2008/11/25

乙女峠

 <仙石原の農家に、源蔵という父親と暮らすひとり娘がいました。名を乙女といい、村一番の器量良しでした。病弱な老父をいたわり、家事は言うまでもなく畠仕事にも精を出して働く評判の孝行娘でした。

乙女が17才になった年、源蔵は持病が進んで寝たきりの日が多くなりました。ある夜ふと気がつくと、乙女がそっと床を抜け外へ出て行きます。近所へ、お針の稽古にでも行ったものと、あまり気にもしないでおりましたが、次の日もまた次の日も夜中になると、そっと出かけます。そのうちに村人の間に、乙女に男が出来て毎晩通っているそうだという噂が立ち、このことが源蔵の耳に伝わってきました。

ある夜のことです。源蔵が寝つかれないまま目を閉じていると、乙女がそっと家を出て行きます。寒い晩でしたが数日来、体の調子が快方に向かい起きられるようになっていましたので、思いきって雪の足跡を頼りに娘の後を追いました。足跡は、峠を越してまだ続いています。それを頼りに峠を下りかけますと、雪だるまの中に娘が倒れています。すぐに助けたいと思いましたが、親に内緒で勝手なことをする罰だと、横目で見ながら行く先を確かめたいと、足跡をたどりました。足跡は峠を下って竹の下の地蔵堂の前で止まり、そこから引き返していました。

堂守りに尋ねたところ、意外にも3ケ月前から毎晩参拝に来る娘があり

「自分の命を縮めてもよいから、父の病気を治して下さい」

と一心に祈っていたが、今日が丁度100日の満願日になる、と教えてくれました。事の一切が判った源蔵は大急ぎで引き返し娘を抱き起こしましたが、既に冷たくなっていました。源蔵は今さらのように自分の浅はかな考えを恥じて、泣くばかりでした。村人も伝えを聞いて、この峠を乙女峠と呼んで霊をなぐさめました>

 <仙石原は、神奈川県箱根町の地域。ススキの草原や、仙石原温泉で有名だ。一帯は1956年まで仙石原村だったが、旧・箱根町などと合併し箱根町となった。箱根火山カルデラ内の北部に位置し、湿原や草原が広がる。これは、かつてこの地域がカルデラ湖の一部だった名残りである。現在は、一部が別荘地やゴルフ場として整備されている。

仙石原の名前は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名、信濃小諸藩の初代藩主、仙石秀久に由来する。また、源頼朝が雄大な原野を眺めて

「この地を開墾すれば、米千石は取れるだろう」

と言ったのが、この仙石原の由来と伝えられている説もある。現在は箱根ラリック美術館、ポーラ美術館、星の王子さまミュージアム、ガラスの森等の美術館が点在し、美術館目当ての観光客も多い
出典 Wikipedia

ポリネシア語による解釈
「テネ・コクフ」、TENE-KOKUHU(tene=be importunate;kokuhu=insert,fill up gaps where plants have failed in a crop,bastered)、「丹念に(火口原の)隙間を草が埋め尽くしてできた(原)」(「テネ」の語尾のE音が脱落して「テン」から「セン」に、「コクフ」の語尾の「フ」が脱落して「コク」となつた。

「オ・ト・マイ」、O-TO-MAI(o=the...of;to=drag,open or shut a door or window;mai=hither,indicate direction or motion towards,become quiet)、「(駿河国から相模国へ)出入りする場所(峠)」(「マイ」のAI音がE音に変化して「メ」となつた)  の転訛と解します。

 <乙女峠は、奈良時代から人が通う交通の要所でした。そしてここは江戸時代、関所破りが通る道でもあったのです。その当時は、旧道(旧東海道)が幕府の定めた道で、旅人は必ず箱根関所を通らなければなりませんでした。

「入鉄砲に出女」という言葉を日本史で習いましたよね。関所では江戸に鉄砲が入ってこないように、それから大名の子女(人質)が逃げ出さないように、厳しい検査をしていました。

問題の箱根関所ですが、ここは数ある関所の中でも特に出女に対する検査が厳しかったようです。男の場合は、手形を見せれば簡単に通してくれたのですが、女の場合は簡単に通しません。箱根の関所には人見女という係がいて、特に女を厳重に検査したのです。

当時、女の手形にはホクロの位置とか、頭のどの辺にハゲがあるとか本人を特定するための項目が、たくさん書かれていました。人見女は手形の人物に間違いないか、クシで髪の毛をかき分けたり体のホクロを検査していたのです。

さて問題の乙女峠ですが、名前の由来は若い女が関所を通らずに乙女峠を越えようとして役人に捕まり、ここで火あぶりになったからという説があります。 

他にも(前回ご紹介したように)乙女という娘が、毎晩この峠を越えて父親の病気が治るように、地蔵堂にお参りをしたなんて話もあるんですけど、本当のところは良くわかりません。ひとつだけ確かなことは、ここが大昔から人が通う道だった、ということだけです。

箱根の関所が出来た後、この道は閉ざされて仙石原に裏関所が置かれたのですが、この峠は当時「御留峠」と呼ばれていたそうです。これに女の話がくっついて乙女峠になった、というのが本当のところではないでしょうか>

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