが、武家群が進出して邸宅を構えるようになっていた。
姉小路あたりには、一時期「鎌倉殿宿所」も登場していた。室町時代になるとさらに変貌し、南の下京では酒屋・魚座、さらに五条大路(現松原通)辺りには京都唯一の傾城町が形成され、ちょっとした歓楽街をつくっていたのである。 無論、応仁の乱でこの通りも荒廃したが、不思議な事に一条東洞院では唯一内裏が生き残って、その存在をアピールしていた。
秀吉による大改造は東洞院を回復させたが、この勢いは江戸時代に入っても続いた。秀吉・家康と続く皇居の再建・拡大は、北域で事実上この通りをストップさせたが、十八世紀初頭の宝永の大火後の皇居拡大で完全に丸太町通以北の道は消滅してしまった。これに対し、南の方へは発達を遂げた。特に竹田街道(大和街道)へ連なる幹線道路となったために、市内の車馬道路として注目された。
江戸時代中期、享保年間(1716~36)になると、その交通渋滞はピークに達した。町々の訴えによって対策を協議した結果、町奉行所はこの通りを北行き一方通行としたのである。日本で最も早い市内の一方通行規制が、この通りから始まった。
<『源氏物語の地理』という書籍にも『「東院大路」の呼称と、源氏の二条院』という題で収録されています。「洞院」は元々は「東院」で、一條天皇御代前後までは「東院」と表記されるのが、一般的だったようです。一條朝以後になって「洞院」と表記される例が、多くなっていったのです(「東院」の表記は、その後も見られます)
「東院大路」は「東院」と称する、邸宅が面する大路という意からの呼称と考えられますが「東院」の名で知られる邸宅に後の「花山院」もあり、太政大臣藤原忠平公が伝領していた頃に、本邸の「小一條殿」の東にあった事から「東家」とか「東院」と呼ばれていたようです。「東院東大路」(後の東洞院大路)は、この「東院」に因むと考えられます(「東院大路」だけでも、この大路を指します)
また「東三條殿」も「東院」と呼ばれていたようで、宇多天皇の母后である班子女王が一時期、ここを邸宅としていたとされています。「東三條殿」が「東院」と呼ばれたのは、太政大臣藤原良房公が所有していた頃から「閑院」の東にあったからではないか、とされています。「東院西大路」(後の西洞院大路)は、この「東院」に因むと考えられます。
東洞院通は、多少名が売れていて「ひがしのとういんどおり」と読む事も知っている方が多いだろう。しかし、ここは【しんひがしどういんちょう】である。 しかも場所は、ぜんぜん近くない。
まず、新東洞院町周辺の地図を見ていただきたい。鴨川の東、二条から三条までの一角であるが、よ~く見ると不思議な事に気づく。仁王門通の南北に、やけに「新xx通」や「新xx町」が、多いではないか。京都御苑に突き当たって終わる通りの名に「新xx通」が、ずらりと並んでいる。
なぜこんなことになったかというと、宝永の大火(1708)の時に御所エリアを丸太町通いっぱいまで拡大し、その辺の町をごそっと強制移転させたのである。 移転させられた人々は、元の居住地にちなんだ地名をこぞって採用した。そのくらいのわがままは聞いてやらねば、という為政者の判断もあったのだろう。
東洞院の読み方の違いは、元々そういうばらつきがあったのか、それともその後の歴史の中でどちらかの読み方が変遷したのか、その辺の事情には詳しくない。さらに地図を見比べていると、面白いことに気がつく。
車屋町、東洞院、間之町の三つの通りは、新旧とも西から同じ順序で並んでいるが、高倉、堺町、柳馬場、富小路、麩屋町の五つは、なぜか新旧で東西が逆転している。間之町と高倉の住民が、移転先でも近くに住みたがったのか?
それに鴨川寄りの新丸太町通は南北の通りになっているが、元の丸太町通はいわずとしれた東西方向の通りである。もっとも丸太町通の西の先、嵯峨寄りの道路を新丸太町通と呼んだりもしているので、ややこしい。なお、同じく御苑にかじり取られた御幸町通の北端部は、鴨東ではなく上京区の新御幸町という場所に移ったらしい。
なおなお、御幸町通は「ごこまちどおり」新御幸町は「しんごこうちょう」と読む。あぁ、ややこしい。
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