<地名用語で「池袋」とは洪水時に谷戸の窪、つまり行き詰ったところにできる自然の遊水池で、洪水が引くと何れ乾燥するか湿地帯となるところを言う。 中野区沼袋も、同様の地形だ。袋と窪はほぼ同義で、袋町は通り抜けられない行き止まりの町を表す。
しかし、ここの池袋の由来は
1.夥しい数の池があった(遊歴雑記)という説
2.亀が袋を背負ってきた(若葉の梢)という説
1.夥しい数の池があった(遊歴雑記)という説
2.亀が袋を背負ってきた(若葉の梢)という説
の二つがある。
駄洒落の類いとの悪口もあるが、池の一つが学習院構内にある池だという。血洗池の事だろうか?
学校の敷地となってから、堀部安兵衛が返り血を洗ったという寝物語を作っておどろおどろしく命名したが、正式な名称は「高田村用水池」という。早稲田田圃があるのに態々、こんなとこまできて血刀を洗うバカはしないだろう。また、刀に付いた血はすぐに拭き取らないと、水洗いぐらいでは膏(あぶら)が落ちない。騒動の後、その辺りの民家で風呂を貰っている。普通、そこで洗うだろう。しかし、それにしても用水池が池袋由来の池の一つというのは、いかにも面白い。
せめて立教大学の間違いにしといてくれ。
立教は、谷端川の沿岸にある。谷端川は水源の先で、千川の養水を受け長崎鼻を迂回して、中丸村・金井窪村・池袋村・巣鴨村西端を通る。池袋は村が成り立つまで、洪水が引いた後に凸凹の低地にできた夥しい池のある湿地帯だったとしても、首肯できる環境だ。
「地高くして東北ばかり水田あり、其地窪にして地形袋の如くなればなれば、村名起こりしならん」と『新編武蔵風土記稿』にある。まったく、その通りの地形だ。大小の池や沼、水溜りが固まってある遊水池の様を袋に入れたようにイメージして、そう呼んだに違いない。
巣鴨も多くの池に関わる名前らしいので、同じ湿地帯をいったのかも知れない。金井窪・池袋・巣鴨は、同じ谷端川の湿地に入り組んでいる。村境などあって無きがごとき時代、太古から今日までここが巣鴨、ここが池袋と確定は出来まい。
『小田原衆所領役帳』に「江戸菅面之内中丸」があり、中丸が巣鴨の内なら、金井窪も池袋も巣鴨の内という事になる。村境は、流動的でも当然だ。だから池袋は、池袋本町だ。今の池袋という住所のところは、当時は寒村僻地。
麦畑の垂り穂のうえにかげ見えて電車過ぎ行く池袋村(牧水)
人々は閉鎖的で、江戸では池袋村の女を雇ったり娶ったりすると祟りがあると信じられ、そのために川柳の格好の餌食だった。
慰みになる化け物は池袋
池袋家鳴りをさせた罰で化け
仁和寺の騒ぎのような池袋
石投げをしてぼろの出る池袋
瀬戸物や土瓶がみんな池袋
口を閉じてもふくろびる池袋
江戸では、池袋村の女性は敬遠された。閉鎖的な環境のため他村から嫁の来手がなく、それゆえに村の女性が出て行くことを極端に恐れた男たちが、雇い主に嫌がらせをして村に引き戻そうとした、背に腹は代えられない悲しい裏事情があったのだ。それだけにアメリカと一緒で、レディーファースト。平たくいやぁ嬶天下。
女房の案事で決める池袋
この閉鎖的頑固さが本領を発揮したのが、新住居表示のときだ。初め区は「北池袋」を予定していたが、住民は池袋の端っこのように扱われることを断固拒絶した。「我々が本村だ」と。駅は村外れに作られるのが習いである。だから、池袋本町こそ池袋だ!
戦国時代から「池袋」という地名が使われていることは分かっており、江戸時代の古文書からもその名を見つけることができる。現在の池袋駅西口のホテルメトロポリタン付近に存在していたとされる、袋型の大きな池が袋池と呼ばれており、それが直接の由来となったという有力な説があるが、確かなことは分かっていない。
ポリネシア語による解釈
新宿と並ぶ繁華街となったこの地は元池袋村で、地名の由来は江戸期にホタルと月の名所であった丸池周辺が窪地で袋のようであったから、古くおびただしい池があったからなどの説があります。
この「いけぶくろ」は、マオリ語の「イケ・プク・ロ」、IKE-PUKU-RAU(ike=high,strike with a hammeror other heavyinstrument;puku=swelling,abdomen;ro=roto=inside)、
「膨らんだ丘の内部を、槌でめった打ちにしたような(地形の場所)」の転訛と解します。
出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
出典http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
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