「ロッシーニの料理」より引用
「ベッドと食卓に礼儀は不要」というのが、イタリア人の鉄則。快楽の肯定にかけて、他民族の追随を許さぬ彼らは、ひとたび食事を始めて食の快楽に身を委ねれば、手づかみだろうと汁をはね散らかそうと、お構いなし。まるで「食べるために生きている」と言わんばかりの健啖ぶりを見せる。ベッドの中でもまたしかり、かどうかは定かでないけれど、多分そうなのだろう。
古来「衣食足りて礼節を知る」と言うけれど、礼節を知ってなお究めてみたいのが美食ではなかろうか。その昔、皇帝や王侯貴族の特権だった美食も、現在は私たちの手の届くところにあるからなおさらだ。その基礎を形作ったのが、19世紀初頭のフランスに巻き起こったグルメブームだった。火つけ役は、ブリア=サヴァランの著した『美味礼賛』(原題:『味覚の生理学Physiologie du gout』) 1826年にパリで初版が出版され、今日まで脈々と読み継がれている、この本に書かれた有名な格言を引用してみよう。
『動物は食らい、人間は食する。教養があって、始めて人は食べ方を知る。食卓の快楽は、年齢、身分、生まれた国を問わず、総ての人に毎日ある。それは他の様々な快楽がなくなっても最後まで残り、私たちの慰めとなる。新しい美味の発見は、人類の幸福にとって天体の発見に優る』
かくして料理は芸術、美味探求は教養人の嗜みと認知されるに至った。そして歴史に名を残す、稀代の食通たちが現れる。中でも有名なのが、イタリア人の作曲家ロッシーニ(Gioachino Rossini、1792-1868)だ。オペラ『セビリャの理髪師』『ウィリアム・テル』で天才作曲家の名声をほしいままにした彼は、37歳の若さで引退して美食三昧の後半生を送ったと言われるが、それだけではない。 ロッシーニは料理の創作に情熱を注ぎ、トリュフとフォアグラを使った様々な料理に、その名を残したのである>
なんだ、作曲家が料理人に転進しただけか、と思ってはいけない。ロッシーニはロスチャイルド家のシェフと親しく交際し、パスタ料理の真価をフランスに知らしめ、晩年には各界名士を招いて毎週美食の晩餐会を催し『ロマンチックなひき肉』、『バター』など料理や食材の題名の音楽まで作曲したのである。まさに多芸多才、筋金入りの美食芸術家だ。篆刻(てんこく)、書画、陶芸、著作、食通、料理家として名高い、北大路魯山人に当たる人物と言えば、お分かりいただけるだろうか。ちなみに、魯山人は人間国宝の認定を辞退し、ロッシーニは
「勲章より珍味の方がうれしい」と言って、勲章を送り返した。真の芸術家なればこそ受勲や位階に頓着せず、己の道を究めることができたのである。
美食家ロッシーニの名を冠した料理の中で、とびきり有名なのが「トゥルヌド・ロッシーニ」である(別名「ロッシーニ風フィレ・ステーキ」)
パリの有名レストラン、カフェ・アングレCafe Anglais(1802年創業)のシェフにロッシーニが伝授したとされるこのステーキ、フランス料理の神様オーギュスト・エスコフィエの名著『料理の手引きLe guide culinaire』(1902年パリ刊)にも作り方が書かれている。
「トゥルヌド(牛フィレ肉の心部=クール=シャトーブリアンと隣接する希少な部位)をソテし、濃縮肉汁をかけた揚げクルトンの上に置く。それぞれのトゥルヌドへ、バターでソテしたフォアグラの切り身をのせ、その上に数枚の薄切りトリュフを飾る。マデイラ酒と、トリュフ・エッセンス入りドゥミ=グラス(肉や野菜を煮詰めて作る、濃厚なソース)でデグラッセ(鍋底に残る焼き汁やうまみを、少量のワインなどで溶かし取ること)した焼き汁をかける」
古典料理の精華とされるこの料理について、フランスの歴史家J.F.ルヴェルは「ロッシーニが、筋金入りの食通であったことを今なお実感させる。見かけはシンプルだが、その背後に高級料理の技術がある」と述べている>
この「ロッシーニ風ステーキ」、高級レストランはもちろん、近年では某ファミリーレストランの特別メニューになっているので、ご存じの方も多いと思う。独特な触感のフォアグラと、ほどよく柔らかなトゥルヌドが口の中で溶け合い、濃厚なマデイラ・ソースとトリュフの香りが絶妙なハーモニーを奏でる。まさに舌福、至福の料理である。ロッシーニの時代は、フランスでレストランが誕生して花開いた時期に重なる。
一方「シェ・イノ」といえば、現代の日本のフランス料理に新しい時代を開いたことでも知られる一軒。そこで、ロッシーニの料理が現代に甦ったと言えそうだ。
「トゥルヌド・ロッシーニ」、すでにレストランで舌鼓を打った食通も多いことだろう。では皆さんは、料理の名称「トゥルヌド(tournedos)」の由来を、ご存じだろうか。その語源は不明とされており、博学なシェフ、レイモン・オリヴェも著書にこう記したほどだ。
「我々は、ロッシーニの名をもつトゥルヌドが、彼自身の創作であると知っている。だが、トゥルヌドという言葉の語源を知らぬ」
しかし、イタリアの料理研究家マッシモ・アルベリーニは『食卓4000年史』(1972年)に、次の逸話を紹介している。
ある日、ロッシーニは新しい肉料理を思いつき、自分のコックに調理させた。 台所で調理手順を監視する主人を邪魔に思った料理人が「そんなことをされても、うまく作れません」と嘆くと、ロッシーニは答えた。
「それならよそを向いて調理したまえ、私に背を向けてね(tournez moi le dos)」
そう、フランス語に言う「背を向けろ/そっぽを向け」が、トゥルヌ・ル・ド(tourne le dos)なのである。そしてロッシーニのひと言が、そのまま料理名になってしまったのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿